道徳の秘訣は「理解」である、教えに興味のない家族との接し方、魂がないから輪廻が成り立つ
パティパダー2010年3月号(151)
・道徳の秘訣は「理解」である
・教えに興味のない家族との接し方
・魂がないから輪廻が成り立つ
道徳の秘訣は「理解」である
道徳についてお聞きします。道徳を守って生きなければ、ということは分かるのですが、十善十悪といった仏教の道徳項目を見ると、それらを日々の生活で全部は守れていないし、実際守るのは難しいな、と思ってしまいます。自分が守っていない、守れない道徳について、どう考えればいいでしょうか?
まず道徳について理解してほしいのです。なぜ道徳があるのか?どうして守らないといけないのか?といったことを理解して、道徳を守ってほしい。そうでないと、道徳を守ることで頑固な人間になる場合もあります。例えば「私は菜食主義者だ」というふうに凝り固まると、付き合いたくない、嫌な人になってしまうのです。
それだと、道徳ではなく、お釈迦様が禁止した変な「行」になってしまうのです。お釈迦様が仰っている道徳のエッセンスは、「生命にやさしくしなさい」ということです。生命にやさしくすることは善いか、悪いかと自分で確かめられるでしょう?「自分はやさしくされたいのだから、他人にもやさしくすることだ」と自ら理解できる。それで「他を殺してはいけない」という不殺生の戒律を守っていることになります。自分が守っている道徳項目を誇示する人は、あまり頭が善くないのです。きちんと道徳のエッセンスを捉えている人は、項目の数など数えません。「生命にやさしくしなさい」というエッセンスを守った方が、遥かに範囲が広くなる。できれば皆様も、項目を増やすのではなく、エッセンスで戒律を守ってほしいのです。その方が幅広い人格者になれます。
それから、質問への直接の答えも出します。自分が守っていない道徳項目があったら、「なぜ守れないのか?なぜ破りたくなるのか?」と学んでみてください。そうやって自己観察をすることで、理性を育ててほしいのです。
カルト的に、儀式的に戒律を守ることは、仏教で禁止しています。性格の弱い人なら、カルト的にでも守ってくれるのはありがたいけれど、あまり価値はないのです。「自分は善い人間になってみせる」というのは自分自身への挑戦です。よい性格になろうではないかと挑戦するだけで、すごく明るい人間になります。自分に対して、「捨てたもんじゃないんだ」という気持ちが生まれてくる。欝気分になる暇なんかなくなって、脳がしっかり回転してくれます。我々は時々、道徳違反をしますが、その時は明らかに怠けているのです。あるいは自分の自我を張って、「オレが好きだからやっちゃうんだ」という状態もあるし、感情に囚われて自己管理できなくなる時もあるでしょう。
道徳を守るということは、一人ひとりにとって、人格成長の挑戦になります。我々はいつでも、「試合中」です。グラウンドにいるのです。欝になっている暇はないのです。道徳・戒律を守るということは、自分を24時間、グラウンドに立たせることです。試合ですから、勝ったり負けたりです。野球で一試合負けたからと言って逃げますか? それはプロではないでしょう。その敗北から学んで、次の試合に生かすのです。相手の投球を一球ごとに研究する。それで次の準備をするのです。
道徳とは「自分が他の生命とどんな関係を結ぶのか?」ということなのです。実践してみると、全然大変ではないのです。それどころか、気楽になるのです。道徳を守っている人からすると、なぜ世の中の人はわざわざ苦しい世界に自分を追い込むのかと思ってしまうのです。
芸能人が覚醒剤で逮捕されたりしても、一般人から見れば「なぜそんなバカなことをするのか?」と思うでしょう。道徳を守る人から、守ってない人を見てもそう思うのです。道徳を守ることはすごく楽です。守らないよりは、守る方が楽なのです。道徳がめんどくさいと思うのは、理解していないからです。形で、カルト的に見ているからです。「あれこれと道徳で縛り付けて、人間をいじめるのが宗教だ」と思っているのです。確かに宗教は人をいじめますが、仏教はいじめていないのです。お釈迦様は、「私は幸福の道を説いているのです」と一貫して仰っています。
嘘をつきたい人にとっては、「嘘をつくなかれ」という戒律を守るのは難しい。でも、つきたい放題に嘘をついて、幸福になれるでしょうか? 我々の世界は、「オレは思う存分嘘をつくけれど、おまえらはつくな」という態度でいます。そこで、その人は勉強するのです。「なぜ、自分は嘘をつきたいのか?」と。そこで、自分が良い人間ではないのだと気づくのです。「誤魔化したいことがあって、人の信頼を裏切っている。だから嘘をついているのだ」と気づくと、その人は自分の中身を直そうとするのです。自然と、嘘をつけなくなるのです。
“道徳の秘訣は「理解」である。”
この言葉だけ、覚えておいて下さい。例えば酒を止めて、また飲みたくなったとする。飲みたくなった自分を観察してみれば,何かを発見するはずです。自分にはこれこれという問題があって、飲みたくなったのだと。そこで、「自分が弱かったから」という答えが出てきます。「自分は芯が弱いんだ。くやしいから、次はその弱さに負けないぞ」となる。このように、道徳は理解・納得に基づいて日々実践するべきものです。日々、グラウンドで自分の性格と試合中なのです。
教えに興味のない家族との接し方
自分は仏教を知って助かったと思っています。しかし、家族はぜんぜん教えに興味がないようです。また、親戚がしつけと称して、子供を怒鳴ったり殴ったりするのです。それを見ると、すごく嫌な気分になって距離を置きたくなります。このような人々にどう接すればよいでしょうか?
家族には言葉ではなく、生き方で示すことです。仏教を持ち出して、こうするべきだ、と言葉で説教しても意味がありません。無意識的に、「なるほど、こちらの方が良いな」と分からせることです。
また、親戚の子供が殴られそうになったら、さっと間に入って守ってあげてください。こういうケースでは、仏教がどうのと持ち出すことは、なおさらダメです。親が神経質で大人になっていない場合は、その性格が子供に移ってしまいます。親が精神的に大変な状態だったら、子供も不安定になる。ですからその子供がしっかりと精神的に成長できるように、あなたができる範囲で割り込んで下さい。ジワジワとその親子の仲介役の役割をしてあげて下さい。
児童虐待は暴力団よりひどい犯罪です。私は体罰を肯定しませんが、もし体罰を使う場合でも、すごく技術がいるのです。怒りで子供を殴ったりするのは親であっても犯罪です。少しでも怒りが入っていたら、体罰ではなく、犯罪です。子育てする時、ほとんどの場合、殴らずに済みます。体罰は野蛮な行為です。動物を畑で働かせたりする場合でも、殴るのはけしからん話です。子供を虐待するならば、親権を剥奪するのが正しいのです。子供は社会の財産なのですから。
魂がないから輪廻が成り立つ
輪廻転生について教えてください。私は「永遠の魂が輪廻する」と思っていたのですが、仏教の輪廻は違うのでしょうか?
なんども答えた質問ですが、手短に答えてみたいと思います。仏教の輪廻論は妄想家の遊びではありません。高度な智慧で発見された真理です。ですから、輪廻について、二三分で説明するというのは、ちょっと無理なのですね。ひとつ理解してほしいポイントは、「魂がないから、輪廻転生が成り立つのだ」ということです。すべて変化するからこそ、輪廻が成り立つのです。
ものが完全に消えてしまうということはありえない。しかし激しく変化し続けます。実体たるものが何も無いからこそ、変化が可能なんです。輪廻の説明で「魂」を持ってくる人は、極限に頭が悪い連中です。永遠の魂と、輪廻転生とはまったくかみ合わない話なのです。
物質はエネルギーだから変化し続けます。こころもエネルギーだから変化し続けるのです。人は死んだらすべてキレイさっぱり無になるというのは危険な思考です。道徳が成り立たなくなるからです。何をやっても死で終わるなら、「オレは人を殺したいから殺したんだ」という開き直りも成り立つ。それならば、「輪廻はわからないけど、あるんじゃない?」というペンディング状態のほうがいい。もしあったら気をつけないといけないのです。いまの生き方で来世の生き方が構成されるのですから、今世でも必ず善い生き方をしないといけないことになるのです。
釈尊が説かれた輪廻について理解するには、たいへんな智慧が必要です。しかし、輪廻が分かっても分からなくても、道徳的に生きるべきことは論理的に考えれば答えは決まっているのです。増支部経典の「カーラーマ経」にありますが、悪を犯す人は来世がなくても現世で非難され不幸になります。来世があれば、もちろん、来世でも悪の報いを受けるのです。善に励む人は、たとえ来世がなくても今世で賞賛され、幸せになります。来世があれば勿論、来世でも善行為の結果として幸福になるのです。
その程度で理解しておけば、安全に生きられます。