No.86(2002年4月)
「ホンモノ」と「ニセモノ」
中身を磨くか、うわべを飾るか
ホンモノとニセモノの違いはどこにあるのでしょうか。
その判断を誤ると、ときにはたいへんな結果を招くことになります。
世の中にホンモノなんてあるのか、ニセモノばかりではないか、と言いたくなるときもありますが、その議論はさておいて、私たちは、自信があるわけではないのですが何とかニセモノに騙されないようにして、毎日を注意しながら生きているのです。
ホンモノとニセモノの区別・判断は、至るところで必要になります。市場に出回っている商品を買うときもそうです。しかしこの場合には、はっきりとした利害が絡むことですから法律できちんと禁止されていますし、たとえニセモノを買わされたところで、笑い話くらいで済ますことができます。では、自分はいかに生きるべきか、その道を教えて欲しい、善悪について教わりたいというときはどうでしょうか。人は、自分の弱さのために他人に頼ろうとするものですが、ここでニセモノに騙されたら、その人の人生は不幸なものになってしまいます。
ニセモノに騙されると、生き方も性格も思考も、取り返しのつかない悪い結果になるのです。そうならないためには、ホンモノを見分ける能力が必要であり、その能力を育てるためには知識や情報が不可欠です。しかしその知識や情報も、ニセモノから教えられたものだったら、何の役にも立ちません。ホンモノを見分ける能力を得るために、ホンモノを見分ける能力でホンモノの指導者を選ばなければいけない、ということになるのですが、これではただの同義語反復であり、言葉遊びになってしまいます。ホンモノを見分けるのは簡単なことではないのです。
私たちにできることは、とにかく常に自分の感情に操られないように注意深く生きることだけです。そのときも、あまりに注意深くなることによって、何もすることが出来なくなったり、他人を疑いの目で見たり信頼できなくなってしまっては問題です。それは精神的に異常な状態であって、そんなふうになってもまた困るのです。
ホンモノとニセモノは、宗教の世界においても存在します。
宗教は、人の生き方、道徳、こころに深く関わりをもつものです。政治や経済にまつわる概念よりも、はるかに大きな影響を人々に及ぼします。宗教は人を徹底的に管理しようとし、また実際に管理します。それを信ずる者の自由はかなり制限されます。それがニセモノの宗教であるとしたら、危険なことこの上もありません。
宗教というのは、常に自分たちの教えが正しく、他の教えは間違っていると言うのです。あちらの教えも真理を語っているが、信じるのは私たちの教えのほうにしなさい、と言うことはあり得ません。それは矛盾したことです。仮に百の宗教があるとしましょう。各々が、自分たちの教えだけが正しくて他は間違っていると考えています。そこで、もしどれが正しいのか投票で決めるとしたら、一体どうなるでしょうか。どの宗教にも、賛成票一、反対票九十九という結果になります。どの宗教がホンモノだなんて、そういうところでは問題にすることさえ不可能です。解決の方法がないのです。
しかしながら、諸宗教間のホンモノ・ニセモノのことは、そんなに大した問題ではありません。一番たちが悪いのは、同じ宗教内の本家争いです。その場合、その宗教を信じる人々が、本当に困るのです。喧嘩別れして、結局衰退してしまったりもします。身体をおかすガン細胞のようなものです。お釈迦さまの偉大なる真理の教えも、かつて本家争いで、容易には立ち直れないほどのダメージを受けました。
では、ホンモノとニセモノを区別するものは何でしょうか。ヒントになることを幾つか挙げてみます。先ず、ニセモノは常に自分を売り込もうとします。仏教では、これは大きなヒントになります。ニセモノは、皆に気に入られようとし、教えを語るよりも相手の気持ちに逆らわないように気をつけます。大衆に人気があることを自慢し、権力者や知識人や資産家が信徒になると、その人々の世俗的な能力を自分の宣伝に利用します。経典には、ニセモノの長いリストが出てきますが、その中のお釈迦さまの言葉を一つだけ紹介しましょう。「ニセモノ(の比丘)は、歩くときも坐るときも食べるときも、用を足すときでさえも、他の人に好かれるように、人気が得られるようにするのです。」ですから、「私は悟った」と自ら宣伝する人はニセモノです。本当に悟った人は沈黙を守り、他人に誉められようが批判されようが、そういうことには無関心に、真理の生き方を貫くのです。自分の中身がどうあるかを問題にするのです。
それに対しニセモノは、表面を気にして、うわべを磨きます。ぼろ服を着たり、断食したり、美味しいものをわざと不味くして食べたり、何かの行で身体を痛めたり、様々な祈祷用の装身具を身につけたりします。世の人々は、仏教の聖なる境地を知り得べくもありませんから、それを見てホンモノだと勘違いするのです。ニセの宗教家の狙いも、そこにあるわけです。聖者に認められることではないのです。
仏陀の時代の話ですが、ある比丘がRevata大阿羅漢の庵に住み、朝も昼も夕方も夜も、いつも箒を手放すことなく掃除に専念していました。この比丘は正直者で、「とにかく朝から晩まで何かをしていれば修行になるのではないか」と思っていたのです。「信者さんの御布施を戴いて何もしないでいることは、出家者としてふさわしくない生き方だ」と思っていたのです。仕事といっても出家者には他にやることがないのだから、掃除ばかりしていたのです。彼は、作務を熱心にすることで立派な修行者になれるのではないかと思っていたのです。その彼が、ある日の午後、掃除が殊のほか忙しかったのか、坐ってサマーディに入っていたRevata長老に向かって、「怠けるな」と言ってしまったのです。それに対して長老は、「掃除は一日一回で充分です。ホンモノの仏道はこころの掃除なのです」と彼を諭しました。その比丘は、その言葉を聞いて深く反省し、それからよく修行に励みました。掃除が一日一回になったものですから、庵の周辺は以前ほどきれいではなくなり、他の比丘たちが掃除を怠けているのではないかと彼に糺しました。彼は、「昔怠けていたときには、一日中よく掃除をしたものです。いまはこころから怠けが消えたので、掃除のことはそれほど気にしません」と言いました。比丘達はそれを聞いて、「彼は自分が悟っていると言っている」と、お釈迦さまに報告しました。お釈迦さまは、その比丘が悟ったことを認められたということです。
修行も、表面的に判断できることをしているだけでは、ホンモノの覚者にはなり得ないのです。
今回のポイント
- ホンモノとニセモノの区別判断は容易ではありません。
- 諸々の宗教の真偽の判断は据え置くものです。
- 実践せずに覚者探しするとニセモノに出会う。
経典の言葉
- Yo ca pubbe pamajjitvā pacchā so nappamajjati;
So imaṃ lokaṃ. pabhāseti – abbhā mutto’va candimā. - 以前には怠りなまけていた人でも、のちに励み努めるならば、
その人はこの世の中を照らす。あたかも雲を離れた月のように。 - (Dhammapada 172)