パティパダー巻頭法話

No.39(1998年5月)

「祈り」より正しい人間関係

和を守る行動も仏教の道徳です 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

宗教と祈りの関係をさらに考察してみましょう。

宗教といえば、人の心にまず浮かぶものは、何か超自然的な対象を信じることです。その超自然的な対象に対して、祈る、様々な儀式儀礼を行う、また信仰に関わる様々な祭を行う、ほとんどの宗教はこれだけですむようになっています。宗教側から、人間が生きるために必要な必要な知識などを教えたりしますが、一般的に信仰する側にとってはそれはうるさいばかりでなかなか人気がありません。祈りや儀式、お祭りなどなら、一生懸命やって、それでよかったとほっとし、自己満足に終わることができます。しかし祈り、儀式などは、人間の生き方にいくらかは影響を与えますが、評価できるほど大きなものではありません。

釈迦尊の立場から申し上げると、一番大切なのは人の心(人の生き方)がいい方向へ進むことです。心の成長に値しない宗教も、祈りも、儀式なども意味がありません。釈迦尊が他の宗教家と対話したときも、教えが、人の心を清らかにするためのしっかりしたメッセージを持たねばならないという立場で話しています。たとえば、絶対的な神様によってすべてが創造され、人間の運命は全知全能の神にしっかりと定められており、神に対して人間は全く「もの」でしかないという教えがインドにありましたが、それに対して釈迦尊は、その教え自体が自己矛盾で、宗教として成り立たないと指摘されました。すべてが定められているならば、人間は何もする必要がなくなるし、また何をしても構わない、殺人を犯しても泥棒をしても、嘘をついて人をだましても、それらすべてが定められた行動ということになり、人間に責任はないことになってしまいますと否定されました。

人間が努力すると、幸福になり、成長する。努力しないで怠けると、不幸になり、堕落する。このようなことは我々の目に見える具体的な事実です。人間の行動のすべては心が行っているので、心をこそ育てなくてはならないということは、否定できない事実です。宗教というのは、そのノウハウを教えることです。祈りの方法や儀式儀礼のやり方が定められていたり、みんなが喜ぶ祭があることなどは宗教のありがたみを決める基準ではありません。人は簡単に表面的な美しさに惹かれますが、考えなくてはならないのは、心を育てるノウハウがあるかどうかということです。
儀式、祈り、祭などが全く無意味だということではなく、一番重要なことは心を育てることですから、その基準でどうかと評価すべきだということです。当時のインドでも、特に、バラモン教の人々は、儀式儀礼を行うこと、神々に奉納すること、誦経することなどだけが宗教だと徹底して信じていました。心を育てることが宗教だと思っていたのは少数派でした。サーリプッタ尊者は友人であったあるバラモン人と「徳」について話し合いました。バラモン人は、自分の宗教で定められている通り様々な儀式を真剣に丁寧にやっているので、バラモンの教えによると「私は充分徳を積んでいる」と言います。儀式儀礼で満足しているこの人の生き方は、仏教の教える宗教観とは違うものです。そこで釈迦尊に引き合わせると、尊師は「一年間続けて毎日儀式儀礼を行って得られる徳の価値は、心を正した人に一回礼をすることの四分の一にも満たない」と話されました。

徳という概念について、釈迦尊が考えたのは心が清らかになるかならないかということです。バラモン教の儀式儀礼は大変複雑でややこしいものです。それらを丁寧に行うときには、つい何か間違う可能性が大きいのです。間違わないように気を付けることで、心が落ち着くどころか大変混乱してしまいます。使用人に命令したり、また言うとおりにやらないと怒ったりしなくてはなりません。また目上のバラモンたちに批判されないようにも気を付けなければなりません。結局は心が汚れ、落ち着きが消えて、「やっと終わった」という気持ちで儀式が終わります。それくらいなら、心清らかな人に出会って、一回礼をしただけでもその方が、充分心が落ち着き、気持ちも良くなることは明快です。人間というのは他人の心の影響を簡単に受けます。心の波動は電波のようなもので、ところ構わず他人の心に入り込みます。心を育てることが宗教だと思う場合は、この事実を無視できません。汚れた心、暗い心などの影響も、確実に自分の心に映りますので、自分の心はそれによって堕落してしまいます。人間関係というのは、宗教で解明すべき大切なポイントです。

儀式、儀礼、お祭りなどの価値はわずかだという立場で、仏教は、そのかわりに自分より心清らかに暮らしている聖者たちとつきあうことを勧めています。神々に百年間奉納することは、聖者に対し一回だけでも供養することの十六分の一にも満たないという釈迦尊の言葉があります。神々から、我々は何の影響も受けません。人間である聖者からは、確実に、清らかな影響を心に受けるのです。それこそが心の成長の支えになります。ですから、儀式儀礼より、聖者にお供えすることの方がはるかに徳が高いと断言して教えています。

儀式儀礼、祈り、奉納、供養、誦経、祭などの宗教につきものである事柄のかわりに仏教で勧めているのは、よい人間関係だといえます。心を育てたい人はいつも自分より精神的にすぐれた人々を探してつきあわなくてはなりません。仏教の出家者みたいに何もものを持たない人に布施をすることも、よい人間関係をつくるひとつの方法です。お布施を受けた側には、お布施した側を大事に育てる義務が生じます。普通の社会でも様々な人間関係があります。自分の心を成長させるために何か教えてくれることができる人がいるならば、その人と適切に人間関係を作らなくてはなりません。まず両親、それから先生たち、そして社会の目上の人たちと正しく人間関係を作り上げて自分が成長することは、仏教の道徳論の大事な部分です。結論としていうと、儀式儀礼を行ったり、奉納するようなことよりは、社会の中で規則正しく、行儀良く、良い人間関係を作ることこそが、仏教でいう宗教的な生き方なのです。

今回のポイント

  • 宗教は心を育てる行動的な道であって、受動的な信仰の道ではありません。
  • 儀式、儀礼などのかわりに 良い人間関係を作るべきです。
  • 礼儀正しく社会の和を守って生きることは、信仰にしがみつくよりも価値があります。

経典の言葉

  • Abivādana sīlissa – niccaṃ vaddhā pacāyino,
    Cattāro dhammā vaddhanti – āyu vanno sukhaṃ balaṃ
  • 常に敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。
    ——すなわち、寿命と美しさと楽しみと力である。(つまり幸福になるということです)。
  • (Dhammapada 109)