パティパダー巻頭法話

No.97(2003年3月)

人生には暇はない

真理に出会うチャンスはまれである Life never rests in peace.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人はのんびり生活したいと思っているものです。仏教は、人にのんびりする暇はまったくないという立場をとっています。のんびりするというのは、どういう意味でしょうか。

日々の生活は忙しくてあわただしく、やらなくてはいけないことが多いのです。そして時間が足りないということになります。時間が足りないということは、やりこなせないほどの仕事をたくさんやろうとしているか、無駄なことに時間を費やしているか、仕事が遅いかのいずれかです。やりきれないほどの仕事に手を出す人には、合理的にものごとを考える能力がないということになります。それで、生きることは苦しいものになりますし、人生は失敗します。これは『無知』という状態です。不必要なことをして時間が足りなくなる人にしても、合理的にものごとを考える能力がないことはあきらかです。では、仕事が遅い人の場合はどうでしょうか。仕事を時間内に終了させる理解能力に欠けているのです。これも『無知』という状態です。このどちらにしても、生きることは苦しいものになるし、人生は失敗します。総合してみると、皆あわただしく生きているのですが、幸福になる見込みはなく、人は誰でも苦しく生きていることになります。

のんびりしたいと夢見るのは、あわただしい人生に不満を感じるのですから、その反動です。のんびり生きるということはどういうことかと、誰も具体的に考えたことがないのです。ですから、3日も連休があると、なんだか落ち着かなくなるのです。仏教から見ると、忙しく活発そうに見える人も、のんびりだらだらしている人も、生きるということはどういうことかを考えていないのです。前者はその問題をごまかし、後者は怠けてその問題から逃げてしまうのです。

人間の思考の源は、『無知』なのです。ですから、何を考えても、何を開発しても、いくら努力しても、苦しみを乗り越えて安らぎを確保することはできません。平和で豊かな社会を築こうと昔から今まで努力だけはしてきたものの、成功したためしがないのです。将来に対する不安を無くそうとあらゆる努力をしますが、いつまでたっても、将来に対する不安は化け物のようにこびりついて離れないのです。原因は、無知に基づいて思考しているからです。

無知がある限り、『のんびりする』ことはかなわぬ夢に終わります。無知がある限り、生きることはあわただしくなるのです。にもかかわらず、納得いく結果も得られないのです。何とかしようとするので、さらに追われて、あわただしく生きる羽目になるのです。このゲームは、死ぬまで続くのです。この状態をまた、総合して考えてみましょう。いかなる人でも、生まれて年老いて、病に冒されて死ぬのです。その間は、苦しみを避けて楽を得るために必死でがんばります。しかし成功したためしはありません。たとえ成功したと思っても、病老死に打ちのめされて終わるのです。言い換えれば、人は、生きる目的があって努力して確実に進むものではなく、死ぬまで、ただ、生きているだけです。目的が存在しない人生は、むなしい(dukkha)ものです。探しても、生きる目的、生きる意味は見つからないと思います。なぜならば、生きることには、何の目的も、何の意味も、もともと存在しないのですから。

仏教には、輪廻と衆生という2つの考え方があります。輪廻とは、生命が限りなく流転するという意味です。仏教が語る真理は、命あるすべての生命に当てはまるものです。人間だけに通じるものではないのです。ですから説法をするときは、衆生(すべての生命)という言葉を使うのです。生命といっても地上の生命に限っていないのです。皆知っている六道といえば、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天です。それは生命が流転する次元です。また、生命のこころの働きに基づいて9つの次元(nava sattāvāsa、九類生)も語られています。衆生は無量にいます。そのなかで、人間の数は、考えられないほど少ないのです。たとえていえば、大気の中に無量の空気がありますが、針の穴に入る空気はわずかです。そのように、無量の衆生の中で、人間の数もわずかなのです。人間には、こころを育てて輪廻を脱出することができるのです。このまれなチャンスを生かさなくてはいけないのに、人間は一日生きることで精一杯なのです。それさえも、ろくにできないのです。あわただしい人生の反動として、のんびりしたいと妄想するのではなく、衣服に火がついたような感じで瞬間を無駄にしないで、生きることを乗り越えるために努力するべきですとお釈迦さまはおっしゃっています。やっとのチャンスを生かすことが利口な生き方です。衣食住を確保するためだけの人生は、むなしいのです。無知を破るために、智恵を開発するために、苦しみを乗り越えるために、努力する人の生き方はむなしくならないのです。人間として生まれたまれなチャンスを生かそうとする人にだけ、生きる目的が成立するのです。

人間に生まれることだけがまれとはいえないのです。もっとまれなことがあります。仏陀が現れることです。宇宙が破壊し、再形成するときには、人間も現れます。しかし、悟った人が現れるとはいえないのです。今の人間は、仏陀が現れた時期に生まれているので、まれのなかでも、さらにまれなチャンスに恵まれています。今仏陀はいないが、仏陀の教えを理解し実践できる間は、『仏陀が現れた時期』だと説かれています。それからさらにまれなことがあります。地球上には61億5805万人以上の人が住んでいます。しかし、仏陀の言葉を聞いて、実践しようとする人々はどれほどいるのでしょうか。ですから、仏教を勉強できる機会に出会うこともまれのなかの、さらにまたまれなことです。

たとえ話をします。ある人が、砂粒ひとつを持ってどこかへ落とす。それは地球のどこなのかわからない。絶対見つかるはずのないその砂粒を、ある人が探して、見つけたとします。不可思議な、奇跡的な、あり得ない出来事でしょう? 今、生きている我々は、その砂粒を見つけたような起こり得ないチャンスに恵まれているので、仏陀の道を実践するために励むべきではないかと思います。人には、のんびりする暇はないのです。

今回のポイント

  • 人間の思考の源は無知です。
  • 無知と怠けが、のんびりしたい気持を起こします。
  • 真理を知るチャンスはまれなのです。

経典の言葉

  • Kiccho manussa patilābho – kicchaṃ maccāna jīvitaṃ
    Kicchaṃ saddhamma savanaṃ – kiccho Buddhānaṃ uppādo.
  • 人間に生まれることは稀である。生き続けることはむずかしい。
    真理を聞くことは稀である。仏陀の出現も稀である。
  • (Dhammapada 182)