嫉妬や落ち込みを解消する方法・他
パティパダー2010年12月号(160)
・嫉妬を昇華する糸口とは?
・落ち込み対処法
・子供を亡くした悲しみを乗り越える
・「不貪・不瞋・不痴」の心の成長
・人づきあい苦手でも覚れる?
・波長が合わない人
嫉妬を昇華する糸口とは?
先生のご著書で、嫉妬することは「怒り」だと教わりました。日常生活では人から嫉妬を受けたり、自分が誰かを嫉妬してしまったりすることが多いです。それを昇華するための糸口はあるでしょうか?
嫉妬は普通の怒りほど強烈ではないが、納豆の糸のように長く続く悪感情です。心所(心の中身)の分類としては、怒りのグループに入ります。『怒らないこと』(サンガ新書)等にも書きましたが、怒りにもいろいろな種類があって、どのように怒りがおこるのかによって、嫉妬といったり、後悔といったりするのです。
まず、あなたが誰かから嫉妬されるのは、そんなに問題ではありませんよ。「ああそうですか、嫉妬しているんですか、それは知らなかった」で終わります。「私には関係ない」という気分で、気をつけて自分を守ればいいだけです。嫉妬というのは病気だから、相手が苦しむだけなのです。他人が自分を嫉妬することをどうにかしたいというのは、「他人が病気だから私がクスリのみますよ」っていうくらい、成り立たない話です。
自分が誰かを嫉妬する場合は、「私が正しい」という認識がまずあって、そこから嫉妬が起きるんです。たとえば、同じ女性なのに、相手はすごい美人。そこで嫉妬が湧いてくる。その場合は、「自分だって、美しい身体のはずなのに」というとんでもない間違った認識が前提になっているんです。「私が正しい」「私が最高」という、客観的にみれば、どこまでバカかというような思考で、嫉妬しているのです。あくまでも、自分は自分、他人は他人ですよ。例えば誰かが派手なネイルアートをやっていても、「自分もやりたい」と羨んだり嫉妬したりするのではなくて、やっている人のことをみて喜べばいいのです。自分は自分でいればいい。「他人は他人、自分は自分」というスタンスでいれば、嫉妬は消えてしまいます。
落ち込み対処法
怒りのバリエーションには落ち込みもあると知りました。私はいつも落ち込んでしまいます。自分がだめだなと思ってしまって、落ち込んで上がってこれなくなるのです。どうすればいいでしょうか?
落ち込むことも怒りです。それも、「私は正しい」という恐ろしい病気から起きるのです。自分が正しいなんて成り立たないことです。完璧な自分なんかいるはずがないのです。自分がダメな人間だと。「だから何?」と。あなたにはその簡単なことができないんです。私がやることが全部うまく行く、と思ってる、錯覚しているんです。でも、事実はほとんどダメです。「自分は完璧な人間ではありません。でも、だから何?」と思うのが正しいのです。自分がダメでも、そのぶん他の人がどうにかするんですから、自分のダメなところ下手なところは、誰か他の人が補ってくれます。逆に、他の人にできなくて、自分にできることがあれば、それは気持よく補ってあげればいいだけのことです。人がひとり勝手に「完璧」になりたがったら、もう病院に行くしかなくなるのです。落ち込んだところで、こころに怒りの毒がまわって、持っている能力も失ってしまいます。それは勿体ないことです。「だから何?」という言葉を人生に入れることで、怒りの毒から身を守って楽しく生きられます。
子供を亡くした悲しみを乗り越える
仏教の教えを学んで無常ということを理解しようとするのですが、自分の子供を亡くした悲しさをどうしても離れられません 。私はもう年老いて、もう先も短い人生です。これからどうすればよいでしょうか。
自分であれ子供であれ、生命という巨大な世界のなかで助け合って生きている存在です。そのなかで一歳で死ぬ生命もいれば、高齢で死ぬ生命もいるのです。怪我一つせずに生涯を終える人もいれば、理不尽に殺される場合もある。それは我々にはどうしようもないのです。親には生まれた子供を育てるという仕事があるけど、その子が何歳まで生きるかというのは、管轄外のことです。どの母親も一生懸命やっているんです。それで早く亡くなっても、それは親の管轄外です。子供の葬式をあげて、供養して終わりにしなくていけないのです。たとえ子供がいなくても、私たちには果たさなければならないたくさんの仕事があるのです。
他の人々との関わりで、たくさんの仕事があります。毎日、子供にご飯を作っていたのだったら、その代わりに、家事ができない近所のお年寄りにご飯を作ってあげるとか。そうすれば自分の悲しみはきれいに消えているはずです。しかも子供のおかげで自分が随分良いこともできている。子供が亡くなった分、その分、自分が社会に貢献してあげるのだということです。
以前テレビで観たのですが、いじめで子供を亡くしたお父さんが、他の人に子供を亡くした親の悲しみを味あわせてはならないと決意して、加害者を許して、また少年院で講演活動をはじめたのです。そのお父さんは講演の最後に、「どうか二度と親を悲しませないで下さい」と若者たちの前で土下座していました。その姿を見て、若者たちも更生したのです。
その人は、自分の子供にしてあげることができなかった親父としての役割を、他の大勢の子供達に果たしているんです。子供をなくした悲しみは乗り越えている。あのお父さんには自動的に慈悲が生まれたから有効的な生き方をできるようになった。我々もこころに「慈悲の安全ネット」を張って、人の役に立つこと、貢献する生き方をしなければいけないのです。こころに慈悲の安全ネットを張るためには、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と呪文のように念じておくと、周りの人に笑顔を見せられるようになります。そこから、人生が好転していきます。
「不貪・不瞋・不痴」の心の成長
ヴィパッサナー実践をすることで、「不貪・不瞋・不痴」の心はどのように成長していくのですか?
人に何かを差し上げるとき、布施をするとき不貪が働くこころです。他人のことを心配したり優しくしたりするときは主に不瞋のこころ、世の中の無常を観察したり、仏教を学んだりするとき不痴のこころ。これが瞑想しない時なので分かり易いのです。この場合は善心所はポジティブ的に働きます。
ヴィパッサナー冥想で気づきを実践するとき、貪瞋痴が機能出来なくなります。貪瞋痴がないことが善なのです。善根心とは不貪不瞋不痴です。ですから気づきの実践をするとき、心に不貪不瞋不痴だけではなく他の善心所も働いています。妄想が割り込むとこれがストップになります。妄想とは気づきを遮断するものです。しかし、ヴィパッサナー冥想の場合は善心所はpositive機能よりもnegative機能で働くと理解した方がよいのです。いわゆる取り消す作業、排除作業です。心にある不善心所・煩悩を排除する作業になります。それにしても、煩悩の壁は厚いので時間がかかることでしょう。
修行者はpositive的に何も起こらないので、「これで善なのか?不貪不瞋不痴なのか?」と疑うかも知れません。
解脱の場合は悪だけではなく善もだめです。心所がnegativeであろうpositiveであろう執着に値するエネルギーです。Vipssana冥想で引き算作業が起きて、心所はエネルギー的にゼロ値になります。
ですから、冥想で不貪不瞋不痴が成長する過程とは、貪瞋痴の力が減って減って、消えてゆくく過程なのです。
人づきあい苦手でも覚れる?
人間との関わりの下手な人が、冥想して悟ることは無理ですか?
一切の現象との関わりを断ち切ることが解脱になるので、人間との関わりが下手問い言うことは論理的に問題ではありません。
しかし、「関わりが下手」と行っても様々でしょう。自我、高慢があり過ぎ、無知が強すぎ、恐がり、自信がない、などですね。これらが障りになるならば、冥想は進めないのです。しかし、煩悩はだれにでもあることで、煩悩があるから冥想をするので、心配することはないでしょう。教育がないから学校に通うのであって、教育がないから、学校は無理という話になりません。問題はキチンとやるか否かですね。
波長が合わない人
世の中には、自分と波長の合わない人々がいます。しかし、自分との関係が学校・会社・近所など一時的な場合と、家族など長期的かつ密接な場合とがありますが、この二つの違いが何ですか?
何の違いもありません。経過した時間の差だけです。人間関係で困っても、困り具合はその時間によって強弱の差が起こることになります。楽しくなっても同じことです。
しかしですね、妄想家は感情を持ち運びます。たった十分間の人間関係から起きた感情でも、何十年も持ち運んで苦しむことにはなり得るのです。長期的な人間関係の場合は影響が強いこと、忘れられないことは避けられません。短期的な人間関係の場合は永久的に傷ついたならば、それはその人の問題で、妄想家ということになります。
何故、長期・短期は違いがないのでしょうか?全ては瞬間瞬間の出来事だからです。「一時間」人と付き合うことはできません。瞬間瞬間です。瞬間を後で数えてみれば一時間になっただけです。過去、現在、未来を一纏めにすることだから、事実ではありません。現象、妄想、概念に過ぎないのです。