パティパダー巻頭法話

No.108(2004年2月)

逃げる幸福

ものに頼る幸福は、人を裏切る Betrayal of Happiness

アルボムッレ・スマナサーラ長老

幸せに生きるとは何なのかを総決算して考えてみましょう。

必要な順番で言えば、まず、食べるものだと思います。食べるものには何の心配もない、どんな高価な食べ物でも簡単に手に入るというのであれば幸せでしょう。
次は服です。自分に似合う、気に入った服なら何でも簡単に手に入るならば、これも幸せです。
次は住居です。気に入った環境で、使い勝手が良くて、優れた建築家にデザインされた、広々した美しい家があれば、それも幸せです。スイミングプールとテニスコートでもついているならなおさらです。

次の幸せは、メディカルケア(健康管理)です。最先端の医療技術の恵みが手の届くところにあれば幸せです。とはいえこの幸せは、四六時中病気にかかっていないと巡り会えません。ですから医療技術より、風邪ひとつもひかない健康な身体でいられれば、それが幸せです。万が一ということもあるから、やはり最高の医療技術もあった方が安心です。
欠かせない幸福はこの4つです。

食事と言っても、前菜、ワイン、デザート、BGMなどもついていた方が、より一層豪華です。
幸福も同じことです。その4つさえあれば充分ということにはなりません。幸せな家族、気の合う友人たち、社会的な地位、人気などの「つけ合わせ」も必要です。それで文句のない幸せだと思います。

では、この幸せを得るためには何が必要でしょうか。
それがはっきり分からないので、困ったものです。大まかにいえば、知識とお金です。知識が収入を得るためのものだとするならば、お金だけでも充分ではないかともいえるのです。しかし、大富豪の家に生まれても、知識がなければ財産管理ができないので、知識は必要だと思います。
ところが、知識があってもいい仕事が見つからない人もいます。これは一般的に「ついていない」といわれるものです。ですから「ついている」必要もあるのです。生まれつき身についてくる「能力」なども、「ついている」ということになります。また、運良く良い仕事に巡り会ったとしても、うまく仕事がはかどらない人もいます。失敗したり、人間関係がまずかったり、アイデアが出なかったりする場合もある。これは能力という問題です。ですから当然、能力も必要です。
幸福になるために必要なものが、やっと4つにまとまりました。知識、お金、運と能力です。これで幸せの総決算は終わります。

世の中の人々は、明確な決算もしないで、単純に金さえ入れば何でもできると思っている。手段を選ばず儲けることに励む。金のためなら、戦争でもする。手段を選ばず金を儲けようとするときは確かに儲かりますが、かかる費用はいつも収入よりも高いのです。

財産に恵まれている人々の間でも、幸福に生きるというより、衝動的な生き方が見られます。食料を買うとき、一年分二年分を一遍に買う。気に入ったメーカーの服なら全て買う。一人の人間が150年使えるほど服を買いだめして、保管・管理などは会社に頼む場合もある。アクセサリーを買って、貸金庫を埋め尽くす。ものはあればあるほど幸福だと思っているから、このようになるのです。

金やものがあればあるほど幸福だと思うと、それは幸福の決算と全く関係のないものになるのです。
思考が脱線して暴走する状態です。正真正銘の精神病です。人についている知識、金、運、能力の量によって幸福のレベルも決まります。不正な行為でそのレベルをあげることはできません。さらに幸福になりたければ、知識、能力などをレベルアップすることです。

幸福の概念が暴走している人も、常識的な範囲内で幸せになろうとする人も、ある一点で似ているのです。
それは、「ものがあれば幸せです」という点です。何か、自分のものとして持ちたいのです。これもわたしのもの、あれも私のもの、という場合は、「幸福気分」なのです。幸福気分と本当の幸福は違うのです。いたるところに別荘を持っても、そこに行って休む暇がなければ維持管理に悩むことになるのです。宝石などの高価な品物を持つと、それらを守ることはたやすいことではありません。財産があればあるほど、厳密に管理・会計などをしなくてはいけない。税金を払うための決算も大仕事なのです。このような「幸せ気分」は、苦しみだけであって幸せではありません。

ものを持つことは大変やっかいなことです。
守らなくてはならないのです。
ものがありすぎる人よりも、何とか間に合っているという人の方が大変です。ローンで手に入れた家でも、欠陥住宅になってしまえばお手上げです。やっと手に入れた車でも、車庫入れでぶつけてしまったら、修理代がないからショックでしょう。

ものに依存することのみで幸福だと感じることが、こころの病気なのです。
火遊びです。こころが弱い、満たされていないという証拠です。
幸福は、買った車が運んでくれるものではありません。ブランドの服も幸せを運ばない。ものが運ぶのは、苦しみなのです。
真の幸福感は、汚れていないこころに現れるものです。病んでいないこころの、生き生きした状態が幸せなのです。わかりやすくいえば、「何も要らない」といえる状態が本当の幸福です。

仏陀の語る幸せは、このようなものですので、苦労してここまでお読みになったと思いますが、前半の幸福論は、あてにならないものだと言わざるを得ないのです。釈尊は、ご自分のことを全く知らない辺鄙な村へ行かれました。そちらに頭のいい若い女性たちがいて、彼女たちに真理を教えてあげれば、悟りを開けると察知されたのです。

狙いの娘たちは、朝早く、沐浴して身づくろいするために村を出て川に行っていました。
釈尊は村に入り、托鉢しました。しかし、ご飯ひとさじももらえなかったのです。洗ったままの鉢を持って、釈尊は村を出ました。そこへ意地悪な人(マーラ)が来て、釈尊をからかうことにしたのです。「あなた、お腹がすいて大変でしょう。明日まで待たなくては何も食べられないから腹が立っているでしょう。2、3回、村を回ってみなさいよ」などと言ったのです。ちょうどそのとき、娘たちもそこへ戻って来ました。その機会に釈尊は、「本当の幸福とは何なのか」を説法なさったのです。食い物がなくなったくらいで聖者の幸福は変わらないのだと説いたのです。それで娘たちも悟りを開いたのです。

今回のポイント

  • 幸福は人の能力によるものです。
  • ものは幸福より苦しみを運びます。
  • 清らかなこころは真の幸福です。

経典の言葉

  • Susukhaṃ vata jīvāma – yesaṃ no natthi kiñcanaṃ,
    Pīti bhakkhā bhavissāma – devā ābhassarā yathā.
  • 何も持たない我らは楽しく住む。
    アーバッサラ神々のように喜びを滋養として。
  • (Dhammapada 200)