No.56(1999年10月)
目的に向って一心にチャレンジ?
失望しても、幸福は確保できる
お釈迦様の信者さんにヴィサーカー夫人という裕福な女性がいました。
小さい頃から家族が敬虔な仏教徒でしたので、彼女はお釈迦様の説法を聞いて、若いうちに、預流果(sotapatti)という段階まで悟りに達していたのです。そしてプッバーラーマという大きな僧院を作って、仏法僧に寄付しました。その僧院ではたくさんのお坊さん達、また在家の信者さんたちも説法を聞いたり、修行したりしていました。彼女はそのお寺に住んでいるお坊さん達に、日常必要な食事、衣類、薬などのものを毎日寄付していたのです。彼女を知る上流社会の女性たちも、彼女に惹かれてその僧院に入って修行するようになっていました。ある日、さまざまな年齢層の女性たちが集まって真剣に修行している姿が目に入り、ヴィサーカー夫人はふと、みんなに挨拶してみようかなと思い、「なぜ仏教に興味があるのですか」「なぜ修行しようと思ったのですか」などのごく普通の質問をしてみました。
女性たちのなかでまず、未婚の娘たちの答えはほとんど同じで、「早くお嫁に行きたい」「お金持ちで、かっこいい旦那さんに巡り会いたい」「修行さえすればその希望はかなうでしょう」と答えました。若奥さんたちの返事もまた決まっていました。「ずーっときれいでいて、旦那さんに愛され続けたい」「子宝に恵まれたい」「最初には男の子が産まれるように」。中年層になると「子供が無事に育つように」「家庭が平和であるように」「家族がみんな健康であるように」「家の収入が増えて安心できるように」、また旦那が遊び人であるならば「旦那が大人しくなって、家に戻るように」…そのようにいろいろな目標をヴィサーカー夫人に向かって言い出したのです。年上の女性たちの希望はまた少し違っていました。「健康で長生きできますように」「死んでから天国に生まれ変わって、旦那のところに行けますように」「今度生まれ変わる場合は絶世の美女になって、それに見合う男性が見つかりますように」などなどでした。
ヴィサーカー夫人は驚き、そしてがっくりしました。
同じお寺で集まって、同じ釈迦尊の説法を聞いて皆同じ修行をしているのに、希望だけ聞いてみれば、みんな目先のことしか考えていないのです。彼女が想像したように、より高い次元の立派な人格を作ろうとは誰も思っていなかったのです。仏教とは一体何なのかを、この女性たちはさっぱりわかっていないか、興味がないか、どちらかなのでしょうか。何かの目的で修行していた20才の娘は、25才になると別の目的で修行をするでしょう。30、40、50と歳を取るにつれ、修行の目的はぐるぐる変わることでしょう。人生というのは、そんなに無責任に適当に扱ってよいものなのかと、悟りの智慧があったヴィサーカー夫人は、虚しく感じました。
何か教えてあげようと思っても、相手も自分も女性なので、反発して聞く耳を持たないだろうと思いましたし、また自分がそのお寺の責任者ですから、修行に来た人々に対しては、失礼に感じられることをしてはいけない立場にありました。それで彼女は、「皆様方、せっかくだから、お釈迦様に会ってみてはいかがでしょうか。私が紹介してあげますよ」と言って、遠慮がちなそのグループを連れていって、お釈迦様に会わせました。説法のタネとしていただくために、彼女たちとの会話の内容も、そのままお釈迦様に報告しました。
普通の宗教の世界であるならば「その通りです。修行して徳を積んだら、早く立派な旦那に巡り会えるでしょう、子宝に恵まれるでしょう」と言われるところだと思いますが、お釈迦様は全く違う話をなさいました。
「20才の娘から80才の老婆まで、さまざまな年齢層の人々の目的を並べて見てみると、目的というのは次々と変わるものだということがわかります。もし20才のときの目的がかなわなくて悲しくなったとしても、30才になったら目的は変わっているのですから、今になってみれば20才のときの目的はかなわなくても構わないことになるでしょう。80才の老婆が、一生独身でいたにしても、今さら若い男と結婚したいという目的は何の意味もないでしょう。よく考えると次々と変わるあなた方の目的は、かなってもかなわなくても、どうでもいいものになってしまいます。そこで、どうせすぐ変わってしまう目的に重点を置くのはやめて、少々理性を働かせて考えてみて欲しいのです。我々は瞬間たりとも止まることなく、歳を取って、老いて行くでしょう。若い瞬間だけは、楽しく思うかもしれませんが、ノンストップで歳を取るという確固たる事実を実感すると、自分たちの思考が浅くて虚しいということに気付くのです。
次から次へと変わる目的を達成しようとする努力も、我々が思うほど意味を持っていません。
目的はその時空関係の中でのみ、意味を持ちます。時間を変えれば、場を変えれば、目的も無意味になります。
時間空間関係は常に変わっていくので、目的というものはかなってもかなわなくても人生にはさほど影響はないのです。が、失望すると人は大きな苦しみを感じます。なんとでもして、希望をかなえようとします。しかし、努力が実って目的がかなったとしても、時空関係を変えれば無意味になってしまいます。
人間は目的だけにひかれて、なみなみならぬ努力をします。ですが、かなう目的はとても少ないのです。かなわなかった目的について、心がいつまでも引っかかって、えんえんと悩んだり苦しんだりします。牛飼いが、否応なしに牛を鞭でたたき、牛を餌場まで追っていくように、我々の人生も、老と死という2つの現象に追われて終わりになります。
人は、瞬間たりとも停まることなく、自分とともにすべての現象は変化し変わっていくのだと理解して、自分に、目的に、またものに、しがみつく執着心を捨ててしまえば、心の安らぎを体験できます」…彼女たちに対するお釈迦様の説法は、そのようなものでした。それを聞いた彼女たちにも、智慧の目が開きました。
今回のポイント
- 人の目的は、次々と変わるものです。
- 目的に達しなくても、時間が経てばその目的は無意味になります。
- 目的というのは達しても達しなくても、一向に構わないものです。
- 目的にとらわれない心を持てば、安らぎを感じます。
経典の言葉
- Yathā dandena gopālo – gāvo pācenti gpcaraṃ,
Evaṃ jarā ca maccū ca – āyum pācenti pāninaṃ. - 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、
老いと死は生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。 - (Dhammapada 135)