パティパダー巻頭法話

No.113(2004年7月)

出家儀式の後のご法話・他

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

最高の善行為である、お二人の出家を祝福します
比丘出家儀式のあとのご法話

ダンマラーマ比丘の話

お釈迦さまが涅槃に入られることを宣言された時、あらゆる比丘たち大阿羅漢たちが釈尊に最後の挨拶をするため伺いました。比丘たちばかりか、諸国の王様たちをはじめ、あらゆる人たちが集まってきたのです。ただダンマラーマという一人のお坊さんだけが、別れの挨拶に姿を見せず、どこかに隠れていました。「釈尊が亡くなると聞いて、悟りに至っていないお坊さんたちは皆泣き崩れている。在家の方々もみんな泣き崩れている。それなのに、なぜダンマラーマだけは頑固に姿を見せないのか」と、比丘たちの間で話題にもなっていました。

そのとき、釈尊のお体は随分と壊れてしまって、地面の上に横たわったままでした。比丘たちの話を聞いた釈尊は、「貴方がたはお互い何を話しているのか」と訊ねられました。比丘たちは「我々も在家の信者たちも、神々さえも、今ここに来てお釈迦さまにお供えをしたり最期の別れの挨拶をしたりしています。しかし、ダンマラーマ比丘だけは、世尊のことで泣くどころか顔も見せない。一体どういう人なのかと、疑問に思っているのです」と。

釈尊に最高のお供えをした人

そこで釈尊は「ダンマラーマ比丘を呼びなさい」と仰いました。比丘たちがダンマラーマの許に行って釈尊のお言葉を伝えたところ、彼はたちまち立ち上がって、お釈迦さまの臥処を訪うて礼をしたのです。釈尊は、「ダンマラーマよ、他の人々は私が亡くなると聞いて、別れをしたりお供え物をしたり泣き崩れたりしているのに、君だけ全く無関心で我がまま勝手にしているという話を聞いたよ。それは本当かね」とお聞きになりました。

ダンマラーマ比丘は、「世尊よ、それは違います。私は世尊が最後の息を引き取る前に、何とかしてすべての煩悩をなくして、完全たる解脱を体験したい、悟りたいと思って、必死になっていま修行中なのです」と答えました。するとお釈迦さまは三回、「サードゥ(善哉)、サードゥ、サードゥ」と彼を讃えたのです。

「もしこれから私の弟子たちが私を敬いたい、私を尊敬したいと思うならば、仏教徒として在俗信徒として真面目に勤めたいと思うならば、ダンマラーマのやっていることをすべきです。彼こそが、私を尊敬する者であり、私のことを真面目に考えている弟子なのです」と。

出家は釈尊の直弟子となること

仏教の世界では、お祭りやお供え儀式・儀礼をド派手にやっていますね。しかし、そういう儀式よりも、「修行する」というお供え(パティパッティプージャー)こそが、釈尊に対するほんとうの尊敬であり、ほんとうのお供えであると、お釈迦さまは説かれたのです。

お釈迦さまを祝賀し賛嘆するウェーサーカ祭の日である今日、たいへん信仰厚く、お釈迦さまに対する信頼・確信が厚い日本人のお二人が仏道に入られました。これこそウェーサーカ祭のメインイベントであり、お釈迦さまを大事にする、尊敬する行いなのです。今日は朝から出家儀式の準備で慌しくて、去年のように午前中から穏やかな雰囲気を作ることはできなかった。しかし仏道においては最大の素晴らしいことが行われたのです。このお二人を比丘としてサンガが認定いたしました。サーリプッタ尊者・目蓮尊者からずうっと伝わってきた三衣(袈裟)を正式に与えられて、在家の服を全部捨てられて、名前まで全部捨てられてしまって、お二人を仏弟子としたのです。

これは全国にいるテーラワーダ仏教に興味を抱くみなさまのお陰です。お二人の方を比丘として、お釈迦さまの直弟子として認定したこの大功徳は、みんなに平等に還ってきます。我々は釈尊が生の声で言われたとおりの、釈尊に対する、釈尊にも認められるお布施をした。お釈迦さまから褒められるような善行為をした。想像もできないほど徳ある行為が、今日この日本で行われたという喜びをみなさまも感じてほしいのです。

出家をさせることは在家者の「特権」

出家として生活することは楽ではありません。今までやってきたことが何一つできなくなります。これからみなさま方が温かい心で、比丘たちが修行できるように協力してあげることは、「在家者の特権」なのです。それも忘れずに、身の回りのこと、何か問題があるときの手助けをしてあげて下さい。それは仏法僧に対するお供えになり、お布施になり、みなさまも大功徳を得られることになると思います。その反応として、この二人の方は大変真剣に修行することでしょう。

お二人がこれから比丘として学ばねばならないしきたりは数多くあります。師匠はその時々の間違いを見つけるたびに教えてあげるのです。いきなり全てを言ったら忘れてしまうし、大変な仕事ですからね。一つ一つ伝えていくと、五年はかかります。だから、五年間師匠から離れてはいけない。そこまで指導するのは師匠の責任なのです。

私だけでなく、先輩のお坊さんは誰でも、随時に指導しますから、いったん出家したら誰に何を言われるかわからないのです。二人の新比丘は、これから「あなたは何様なのか」という態度はとれません。サンガに入った時から、自分という存在は消えてしまったのです。どんなお坊さんからでも、何か見つけられたら、言われる可能性があります。時によって親切に諭される場合も、強い調子で叱られる場合もあります。それもちゃんと理解して、「自我がないのだ。己(おのれ)がないのだ。間違いがあってはいけないのだ。仏陀には迷惑をかけてはいけないのだ。偉大なる大阿羅漢たちに迷惑をかけてはいけないのだ」と考えて頑張ってください。

人間として、比丘として

お二人の修行によって、ご親族の方々もたいへん幸福になります。この出家儀式に参加したみなさまも幸福になるのです。自分の修行によってみんなが幸福になりますようにという気持ちで、お二人はこれから励んでください。お二人にはワンギーサとヤサという、お釈迦さまの八十大弟子の名前を選んであげました。その名前に適うような生き方をするのは無理だと思いますが、自分の名前の由来は覚えていたほうがいいのです。人間としては、それぞれ弱みや失敗はつきものですが、気にする必要はない。人間として誰でもそんな変わりはありません。みなさまも、ただの人間として、ただし比丘として、お二人に尊敬の気持ちで接して頂きたいと思います。
(了)

仏教はほんとうの奇蹟を起こす協会総会開会の挨拶

釈尊の教えを日本人のものに

仏教を伝道するということは、お釈迦さまの本来の純粋な教え、限りない慈悲、真理の道、しっかりと生きられる道を伝えることなのです。みなさまは随分軽い気持ちで手を出したようですが、これはもう、とてつもない大変な仕事なのです。お世辞もおだても抜き、真剣に考えてもこの協会の活動は日本の歴史に残る仕事です。

私が日本に来てから特に考えたのは、ただ単に外国のお坊さんが伝道師として来日してグループを作り、その人が国に帰ったらそれで終わりという形ではなく、「日本のみんなの手に仏教を渡したい、仏教を日本人のものにしてあげたい」ということでした。仏陀の教えを自分の手に入れたなら、それこそが幸福と平和の道であり、曖昧で中途半端な人生を解決する答えを見つけたことなのです。

精神の支えを失った人々

いまの日本社会を見渡しても、精神的な支えがないのです。みなさまは本来道徳的な国民で、お母さん方から教えていただいた「悪いことはしないように、世間に迷惑を掛けないように」という教えを真剣に守って平和な国を築いている。しかし他人とは喧嘩しないだけであって、一人一人を見るとどう生きればいいのか分からない混乱状態なのです。悪い例えをすれば、尻に火をつけたような感じで走り回っている。だからこの平和というのは、とても不安定で、ちょっとしたことで大変な結果に陥ります。時々小学生の子供たちが人を殺してしまったりもするのです。また、これが国際的な問題になったら、民族的な感情も沸騰して、かなり危険な状態になるのは目に見えています。

「生き方の発見」が希望を拓く

みなさまには何があっても落着いていられるしっかりとした生き方、誰とも闘わない勝利者の生き方を身につけて頂きたい。そうやって、日本が世界のリーダーシップを取って欲しい。そういう能力はあるのです。私はみなさまによく「差別意識の塊ではないか」と批判しますが、それは仏教の真理の世界から言っていることです。日本の方々は俗世間では寛容的で偏見はそれほどないし、差別意識も薄いし、性格もよくて人に親切です。そういう人々が世界のリーダーシップを取らなくてはいけないのです。でも、リーダーシップをとるどころか、恐ろしい人間に操られてしまっている。日本の弱みは、自分たちがどう生きるのかということがはっきりしないことに起因しているのです。

みんなが幸せになれる「道」へ

こうやってキツイことを言うのは、あくまでも親心です。私は、「もうこの人はダメだ」と思った日から親切になります。死にかけている人には何も期待することはありませんから。

みなさまには、戦争と破壊の危機に曝されているこの世界に向かって、「人類が生きる道はこれだぞ」といえるような発展の道を歩んで欲しい。そんなこと可能かと気にする必要はありません。仏陀の道を歩むならば、ただほんのちょっと「やりましょう」と思うならば、確実に成し遂げられます。私たちはこの活動を通して、色々な宗教儀式などでは考えられない、真の奇跡を起こさせてみせているのです。ほんとうに人のこころを治し、みんなが幸せになれる「道」を教えているのです。

仏陀と共に歩むみなさまへ
総会終了の際の挨拶

仏教は社会の迷惑ですか?

今日のウェーサーカ法要は、午前中からの聖なる仏教儀式と、日本の世間にあって我々が協会をどう管理すべきかを話し合うこの総会という、聖と俗に分かれました。聖も俗も必要であって片方ではいけません。
三、四年前の話ですが、仏教が欲の無い世界や貪瞋痴のない境地を語っていることを取り上げて、「あんた方は社会で役の立たない連中ではないか、社会では貪瞋痴がなくては活動できない。だから仏教は迷惑だ」と質問してきた人がいた。その人に対して、私は逆に「貪瞋痴のあるあんた方こそ迷惑だ」と反論しました。会社を興して、必死に頑張っているのに倒産させてしまう。社員は法律違反のサービス残業までしている。タダ働きで残業させるなんて、泥棒と同じです。無能な社長や経営者のために、人の時間を泥棒までして、挙句の果てに倒産する。それは彼らが仕事のやり方を知らないからです。仏教が教える不貪・不瞋・不痴とは「智恵の世界」です。しかし、「仏教徒になったから、もうご飯を食べなくても良い」ということではないのです。肉体を維持するために食べなければいけないし、家族・親戚の面倒を見て、家を守らなければいけない。俗世間の活動は決して無視できないし、無視すべきものではないのです。

釈尊は成功の秘訣を説く

お釈迦さまは社会生活の様々な課題を見事に解決できる方法をアドヴァイスされています。在家の人々がどの様に財産管理をするべきか、家庭を持っている人はどのように家族の面倒を見て管理するのかということを、明確に教えています。そんな長々とは書いてない。みんなチラッと経典を見て、「仏陀は出世間のことしか説かれなかった。出家のことしか語ってない」という。経済学者が書いた役に立たない本ならば無数にあるから、その感覚で見ているのです。釈尊が家庭や経済や社会生活の管理について述べたくだりは、二、三行で終っています。それで充分だからです。

だから、釈尊の教えを実践する人々には、他の方々よりも立派に会社を発展させて、家族も見事に幸福にして成功した人生を送って欲しい。たいして難しくありません。一つ秘密を教えるならば、「自分のサービスを必要なものにする」ことです。ちょっとした心構えで、自分の仕事が、会社組織にとって「この人は欠かせない人材だよ」いうことになります。それには、ただ「明るさ」があるだけでも充分です。流れ作業で同じことをする職場ならば、一人ぐらいクビになってもどうということもない。しかしその人が明るさを持っていて、みんなを巧くまとめる。これだけで首は切られないのです。

あなたの大切な「業」を活かす道

そうやってそれぞれの人がかならず、何か必要とされる資質を持っています。それが業です。相当な業があったから、人間に生まれたのです。「業」と聞くと、何か悪いことを話しているように思うでしょう。そうではないのです。善業がないと人間には生まれません。過去世で相当な善行為を各自でなさったからこそ、人間に生まれているのです。我々は死ぬまで何の問題もなく生きていられるような業を持って生まれてきている。これを蝕んでゆくのが、貪・瞋・痴なのです。いくら高価な服でも虫食いになったり、汚れが付いたりすると価値がなくなってしまいます。我々の大切な業は傷だらけで、虫が食って穴だらけなのです。

無執着こそが成功の鍵

仏教の世界では、結婚してはいけないとか、子供を捨てろとか無茶なことは言っていない。ただ「執着するな」と言っているだけ。執着するとバカになって、感情的になって、ろくに子供の面倒も見られなくなってしまいます。結婚相手に執着すると、極端に感情的になって自分のワガママしか見えなくなってしまう。それで家庭が壊れるのです。せっかく一緒になると決めたのなら、慈しみを持っていたわりあって、相手の気持ち考え方も理解しあって、一人の独立した人間として尊厳を守っていれば、これは執着ではないのです。それで巧くいきます。経済活動でも、家庭生活でも仏陀の智恵を導入してみれば、何一つ問題を起こすことなくスムーズにいくのです。それが仏陀の教えです。

今まで私がしゃべったことを仏教に関係ない、冥想に関係ない、悟りに関係ないという風に取らないでください。みなさまも社会の中でどう巧く生きるべきかという智慧を、仏陀の教えから学び取れるところは全部学びとって、使えるところは全部使って生きて欲しいのです。必ず人生は巧くいきます。

胸を張って真理の道を歩もう

もう一つ強調したいポイントは、お釈迦さまが真理を教えたということです。真理というのは科学的な事実とまるっきり同じで、胸を張って言えるものです。「私は心霊と交信している。ハンドパワーがある」云々といった与太話を、人前で言えないでしょう。堂々と発表できるしっかりした事実だからこそ、釈尊の教えは真理なのです。だから胸を張って、関係のある縁ある方々に、友達や親戚にも勧めて欲しい。だいたい結婚している人も、冥想会には一人で来るのです。相手も引っ張って、「こういうことだからやってみなさいよ。文句あるなら言ってみてよ」と、堂々と胸を張っていえるようになって欲しい。仏陀の教えは宗教でも信仰でもない。ただ、真理・事実・生き方なのです。こころを清らかにする方法であり、誰かを蹴落としたり損させたりすることなく成功と勝利のみを得る道です。我々はこれからもっと胸を張って、もっと明るく他の方々にも仏陀のメッセージを広げて、日本で仏教活動を広めていけるようにと期待をして、挨拶を終了させていただきます。