No.46(1998年12月)
目先の楽しみは、後の落とし穴
人類の本質は過ちを犯すこと
人はよく過ちを犯します。過ちを犯さない人間は世の中にいないのですから、過ちを犯すことが人間の特色だということもできます。人間は必ずまちがいを起こすのだというこの事実を理解すると、自分の過ちについて極度に落ち込むことをしないで済むようになります。そしてまた他人も自分と同じ間違いをしますから、より立派な人間になりたいと思えばそれを理解して許すこともできるようになります。それは、立派な人間の生き方だといえます。
一方世の中には、人間としてふさわしくないタイプの人々もいます。彼らは、自分の過ちをごまかしたり認めなかったりします。過ちを知られたら、許して欲しいと思ったりもします。ところが一転して、他人の過ちとなると断固として許さず、それを非難するのです。このような性格は、人間関係を悪くします。
社会の一員としてスムースな人間関係を作りたい人は、まず自分がよく過ちを犯すということ、それを他人が許してくれたら心がいかに楽になるかということを理解すべきです。それから、他人も同じ人間ですから、過ちを犯すことが当然だと理解し、自分もそれを許す義務があると知るべきです。人の過ちをどこまで許すべきかというのはケースバイケースですが、私たちは、人が過ちを犯す限り、許してあげなくてはならないと決心しなくてはいけません。
それでは今月は、なぜ人が過ちを犯すのかを考えてみましょう。人が過ちを犯すということは、実に不可思議な現象です。間違いを犯したい、失敗したいと思う人は一人もいません。誰もがしっかりと正しく行動したいと思っているのに、どこかでミスを犯してしまいます。防衛策はいくらでもありますが、それでも過ちを人類から完全になくすということは、ありえないことです。
これは人間の本質的な問題です。
人というのは自分中心にものごとを考えて行動しますので、客観的にものごとを考えて理解することは不可能だといってもいいほど『無理』なことです。
痛みを感じたことがない人に、他人の痛みはわかりません。人の悩みや苦しみを理解できるという人は、結局は、自分が味わった悩み苦しみの経験を、他人に投影して他人の悩み苦しみを理解できるということなのです。その場合でも、自己中心になることは避けられない事実です。でもこの現象は、私たちに、過ちの少ない生き方を教えてくれます。常に他人の中に自分を見いだす、発見する、それができると、人間関係におけるいろいろな問題が理解できるはずです。また自分が何かをするとき、それを他人に投影してみる、そうすると自分の行動は間違いが少なくて済むようになります。
たとえば、他人に忠告することになったとする。その場合も、すぐ忠告するのではなくて、自分がこれから使おうとする言葉、自分の態度を他人に投影して、もし他人がこのような言葉でこのような態度で自分に忠告したなら自分がどんな気持ちで受け取るだろうかと、考えてみる。自分ならやさしく忠告して欲しいのは当然ですから、「これは自分に言われていることだ」と思って忠告すればうまくいくのです。
人は自己中心だから過ちを犯すと前に言いました。自己中心で自分の都合によって物事を判断して行動します。しかしそれは確実に過ちを犯す道です。ときどき、欲、怒り、嫉妬、倣慢、ライバル意識、表層心理等の感情で、我を忘れてしまうときもあります。そのときの行動も、すべて過ちです。必ず後に後悔することになります。
ここまでのことはわかりやすいのですが、もうひとつわからないことがあります。
お釈迦様と僧団に多大なお布施をして、支えてくれた、アナー夕ピンディカという長者がいました。人を助けることが彼の性格そのものでしたから、僧団以外にも、他の宗教の行者たちや貧しい人々に寄付をして、助けていました。
あるとき突然、商売から入るぺき収入が入らなくて、彼の財産は底を尽きました。商売の立場から考えると、寄付は財を生まない無駄な行為です。彼の守り神は彼のことを心配して、僧団へのお布施をやめて楽になりなさいと言われたのですが、彼は逆に自分の守り神を家から追い出しました。
自分の誤った考え方に気づいた神は、大変苦労して彼の商売を軌道に乗るようにしてあげ、自分の失言に許しを乞うたのです。この物語は長いのでここでは書けませんが要点だけ考えてみましょう。
商売の立場から考えると、寄付は財産の無駄遣いです。世の中誰でも、すぐそのように考えます。智慧を持って考えると、人を助けることは自分の幸福を確定する行為です。人には目先の結果しか見えません。それで行動して大損をし、大失敗をします。
これは、子供が、学校に行きたくない、勉強がおもしろくない、友達と遊ぶのが楽しい、と言うことと同じです。逆に目先ではいいことには見えないが、長期的な視点では素晴らしい結果を生む行為がかなりあります。人間に、そういうことを理解できる智慧があるならば、決して不幸にはならないだろうと思います。目先の結果に目がくらむことが、人間の不幸と失敗の原因です。
我々にとって、本当によいことは、大変無意味で面白くないことと見えてしまいます。
我々を不幸と破壊に導く行為は、とても面白く感じます。麻薬、酒におぼれること、遊びにふけることなどは、わかりやすい例だと思います。この法則は、人類にとって残念な現実です。目先の面白い結果だけ考えて行動することこそが、人間の過ちの根本的な原因なのです。
今回のポイント
- 過ちは当然だと認めること、そしてそれを許す心はとても大事です。
- できるかぎり 自己中心にならないように努力すると、過ちが少なくなります。
- 行動する前に相手の気持ちを自分のこととして感じてみることで、よい結果になります。
- 目先のよい結果は、長期的には取り返しのつかない過ちの原因になります。
経典の言葉
- Pāpo’pi passati bhadraṃ – yāva pāpaṃ na paccati,
Yadā ca paccati pāpaṃ – atha pāpo pāpānipassati. (Dh.119)
Bhadro’pi passati pāpaṃ – yāva bhadraṃ na paccati,
Yadā ca paccati bhadraṃ – atha bhadro bhadrāni passati. (Dh.120) - まだ悪の報いが熟しない間は、悪人でも幸運に遇うことがある。
しかし悪の報いが熟したときには悪人はわざわいに遇う。(Dh.119)
まだ善の報いが熟しない間は、善人でもわざわいに遇う。
しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福に遇う。(Dh.120) - (Dhammapada 119,120)