智慧の扉

2019年3月号

身体という道具のプロになりましょう

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 仏教では、身体はこころが使う道具に過ぎない、としています。道具に執着するのは愚かですが、道具を粗末にするのも間違っています。せっかく与えられた道具は、上手に使わなくてはいけません。では、私たちが身体という道具のプロになる秘訣は何でしょうか? それは「小欲」「知足」です。パーリ語で「アッピッチャター(appicchatā)」と「サントゥッティー(santuṭṭī)」と言います。小欲というとわかり難いのです。小欲の欲というのは、貪欲(greed)という意味ではなく、必要(needs)という意味になります。貪欲というと、少なくても悪いものです。必要というと、これには限度が成り立ちます。私たちはこれまで貪欲で生きてきました。今日からは必要ということを意識して生きてみてください。ものの見事に立派な人間に成長していきます。

 例えば、喉が渇く。水が必要になる。必要な量だけ水を飲む。空腹を感じる。食べ物が必要になる。必要な量だけ食べる。寒くて身体が冷える。衣服が必要になる。必要な一枚を身に着ける。その程度にするのです。このメーカーの水でなくてはいけない。この店の食べ物でなくてはいけない。このブランドの服でなくてはいけない。そういうのは、すべて間違いです。無駄な努力なのです。理性ある人ならば、必要を感じて生きるのです。身体に水が必要だから水を飲む。座ることが必要になったら座る。立つことが必要だから立つのです。

 私たちはテレビを見ながら三、四時間もずっと座ったままでいます。これは必要ではなく貪欲です。それで健康を壊してしまうのです。疲れてきたら、少し腰を下ろす。とても気分が良いのです。別にわざわざソファーに身を委ねなくてもいいのです。必要に応じて、そこでストップする。そうすると健康を損ないません。

 貪欲は満たせないと知る人は、必要を理解するのです。必要は満たせるものです。その必要を最小限にして生きてみるのです。例えば美味しいものを食べたいといったら限度・リミットがありません。お腹に必要なだけ燃料を入れると理解すれば、必要な量・限度が明確になるのです。

 知足というのは、喜び・満足という意味です。身体からは思いのままに、限りのない喜び・楽しみ・刺激は決して得られません。限りのある喜びは得られます。例えば筋肉が硬くなってマッサージすると気持ち良く感じます。では、八時間ぐらい続けてマッサージしてもらったら、どう感じるでしょうか? 当然、苦しくなるのです。限度があると知って、喜びだけでストップする。満足するのです。その限度内で存分に楽しむ。仏道では刺激を追求しません。しかし、刺激がないと死んでしまいますから、死なない程度に刺激を与えるのです。

 このように、小欲・知足を実践することで、身体という道具に囚われることなく、身体を上手にマネジメントしながらこころの成長に励むことができるのです。