あなたとの対話(Q&A)

うつ病について/寺庭婦人の悩み/優柔不断と正しい判断基準/他人の言葉は人生の送電線

パティパダー2011年8月号(168)

最近、日本ではうつ病の人が増えていると言われています。長老はどう思われますか?事実だとすれば、なぜうつ病が増えるのでしょうか? うつ病で悩む人々に対して、自分に何ができるでしょうか?

客観的なデータを取ってないので断言できませんが、私もうつ病は増えていると思います。昔の社会では「今日、私は何をすべきか」ということが、はっきりしていました。ですから毎日、忙しく過ごしたのです。それが楽しかったのです。どうすればよいのかと、悩む余裕はなかったのです。しかし現代社会は、知識社会・情報社会です。人間に知識は必要ですが、その知識が複雑になりすぎて、どう使えばいいか分からなくなっているのです。          
 
 会社も社会も、煩雑な規則に縛られて身動きが取れなくなっています。現代人は会社に務めていても、「今日、何をすればいいか」がよく分かりません。学校に通っている子供たちは、なにを勉強すればよいのかと分からない。家を守っているお母さんたちも、なにをすればよいのか分からなくて困っているのです。情報が氾濫している社会に生きているので、選びきれないほど無数の選択肢が、人の前に立ちふさがっているのです。どうすればよいのか、という選択に悩んでいるうち、疲れはてて、うつになるのではないかと思います。それに対して、現代社会であっても、農家の人はうつ病になりにくいと思います。植物は待ってくれませんから、次から次へとするべき作業が出てくるのです。待っていられないのです。ですから、悩んでいる暇もないのです。

 日本社会は無数のルールや規則などで管理されているのです。よかれと思って次から次へとルールを作りますが、やがてそのルールが津波のように人を襲うのです。ルールがありすぎて、身動きができなくなっているのです。日本社会にあるルールや規則の煩雑さに、私はこのようなネタを作ったのです。「学校の教師は教えてはならない。医師なら治療してはならない」と。法律と規則を真剣に守ろうとすると、このような結果になるのです。法律・規則・ルールなどがありすぎて、動けなくなっているのです。医者にしても、患者を治したいという気持ちは明確にありますが、決まりを守らなくてはいけないのです。それで治療を施すことができなくなるのです。みな、このような条件のなかで生きているので、うつにならなかったらそれが不思議だと、言いたいところです。

 うつ状態の人を助けるために必要なのは、①「今日、私はなにをするべきか」とはっきりすることです。今日の仕事をやりたくない、別な仕事をしたい、いま少々遊んで仕事は明日に延ばしたい、などの曖昧な生き方を止めることです。時間というものは、止まってくれませんので、いまやるべきことはいまやる、今日やるべきことは今日のうちやる、という生き方が必要です。そのように決めた人には、悩んでいる暇がないと思います。それから、今日やるべきことは今日のうちやり終えたと、自分自身を褒めてあげるのです。「今日はよくできました」と自分に合格点をあげるのです。それで明るく生きられると思います。②次に、とにかくよく笑うこと、他人をよく笑わせることです。たとえ根っこから暗い人であっても、無理にでも笑ってみると人生は明るくなるのです。性格が変わるのです。ひとは何があっても心の明るさを失ってはいけません。明るさは心を活発に動かす栄養剤なのです。心の明るさを失う時、心は怒りに支配されているのです。怒りは自己破壊の始まりです。どんどん暗くなって、うつ状態になってしまう危険があります。ですから、怒りが入らないように、「何があっても、笑っちゃおう」という言葉をモットーにしましょう。

寺に嫁いだものです。日本仏教や日本の僧侶に対するさまざまな非難を聞くと、女性が寺にいることに疑問を感じてしまいます。どう考えればいいでしょうか?

人から批判されることをいちいち気にしていたら、私なんか活動できませんよ。かつて日本に、テーラワーダ仏教徒なんか一人もいなかったのですから。大乗仏教の国で、なにをしているのだと散々批判されましたから。

それはともかく、日本のお寺で檀家さんたちから信頼されているのは、住職ではなくて奥さんの方です。檀家さんたちは何か困ったことがあると、住職ではなく、まずお寺の奥さんに相談するのです。女性の働きなしに、もう日本のお寺は成り立たないですよ。ですから、「寺に女性がいていいのか」などと、いちいち悩む必要はないのです。

女性は男なんかよりいとも簡単に、人の役に立つことができます。例えば女性は、平気で人を怒鳴りつけられますね。これって、男にはできないことです。ギスギスしがちな人間社会で、潤滑油になって人々に安らぎを与えられるのは女性です。その女性が自分の能力を使わないと、社会が壊れてしまいますよ。お寺にいる奥さんは、みんながお寺に来たら安らかに過ごせる様に、雰囲気作りをして欲しいと思います。そうやって女性としての能力を活かした仕事をして、お寺を盛り立てるように頑張ってみてください。

スマナサーラ長老の本を読んで、「優柔不断はやめた方がいい」という言葉が印象に残りました。ただ、人生ではイエスかノーかとはっきりするのがなかなか難しい問題もあって、悩んでしまうことも多いと思うのです。いかがでしょうか?

まずは「何に対して優柔不断か」ということを区別して考えないといけません。何でも優柔不断で決められないというのは精神的な病気ですが、逆にすべての事柄について優柔不断から解放されるということはないのです。私にも、優柔不断になるケースはあります。たとえば、携帯電話の機種変更をどうするかについて、電話が使えなくなるギリギリまで情報を集めて悩んでしまったりするのです。

 しかし、どんな問題であれ、優柔不断だと時間が無駄になります。人生の時間は短いのです。人生のその時その時を充分に生きていないと、あとで悔しくなります。みなさんには、瞬間・瞬間を充実して生きて欲しいのです。しかし、「時間がもったいないから何でもいいや」といい加減に判断したら、かえって心配です。困りましたね。ではどうすればいいのでしょうか? 

 仏教は、私たちが判断で困ることなく、安心して、瞬間・瞬間、充実して生きる道を教えているのです。まず、「悪いことは断固として止める」のです。そのうえで、自由にいきいきと生きるのです。私たちは、「悪を止める」ことに優柔不断であってはならないのです。世の中では「道徳を守る人」というと、かたくなで嫌な人間だと思って警戒するのですね。上辺を飾るために形式的に道徳を守っている人は確かに気持ち悪いですが、本来、仏教で道徳を守るのは、自分自身の「自由」を守るためなのです。悪いことさえきっぱり止めれば、精神的な後ろめたさ無しに生きられます。精神的な後ろめたさが、心の重荷になって、人間の自由を奪うのです。

 優柔不断で困る人というには、悪を止めるという意志がはっきりしない人です。悪いことを止めるべきか、やっぱりやっちゃうべきか、と迷うことは時間の無駄です。その優柔不断で、精神的なエネルギーを無駄に浪費してしまうのです。

 スーパーでキャベツを一つ買うか、半分買うかと悩んだりするのは、別にどうでもいいことです。でも、そんな程度のことでも、時間を浪費するのは確かです。その分、私たちは自分の能力を失ってしまうのです。瞬間でどちらか決めなければいけない場合、的確な答えは、「どちらでもいい」なのです。善悪の問題以外で、私たちが優柔不断になる時は、ほんとはどちらでもいいのです。どちらにせよ、ひどい目にあいますよ。判断がウロウロする時は両方ともロクなことがないのですから。そんな問題で、自分の大事な時間、大事な精神力を浪費しないことです。

 何か目的がはっきりしていれば、判断に時間はかかりません。選択で悩む場合は、どちらにも欠点がある。だから、どうでもいい時は占い師に聞くのです(笑)。自分でコインを投げて、裏表で決めても大丈夫です。善悪のように、はっきり決めるべきことと、どうでもいいことを区別しないと大変です。日本の国会のように、震災が起きても延々と議論して時間をなくすのはよくないのです。原発問題でも、政府や東電が優柔不断になっていることで、事態がどんどん悪化しています。仕事するべき処で優柔不断になると命に関わります。まずは鬼のように即決して動かないといけないのです。

 とはいえ、将来はよく解らないことだらけです。大胆に結論を決めなければいけない場合、判断ミスによる危険性を防ぐ方法は、やはり「悪いことだけはしない」と決めることです。それで最悪の事態からは守られます。日常生活でも、ビシビシ決めるべき時はさっさと決めて、時間と精神力を無駄にせず元気に生きればいいのです。
仏教的なポイントをまとめると、優柔不断で、精神的な力を浪費してはいけない、ということです。優柔不断でこころのバッテリーを漏電させてはならないのです。判断の『お守り』は「悪いことだけはしない」という意志なのです。

 参考のために、お釈迦様が説かれた判断基準を紹介します。お釈迦様は人生の問題を三つに分類しました。①イエスかノーかを断言的に決めるべき問題。②よく分析してケースバイケースで決めるべき問題。③自分の管轄外の問題。この三種類です。人生で遭遇する問題をこの三つに分けてみてください。人生のさまざまな問題が、適切に整理整頓されると思います。

 たとえば、原発事故の放射能汚染対策や震災復興などは、国民の命に関わることですから、①の問題です。「お前の言葉遣いが悪い」とか「お前は信用できない」とか足の引っ張り合いをして時間を無駄にすることなく、即決して団結して、直ちに動かなければいけないのです。一方、私たちがテレビの報道などを観ると頭が混乱してしまうのは、③の問題、まるっきり自分の管轄外の問題を、あたかも「自分の問題」のように思わせられてしまうからです。メディアの情報を鵜呑みにすることで、優柔不断の泥沼に嵌って判断力がなくなってしまうのです。ですから、テレビを観る場合でも、鵜呑みにしないで、喧嘩しながら情報をいれることです。理性的に「これは自分の管轄外だ」と決めたら、その問題についてあれこれと悩まないようにしましょう。

私は、他人から言われたことにすぐ傷ついてしまいます。どうすればいいでしょうか?

それは先ほど紹介した判断基準からすると、②よく分析して答えるべき問題です。いろいろ言ってくる他人とは誰なのでしょうか? 相手が親ならば、子供のことを心底から心配して、キツイことを言うのは当然です。そんな厳しいことを言われるほど愛されているのだ、ということです。また、言われたことに対して「あんた何様か?」と無視してもいい相手もいます。言われたことを聴くべき相手もいるし、無視してもいい相手もいるのです。ひとによります。
 
 私たちは、「他人に言われること」で成長するのです。他人から言われることは、人生の送電線のようなものです。赤ちゃんの頃から他人に育てられて、他人に言われて成長するのです。でも、必要な電気と一緒に送電線からカミナリが流れてしまったら困りますね。いきなり電圧があがって、家電がショートしてしまいます。ですから、避雷針をつけて対策して、必要な電気は通す、というふうに生きるのです。
 
 ひとは、死ぬまで他人に言われて生きるのです。それを拒否するのは無理です。老人の私だって、親戚に会うといまだにいろいろ言われます。でも、それも楽しいのです。親戚の立場で言ってくれる人は、世界に何人かしかいないのですから。社会の人気者でも、母親はなんのことなく一言でバカにしてしまう。子どもにとっては、それがありがたいことです。ですから、相手が何者かを見極めて、自分が取るべき態度を考えることです。
 
 他人から言われるというのは、決して小さな問題ではありません。「他人の言葉」とは、自分の人生に繋がれた送電線・生命線・パワーラインです。私がいまこうやって皆さんに話している内容も、すべてお釈迦様という他人から、経典を通じて「言われたこと」によって成り立っているのです。