あなたとの対話(Q&A)

覚るのは簡単ですか?、社会を良くする方法

パティパダー2010年5月号(153)

・覚るのは簡単ですか?
・社会を良くする方法

覚るのは簡単ですか?
初転法輪の時、コンダンニャさんはお釈迦様のお話を聴いただけで覚ったと言います。覚るのって、そんなに簡単なことなのでしょうか?

覚りとは、一部の人にのみ恵まれたものではないのです。論理的に言えば、人間ならば、覚りに達することができるはずです。条件は、「ものごとを理解できるのか?」ということだけです。お釈迦様の時代には、説法を聴いて覚らなかったケースは殆どなかったのです。出家も在家も男も女も。当たり前のように真理に達するのです。「覚りは稀なことである」と言うならば、もうそれは仏教ではないのです。
 
 誰もが幸福になれる道でなければ、語る意味がありません。稀な人しか到達できないことを喋っても意味がないでしょう。とはいえ現代人には、「なぜそんな簡単に?」という疑問が出てくると思います。なぜ仏教の世界で人が覚れなくなったのか、これは歴史的に研究しないといけない問題です。「人間が堕落したから」というのはちょっと成り立たない話ですよ。
 
 いわゆる「末法思想」は作り話です。お釈迦様が仰っている人間の堕落は、もっと膨大な時間をかけて起こる宇宙スケールの出来事です。人々は後から作られた話を信じて、元の教えを調べようとはしないのです。お釈迦様もそれをご存知でしたから、教えが正しいかどうかの調べ方を示したのです。(※大般涅槃経の「四大教示」を参照して下さい)。人間が教えを伝える場合、主観が混じって退化して行く傾向はあるので、気をつけなければいけません。
 
 覚りが難しいものになってしまったのは、教えの中身ではなく、歴史的な要因なのです。教えの中身はいまでも機能します。真理ですから、時代によって変わりましたということは成り立たないのです。私の主観では、仏教徒たちも仏教を他宗教と似たようなものにしたがったのではないでしょうか。お釈迦様は、当時のインドの宗教家と一緒に活動したが、仏教は宗教でなかったのです。宗教とも、科学とも言えない、仏教は仏教としか言いようのない、他に例のない教えだったのです。
 
 しかしお釈迦様が亡くなった後から、その教えに様々な宗教的な儀式儀礼が付け加わっていきました。儀式儀礼に忙しくて、現世で覚りに達することは後回しになってしまいました。また、ブッダの教えは後回しにして、代わりに自分で新しいテキストを書いたのです。ジリジリと生々しかったお釈迦様の説法が、ワケも分からないSF的な物語に仕立て上げられてしまった。結果として、いま・ここで覚れる、すべて努力次第だよ、という教えが消えてしまったのです。それは大乗仏教で顕著ですが、テーラワーダも同じようなものです。テーラワーダ仏教も、いまでは儀式儀礼ばかりになっています。
 
 説法を聴いたり、自分で勉強したりして、覚りに達するためには「理性的な思考」が必要です。何がいいか悪いか、学んでから批判しないといけない。仏教だから、宗教だからと先入観で拒否することは成り立たないのです。先に結論付けて反応するのは罪です。調べてデータに基づいて語らないと罪になるのです。他宗教を批判する場合も、お釈迦様は、まず相手の話を聞いたのです。
 
 自分の主観、先入観というのは邪魔なものです。理性ある人は作らないのです。自分にどんな先入観があるかということは、すごく気を付けて自分で調べないといけないのです。仏教の先入観で相手を切り捨てることにも注意しないといけない。理性ある人なら問題ないはずですが、誰でも時々は先入観に覆われることがあります。
 
 先入観の壁にぶつかると、修行に結果が出なくなります。そこを理性で突破しても、次には「自己愛」という壁が現れるのです。そこを破れば、もう覚りの世界です。いまでも説法を聴いて覚れます。しかし条件があるのです。仏法を語る人が、しっかり「自我が成り立たない」ことを順序建てて語れるか。話を聴く人も、集中して論理的に理解できるか、ということです。
 
 必ずしも、迫力ある説法師が覚りに導けるわけではないのです。説く人が論理的に理解させる、聴く人が理解する、という働きがないといけない。そこで、仏教では、話を聴く人々が抱える具体的な「苦」を通して語ることにするのです。「自分のこと」として教えを納得して理解してもらうのです。
 
 愛着するものは全て自分から離れていきます。自分の身体も、管理できずに壊れていくのです。
 
 自分の心さえ対象に依存して揺れ動き、因果法則によって瞬時に変わってしまうのです。心さえも自分の意のままにならない。ですから、一切に執着は成り立たないのです。そこで「なるほど、そうだ」と理解すれば覚りです。説法でも覚れますが、なかなか条件は揃わないのですね。また、ふつうは「覚りたい」という気持ちもなかなか起こらないのです。「覚り」という目的がなければ、進みたくても前には進めないでしょう。現代人の問題はこれです。
 
 そこでプランBの方法が出てきます。自分で「生きるとは何か?」と徹底的に客観的に調べて、「解脱しか道はない」と納得することです。それには時間がかかります。お釈迦様の時代には、プランAの「苦しみを何とかしたい」と真剣に願っている人がたくさんいました。たくさんの人々が、そのために出家までして答えを探していたのです。
 
 社会が発展しても、テクノロジーのお陰で人間が孤独に寂しくなるだけで、人間の苦しみというものはなくならないのです。昔となんら状況は変わっていないのです。昔の人間より、今の人間は頭が悪くなったわけでもないし、良くなったわけでもない。「四聖諦の教えがある限り、人は覚れますよ」と、お釈迦様は、はっきり仰っています。

社会を良くする方法
私達が生きている社会を良くするためには、どうすればよいのでしょうか?

社会を良くするとか、あまり大げさに考えないほうがいいと思います。「社会」とはあまり具体性のない言葉です。「この社会を良くするために」という場合、自分の頭の中に浮かぶ具体的な社会は何でしょうか? 家族、仲間などの現実的な人物で構成されている社会なら、自分にも何とかできるはずです。その自分にできることをしていけば充分だと思います。社会という言葉の中身が、日本の社会、アジアの社会、西洋社会、世界などであれば、自分個人には把握も管理もできないのです。ですから、自分が具体的に知っている社会を良くするために、自分にできることをするしかないでしょう。例えば、社会を良くするために私個人にできる事と言えば、私の話を聴く方に「このように生きてはどうですか?」と生き方を教えるだけです。それ以上、余計なことは考えても意味がないのです。社会を良くするために必要とする生き方について、考えてみましょう。
 
 世の中どこを見渡しても、人類の役に立つのはブッダの教えしかないのに、世界は仏教を好きではないのです。でも、これからの世代が仏教を通じて「生き方」を発見すれば、日本社会も少しは落ち着いてくるのではないかと思います。
 
 世の中では、必死に生きたからどうなるものではないのです。世界はただ闇雲に走れと言うだけで、何も答えをもっていない。財産も家族も肉体も死ぬときには置いていくレンタル品です。なぜそれらを割り箸や紙コップのように思えないのでしょうか。借り物に過ぎないモノにどこまでもしがみつく生き方は、まるで紙コップを金庫に入れているようなものです。
 
 死後、何を持っていけるでしょうか。偉大なる知識人たちも死ぬ時は痴呆状態になります。我々の肉体も、知識さえも、割り箸や紙コップ、サランラップのように捨てていくものです。そう理解すれば、そこで中道的な生き方が成り立つのです。楽観主義でも悲観主義でもないクールな気持ちになります。それは、執着しない、という生き方です
 
 世の中にある、あらゆる苦しみは「執着」の一語で現せます。
 
 世の中のものすべて、何一つ自分のモノにはなりません。思い通りになりません。体さえも使い捨てです。その通りでしょう? 難しい話ではないのです。何一つ自分勝手に管理できません。一番嫌なのは、自分の思考、気持ち、考えも管理できないことです。俳優にそれが出来るのは演技だから、執着がないからです
 
 我々の心さえも自由自在ではない。因果法則によって変化し続ける代物です。誰かがやっているわけではなく、因縁で変わるのです。「すべて消えて行くもの。過ぎ去るもの」と理解したところで、「どう生きるのか?」ということが見えてくるはずです。人に何か言われたとしても気にしないことです。すべて消えていく、使っては消える世界ですから。それなのに、我々は30分話した内容で30年間悩むのです。すべて捨てていく世界だと思って生きれば、どうでしょうか。

「すべて捨てていく」というのは、事実であって世間の法則です。それを認めることで、我々は気楽にニコニコと生きていられます。人が怒鳴ってきても、相手を笑わせてあげようかなと思える、そういう自由な心が作れます。悩み苦しみウツ落ち込みなど生まれなくなるのです。
 
 それでもあなたが、この社会を良くしたいと願うならば方法があります。「慈しみ」で生きることです。私たちは、他の生命との関わりで生きています。「私たちは生命とどう付き合うのか?」という問いから、もう一つの「生き方」が出てくるのです。それが、生命を慈しんで生きることなのです。生命はみんな、苦しんで生きています。虫一匹さえも、想像を絶する競争の中で必死に生きています。人間が何よりも生命のことを心配すれば、一日にして世界は平和になります。私達が子供たちにまず教えるべきことは、生命を心配することなのです。そうやって、「慈悲と智慧」という二本足で世を歩くのです。
 
 社会を改良するというのは大人が考えることですが、やはりうまく行かないのです。自分ができる範囲だけでも、努力するしかない。子供の教育の場合でも「慈しみを育ててよい人間になるように」と教えてあげれば、そうやって人格のできた子供は自動的に勉強も出来るのです。競争心を煽って、怒りで子供を締め付けるよりはるかに結果が出ます。
 
 執着の生き方、奪い取る生き方は、楽しみより煩わしさが増えてゆくのです。だから慈しみで、無執着で生きてみればどうでしょうか。我々の財産も、他の生命のお陰で得ているものです。生きる糧は自然について来るものです。他人から金だけ奪って、生きる喜びを微塵も感じられない人生って何なのでしょうか。
 
 現代社会は、「いかに苦しんで生きるか」ということを追求する生き方になっています。自分の妄想で執着の対象を作り出して、それに縛られて更に苦しんでいるのです。慈悲と智慧(割り箸論)という二本の足で歩めば、どんな社会でも幸福に生きられます。うまく行けば解脱にも達することができるのです。