No.59(2000年1月)
どこまで他人に頼りますか
心が清らかにならない行は修行にはなりません
人は何か困ったことがあるとき、すぐ他人に頼りたくなります。普通の人生では、いろいろなことで他人に頼らないと生活は成り立ちません。ですから他人に頼ることは、悪いことではなく必要なことといえます。
しかし、どこまで他人に頼るべきかを理解しておかないと、いろいろな問題が起きてしまいます。
学校、病院、会社、友人などに頼らなければ生活できません。でも、学絞も病院も会社も友人も、我々が必要とすることを何でもやってくれるわけではありません。すべてのことを他人に頼るのは、正しいやり方ではありません。どこまで他人に頼ってどこから自分でやらなくてはならないかという、はっきりした境界線があるべきです。
今の社会でよく見られる現象は、この境界線を無視していることです。学校に子供を預けたら、すべてをやってくれると勘違いする。患者を入院させたら、完治するまですべて病院がやってくれると勘違いする場合もあります。さまざまな人間関係において、他人に頼るべき部分と自分でなすべき部分の境界線をはっきり見分けた方が、スムースに人生を歩むことができます。
しかし人生において、他力の境地と自力の境地が混じり合うことがしばしばあります。そのようなときには解決できないほど複雑な問題が生じます。「なぜそこまで他人に依存するのか」と驚かされることも多々あります。特に自分に実力も自信もない人は、他人に何かをやってもらうことは手っ取り早くて便利だと考えますが、それは怠けの生き方ではないでしょうか。
人が宗教に頼るときも同じです。
自力他力の境界線がなくなって怠け心が生まれたら大変です。病気の治癒も、商売繁盛も、家庭円済も、学業成就も、結婚相手が見つかることも、子宝に恵まれることも、政治腐敗防止も、世界平和も、死んだ人の成仏までも何もかも宗教に頼ってしまう。するとその人の怠け心をよく知るある種の人々が、超能力者、グル、神、神がかり、霊能者などになりきって、あなたを救ってあげましょうと現れます。
そして、弱い人を食いものにします。その状況下では、他人に頼るだけの人達は、悩みが解決しないどころか、さらに苦しみのどん底に陥ってしまいます。しかも弱い人は、ひとつの信仰団体にだまされると、その落とし穴から逃げ出すのではなく、また別な信仰団体を探し求めるという悪循環を繰り返します。自力他力の境界線を無視した、自分の無分別な生き方自体が良くないと気づくことはほとんどありません。
一般的に言えば宗教の世界は、商売繁盛や政治ではなく人の精神面を扱っています。精神的な安らぎを与える約束をします。そこで「修行」という言葉がよく聞かれます。宗教が心の安らぎのために教える道が「修行」ですから、それを批判することはできません。必ず必要なものです。
でも境界線の問題を無視すると、「修行で何でもかなうよ」という怠け心が生まれます。
宗教家も人の弱みにつけこんで、修行という建前で、良いことも悪いことも、無意味で馬鹿げたことも、危険なこともやらせます。修行の場合も、明確な理解がなければなりません。
ここで、お釈迦様の時代にあったいくつかの誤った修行方法について考えてみましょう。裸行はかなり人気がありました。何ものにもとらわれない心を作るのだと考え、自分の着る服まで捨てて出家し、裸になって修行を続けるのです。
この世のなかで常時裸でいるのは大変なことです。
また、ある行者たちは、一生髪の毛を切らないで頭の上でターバンのように巻いて修行しました。髷が崩れたら修行にさしさわるので髪を洗うこともなく、髷を守ることに精一杯でした。
断食すること、必ず下に何も敷かないで地面の上に座ったり寝たりすること、沐浴を完全にやめて身体を汚しておくこと、また、聖なる川、聖なる湖などで身体を清めますが、いつでも身体中にチリ、ホコリ、燃やした牛糞の灰などを塗っておくこと、それからしゃがみ込んだまま、まったく立つことなく生活することなどの修行方法もありました。
冬、湖に入ること、聖地を巡礼すること、山を登ったり降りたりすること、滝に打たれること、何日問も寝ないこと、山にこもって人と顔を合わせないことなどの修行方法もあります。そういうことは、今もいろいろなところで実行されています。
何か変なことをやっているから、あるいは普通の人に真似のできないことをやっているのだからといって、それだけのことで修行にはなりません。心が清らかになるどころか「行」自体が大変複雑ですので、それに気が取られてしまいます。
たとえば、心の汚れや人の悩みを薪に書いて聖なる火で燃やせば良いという修行方法もあります。その場合も、火のたて方、燃やし方などのしきたりが厳密に決まっていますので、火を燃やす行為自体で疲れてします。
ある金持ちが妻と死別したとき、出家する決心をしました。彼は全財産を寺へ運んで、召使いとともに贅沢な出家生活を営み始めました。そのことを他の修行看たちがお釈迦様に報告しましたので、お釈迦様はその人を呼んで、出家では簡素な生活するべきですよと叱りました。
それを聞いた彼は徹底的に質素な生活をしたいと思い、ではすべて捨てますと仏陀の前で衣を捨て素っ裸になったのです。それに対して仏陀は、「あなたには、昔は恥を知るくらいの道徳はあったのに、今はそれもない。捨てるべきなのは衣ではなく、心の汚れですよ」 と戒めました。
宗教は何でもかなう道ではなく、心を清らかにする道です。それも完全自力でも完全他力でも成り立つものではなく、正しく指導を受けて修行することで獲得するべきものです。
心が清らかにならない行は、修行とはいえません。
超能力、病気治癒、商売繁盛などを目指す修行方法も、一層心を汚し精神的病気にも陥らせるので、宗教の修行とは関係ないものです。
今回のポイント
- 他に頼らずに生活はできないが、他に頼ることですべてがかなうわけではありません。
- 他力の境地と自力の境地の間に明確な境界線を引くべきです。
- 心が清らかにならない「行」は、修行にはなりません。
経典の言葉
- Na nagga cariyā na jatā na pankā – nānāsakāthandila sāyikā vā,
Rajo ca jallaṃ ukkutikappadha-naṃ – sodhenti maccaṃ avitinna kankhaṃ - 裸の行も、髷に結う行も、身が泥にまみれる行も、断食も、
路地に伏す行も、塵や泥を身体に塗る行も、うずくまって動かない行も、
疑(煩悩)から離れていない人を清めることはできない。 - (Dhammapada 141)