No.37(1998年3月)
競争での勝利は勝利にあらず
必要に迫られても悪は正当化できません
お釈迦様はいつも、人間が幸福になる道だけを教えてこられました。全ては苦しみであるということが普遍的な真理であると教えられ、この苦しみをどのようにすれば越えらるかという道を、涅槃に入るまで教え続けられたのです。ですから仏法というのは幸福論だということができます。仏教を実践して不幸になったという人は今まで一人もいませんでした。
当時、舎衛城に、少々変わりもののバラモンがひとり住んでいました。彼は考えました。罪を犯すな、良いことをしなさい、心乱れることをするな、清らかな心を作るために励みなさい、欲と怒りにおぼれるな……
このような話は、お釈迦様に限らず、どんな宗教家も普通に話しています。どんな行者に聞いても、良いことをしなさいという説教ばかりで他のことはほとんど聞こえてきません。このバラモン人は、このような説法には飽き飽きして、もううんざりだと思いました。「まったく、この行者たちは世間知らずで、悪いことについて何の知識もないのではないか」と思い、一度このことを聞いてやろうと考えました。そして彼は祇園精舎に向かい、お釈迦様に会い、礼をして、このように尋ねたのです。
「尊師は、幸福のこと、良い行いについてはよくご存知のようです。よく説法もなさいます。では人間にとって、不幸なこと、悪いことについて、知識、経験がおありですか。」《このバラモン人は在家の人でしたので、ただ生きるため、家族を守るために、どれほど人が苦しんでいるかを身をもって知っていたことでしょう。悪いことをするなかれと言うのは簡単ですが、実行するのはそう簡単ではありません。家族を持つ人々はどうしても財産を作らなくてはならないという現実に迫られています。嘘をついてでも人をだましてでも、盗みを働いてでも、収入を得なくてはならないこともあります。そして収入のために冷酷になって競争するようにもなります。普通の人にとって、収入を得る苦しみ、家族を守る苦しみなどはどうしようもないかもしれませんが、そのうえに悪いことをしてしまったとか、良いことを出来なかったなどと、自分の心を責めることになってしまいます。それに輪をかけ、世間知らずの行者たちが善行為のことをさんざんしゃべると、在家の人々の良心がさらに苦しむことになるのではないかとその変わりもののバラモンは思ったのかもしれません。どうしようもないときは悪いことをしても仕方がないと、それくらいのことを言ってくれるなら、人の心は落ち着き、ほっとできるのにと思ったかもしれません。》
お釈迦様は、私は悪とは無縁だとか、知ったこともやったこともないとか、こころは完全に清らかだなどと言ってカッコつけるようなことは全くありませんでした。逆に「よく知っていますよ」と答えられました。そして、早起きしないで、気が済むまで朝寝坊すること、努力しないで思う存分怠けること、凶暴で喧嘩っ早いこと、酒、麻薬などに依存すること、一人で放浪すること、色におぼれること…などをすれば、確実に不幸になりますと、このバラモンに説明しました。このような行為や考えは、人間誰でもやりやすいことです。努力することより怠けることは簡単です。寝たい放題寝ることができれば気持ちいいでしょう。自分を押さえるより、怒りたい放題怒ったり言いたい放題のことを口に出したり、暴力をふるいたければふるったりするのはとても簡単なことなのです。(普段そんなことはできない人でも、力さえあればやりたいという気持ちはあるでしょう)
《洒、麻薬に依存することも誰にでもできる簡単なことです。無責任で目的もなくて、いろいろなところに旅に出るような放浪の生活も、難しいことではありません。異性と遊び回ることも、できれば誰でもやりたがることです。そんなことをして人が幸福になるわけがありません。人の人生はたちまちのうちに終わります。心の感情のままに生きることは、何の自慢にもなりません。動物の世界でもそれなりに感情を抑えて生きているのです。感情のまま、意のまま、わがままに生きられるほど、生きるということは甘いものではないのです。智慧を持ってものごとを正しく判断しながら、悪をさけて善の道を歩むことこそが立派な人生です。そのためには、勇気と努力、励むことは欠かせないことです。しっかりと幸福をつかみたい、自分と家族を守りたい、平和で平安に、みんなと仲良くしながら長生きをしたいと思う人は目の前の感情には負けません。子供が病気だ、家族にお金が必要だと思って会社の金を横領したり、人をだましたり、泥棒したりする人は家族を守ったことにはなりません。かわりに、自分も家族も不幸にしてしまいます。父親が泥棒をして子供を大学まで行かせたとしても、その子は立派な社会人になれるでしょうか。自分の人生に暗い歴史を背負って一生悩むことになるのではないでしょうか。たとえ必要に迫られたといっても、悪いことをするということはその瞬間の感情に負けたことです。動物の社会でも、危険なときは互いに助け合うという事実があります。それは人間の社会にも確実にあります。正直で、努力する人であるならば、局面に立たされたとき、必ず社会に助けられます。悪人の場合は見放されます。迫られたのだからしかたがないということは仏教においては認められない悪の行為です。不幸の道です。何があっても悪を犯すべきではありません。》…この説法を聞いて、バラモン人は驚きました。
「尊師は確かに不幸の道もご存知です」それに対しお釈迦様は、「私ほど不幸の道を知り尽くした人はいません」と答えられました。そしてこのバラモン人の職業を尋ねたところ、彼は自分はギャンブルで食べているのだと答えました。(彼はその道では名を知られた大物のプロでした)「いつでも勝ちますか」…そう問われバラモン人は「勝ったり負けたりそこそこです」と謙虚に答えました。
「ギャンブルなどで勝つことは勝利とはいえません。自分自身に勝つことが本当の勝利なのです。
どんな人でも、つい感情に負けてしまいます。目先の感情に負けないで善の道を貫くことこそが、本当の勝負であって、それこそ勝利です。その勝利者を負かすことは神々にさえできません。」とお釈迦様はおっしゃいました。
今回のポイント
- 必要に迫られても、悪を犯す人は不幸になります。
- 感情より智慧を使うことが、幸福な人生の秘密です。
- 人は自分自身(目先の感情)に勝つべきです。
経典の言葉
- Attā have jitaṃ seyyo – yā cāya’m itarā pajā
Attadantassa posassa – niccaṃ saññata cārino,
N’eva devo na gandhabbo – na māro saha brahmunā
Jitaṃ apajitaṃ kayirā – tathā rūpassa jantuno. - 自己に打ち勝つことは他の人々に勝つことよりもすぐれている。
常に自己をコントロールして落ち着きがある人の勝ち得た勝利を
敗北に転ずることは神にもガンダルヴァ(天の伎楽神)にも、
悪魔にも、梵天にも、(誰にも)できない。 - (Dhammapada 104,105)