No.295(2019年10月)
理性がないと人生は出口のない迷路
形式的な修行は危険 Difference between practice and ritual
今月の巻頭偈
Dukkarasuttaṃ(SN 1.17)
「至難経」(相応部1.17)
- “Dukkaraṃ duttitikkhañca, abyattena ca sāmaññaṃ.
Bahūhi tattha sambādhā, yattha bālo visīdatī”ti - “Katihaṃ careyya sāmaññaṃ, cittaṃ ce na nivāraye;
Pade pade visīdeyya, saṅkappānaṃ vasānugo”ti. - “Kummova aṅgāni sake kapāle,
Samodahaṃ bhikkhu manovitakke;
Anissito aññamaheṭhayāno,
Parinibbuto nūpavadeyya kañcī”ti.
- 沙門法は智慧なきものに 行い難く、耐え難い
そこには障碍が多いゆえ 愚かな者は沈みゆく - もしも心を防ぎ得ぬなら 幾日、沙門法を行ない得よう
雑念の虜になる者は 一歩一歩に沈むであろう - 亀が自分の甲羅に肢体を
収めるように、心の思いを
収める比丘は他を悩まさず
執さず、寂滅し、誰をも謗らず
- 和訳:片山一良『パーリ仏典 第三期1相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇I』大蔵出版より
やみくもにやってみる
ある女神が、やみくもに励んでいる修行者を観察していました。死に物狂いで真剣に修行しているけれど、なかなか解脱に達しない、ということに女神は気づいたのです。インドの宗教は、「行」に凝り固まっています。ブッダの教えでは、苦行まがいの「行」はありませんが、他宗教の影響で、仏教の修行者にも、「行」の習慣が割り込んでしまったのです。ブッダの説かれた戒律も、いとも簡単に堅苦しい「行」に変えてしまうことができます。たとえば、出家比丘は三衣と鉢をいつも持たなくてはいけないのです。それを「行」に変えると、真夏であっても重い重衣を身体に着けなくてはいけない。午後、出かけて人々に説法する時でも、鉢を持参して傍に置いておくのです。飛行機を使う時も、必ず鉢を持って搭乗します。問題は機内食を本人は鉢に入れて食べるでしょうか、ということです。ふつうは、托鉢する時と、自分が別な場所に住む目的で出かける時、必ず鉢を携行するものとされています。しかし、それ以外は、鉢を自分の部屋に置いておけば十分なのです。それから、出家は女性に触れてはならないのです。その戒律を「行」に変える人は、病院で注射をしたり採血したりする場合も、男性の看護師でなければ治療拒否するはめになります。現在、テーラワーダ仏教の世界では、戒律を守る代わりに、戒律紛いの「行」に凝り固まっている出家も少なくありません。
とはいえ、「行」を完全に禁止する戒律項目は無いので、一部の人々は戒律を「行」に変えるのです。「行」を完全に禁止していないことには理由があります。たとえば、ある人が出家したとしましょう。その人に、病的なほどの性欲があるのです。欲を断つ目的で出家したのに、そのままでは修行がうまく行くはずがないのです。そういう場合、お釈迦様は、夜、墓場で過ごしてみること、遺体が朽ちていく過程を目の前で観察してみることなどを推薦します。そうすると、人の身体を見るたび遺体のように見えるので、性欲が割り込むことが無くなるのです。眠気で悩んでいる人、怠けで悩んでいる人、すぐにめげてしまう人なども、出家します。彼らにも、その性格を治すプログラムが必要です。「行」と言ったのは、そのような特別プログラムです。頭陀行と言われる十三のリスト(十三頭陀支)もあります。たとえば、富豪の家に生まれて、幼少期から桁違いな贅沢をしてきた人は、出家したところで「糞掃衣【ふんぞうえ】」という頭陀行をやってみたほうが良いかも知れません。自分に対する甘さが無くなります。
ブッダの時代、行者たちは宗教ごとに分かれることはなく、一緒の場所でそれぞれ自分たちの教えの修行をしていました。ですから、「行」しかやらない他宗教の影響が、仏教の修行者に入ってしまうことも避けられなかったのです。「行」とは、とにかくやりなさい、真剣に守りなさい、文字通りにやりなさい、と言われる世界です。当時のジャイナ教では、生水には魂があるので、修行者はそのまま水を飲んではいけないと説かれたのです。信者さんが白湯のお布施をしない限り、いくら脱水状態になっても、殺生を怯えて水を飲みません。脱水状態で死んでも仕方がないこととされました。仏教の修行者も、眠気に打ち勝たなくてはいけないと思って、一瞬も睡眠を取らないで瞑想実践に励む場合があったのです。
仏教の実践を「行」に変えると、「行」をやみくもに実行することになります。菜食主義になる、托鉢にもらった食事しか食べない、などなどと決めたら、本人はその「行」に執着するのです。食事に肉魚が混ざった料理しかもらえなかった場合は、喜んで何も食べずにいるのです。托鉢できなかった日は、お寺にご飯があっても食べずに過ごす。本人は「わたしは真剣に修行しているのだ」と喜んでいるのです。そこで、先ほどの女神が発見した事実は、「これらの人々は誰一人も覚りに達しない」という問題でした。
無知に理性が負ける
女神は、ひたすら「行」に凝り固まっている修行者たちは無知だと思ったのです。ここで無知というのは、行をやみくもに文字通り守るが、理性に欠けていることです。ただやっただけで良いわけではありません。道が進んでいるのか、心が成長しているのか、自分の煩悩が減っているのか、智慧が顕れているのか、心が安穏へ進んでいるのか、などをチェックしなくてはいけないのです。ある「行」を決めて取り組んでも、心の安らぎが現れそうにないならば、その「行」をやめなくてはいけない。だからといって、真面目に実践せずに次から次へと行を変えても、何の結果もないのは当然です。「この行ではなんの結果もない」と明確に知るまで、自分が決めた「行」を実行しなくてはいけないのです。
理性を欠いたまま、やみくもに「行」に固執したならば、その人々の修行はかなり厳しいものになります。お釈迦さまが禁じた苦行に変質してしまうのです。それぞれ真剣真面目であることは理解できますが、彼らの修行は文字通りの「ご苦労さま」で終わってしまいます。
ですから、女神は自分の観察レポートを釈尊に報告したのです。
理性のない人に沙門の道(仏道)は難しい。耐え難い苦行の道になります。
彼らに障碍が多いのです。修行者は障碍に沈んでしまうのです。
問題はこころ
仙人・聖者・覚者・解脱者などなど、どんな称号を使っても、どんな服装を身にまとっているのか、何を食べているのか、どこに住んでいるのか、生活習慣はどうなっているのか、といった外見は問題になりません。お釈迦さまも「外見をそれらしくすれば、聖者になれると思ったら大間違いだ」ときつく仰ったことがあります。ダンマパダの394偈には、「愚者よ、結髪が何になる? そなたに皮衣(鹿の革を剥いだ衣)が何になる? そなたは内(心の中)に欲が茂り、外を磨いているばかり」とあります。
いくら苦しく見えても、何かの「行」を守ることは簡単です。衣服の代わりに、なめしていない鹿の革を纏うことは簡単です。しかし、楽ではありません。鹿の革に細菌が増殖するので、皮膚病に罹ります。汗で革が濡れると耐え難い悪臭がします。鹿の皮の感触も最悪です。しかし、「行」としては守りやすいのです。苦行になることで、自慢もできます。そのような行に、お釈迦さまは「外側の殻を磨くことだ」とおっしゃるのです。苦行することの結果は、こころがさらに汚れることです。こころが貪瞋痴で汚れないよう戒めることこそが本物の修行です。それは外側の殻と関係ないのです。
そこで女神に疑問が生じます。
こころを守ることをしないならば、どうやって沙門の道を歩めるでしょうか?
自分の思考に嵌っている者の修行は、一歩一歩、こころが沈むはめになるでしょう。
思考・妄想は悪魔
この疑問の解決策は簡単です。こころを汚し、執着を惹き起こす力は、自分自身のこころに起こる思考・妄想・観念・概念などです。美しく花が咲いたからといって、その花は自分のこころを汚しません。花に触れて自分のこころに起こる概念によって、こころが汚れるのです。たとえ目の前に美しい天女が現れても、その天女に、あなたのこころを汚すことはできません。天女を見た当人の思考で、こころが酷く汚れるのです。ゆえに、仏教には、「あなたのせいで私のこころが汚れました」「あなたのせいで怒りが生じた」「環境が悪いから修行ができない」などなどの他人に指をさす考えはないのです。こころを汚して、自分自身を地獄に陥れる悪魔とは、自分自身の思考・妄想です。自分のこころにある概念・観念などです。そこで、女神がお釈迦さまに尋ねたのは、「いかにこころの働きを制御するべきでしょうか?」ということです。要するに、思考・妄想を制御する方法を知りたかったのです。
ブッダの答え
生命には、眼耳鼻舌身意という六根があります。それらに色声香味触法が触れるのです。触れることで、六識が現れます。ここまでは避けられないことです。しかし問題は、六根に触れたデータに、自分の固定概念、感情、価値判断などを混ぜて処理することです。誰も、「ありのまま」に認識しないのです。世界を無理やり、「あってほしいまま」に入れ替えるのです。入れ替えることができたら、欲に沈む。できなかった場合は、怒りに沈む。処理しようとしたところで、はっきりしない場合は、無知に沈むのです。そこで仏道の修行者は、眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると、思考・妄想・感情で一切処理することなく、そのまま認識してみる、という訓練をするのです。それを「ありのままに観る」訓練と言うのです。
感情・主観でものごとを認識するというプログラムは、既にこころに固定されています。だから、修行して、負けても、負けても、あきらめず努力する必要があるのです。こころにある無明でできた固定プログラムが壊れるまで、たゆまず実践し続けなくてはいけないのです。感情でデータを処理することをやめたならば、「ありのままに観る」ことに成功します。その人にだけ、無常・苦・無我の真理を発見できます。その真理を発見すると同時に、こころが解放されて、解脱に達します。
修行者にブッダのアドバイス
修行を始めたとはいえ、こころは思考・妄想でいっぱいなのです。お釈迦さまは、亀をたとえにして教えます。亀の甲羅から外に出ている部位が六つあります。左右の前足、左右の後ろ足、頭、尻尾です。もし、外から危険なものが触れたら、ただちに亀がその部位を甲羅の中に引っ込めます。そうやって危険を避けるのです。修行者も、眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れて危険な貪瞋痴が起きそうになると、ただちに眼耳鼻舌身意を守ることにするのです。このやり方は、本格的なヴィパッサナー瞑想でもあります。それから、色声香味触法に何も期待しないことにします(anissito)。たとえば、食べても美味しい味を期待しない。音が耳に触れても、心地よい音を期待しない。何かを見て、こころを楽しませようと「色(しき)」に期待しない。何か考えて楽しくなろうと、意の対象である「法」に期待しない。それから、他の生命に迷惑をかけないように戒めるのです(aññam aheṭhayāno)。
迷惑をかけないとは、単純な修行ではありません。順番で進まなくてはいけない修行です。一般人のレベルでいう迷惑もあります。まず、それを止める。それから、さらに進みます。たとえば、喉が乾いた。そばにいる人に「水を持ってきて」と頼む。さらに、「白湯にしてください」と条件をつける。それは相手に苦労させたことになります。洞窟に入って、誰にも迷惑をかけないで修行しようと思っても、洞窟を掃除しなくてはいけないのです。洞窟に棲んでいる虫たちや、コウモリたちには迷惑に違いありません。「他の生命に迷惑をかけない」ことに励む真剣な修行者は、自分の生き方を徐々に成長させて、コウモリにもアリにも、他の虫たちにも迷惑にならないように住むことに成功します。さらに、智慧が顕れます。人間として、息を吸って生きること自体、周りに、他の生命に迷惑な行為であると発見するのです。そこで、解決策を見出します。生きることに対する執着を一切捨てるのです。そこでようやく、他に迷惑をかけないという戒めが完成します。戒めを完成した修行者は解脱に達しています(parinibbuto)。解脱者に対して、誰ひとり何も文句は言わないのです(nūpavadeyya kañci)。※
※冒頭の日本語訳ではnūpavadeyya kañciが「誰をも謗らず」と訳されています。しかし、私はその言葉を解釈して、聖者が人を謗ることと、世界が聖者を謗ることの、両方の意味を併せたのです。なぜならば、他人に一切迷惑をかけない修行をする人に、「他を謗るなかれ」とあえて言う必要はありません。ですから、解脱に達した人の場合は、その人に対してthere
is no complain whatever という理解にしたのです。要するに、解脱者は誰にも文句を言わないだけではなく、世間の側も解脱者に対して文句を言うべき短所は見出だせないのです。
今回のポイント
- 苦行は覚りの道ではありません
- 「行」はしきたり・習慣なので戒禁取です
- 仏道も原理主義的に取れば「行」になります
- こころを清らかにすることが仏道です
- 思考・妄想・概念などは煩悩を生む親です