あなたとの対話(Q&A)

子育てに関する質問特集

パティパダー2012年3月号(175)

◆子育ては自分の研究課題

子育て中の母親です。子供が言うことを聞いてくれなくて困っています。子供にどのように接していいか分からなくなります。何かアドバイスを頂けないでしょうか?

子供が言うことを聴かない、というのは間違っていますよ。子供は親や大人からいろんなことを言われるものです。でも、ぜんぜん言うことを聞きません。その場合は、①言っていることの意味が分からないのです。それから、②言葉が分かっても、なぜそう言われるのか、なぜ止めなければいけないのか、という理由が分からないのです。だから子供は、どうすればいいか分からなくて何かやってしまう。親はそれを見て怒りますが、本当は「怒る理由」はないんです。
 
 ①言っていることの意味、②止めなければいけない理由、が揃えば、子供も言うことを聞きます。『(階段で走って)転んで、痛くなってもお母さんは知りませんよ』と言えば、痛みは子供の世界でも知っている言葉ですから、「階段で走ってはいけない」と分かります。そうやって、子供の分かる言葉で理由を言えばいいのです。
 
 子供を育てることで、自分が「親」にならなくてはならないのです。「新しい命」が家に入ったら、自分が自分を変えなくてはいけないのです。しかし、世の親は親になっていないのです。『自分の修行』をしていない。子供は、ひとが親になるための先生です。子育て学校は、大人の学校だから授業はありません。大学院と同じで、自分が作った課題を自分ひとりで研究しないといけないのです。
 
 子供は自分の研究課題です。子供が何か「ああしろ、こうしろ」と教えてくれるわけではありません。どうすれば子供が理解するのか、どの範囲で言えば理解するのか、何が好きで何が嫌いなのか、興味の範囲は何なのか、と親がみずから研究するのです。
 
 それから、子供に教える時は、「因果関係に沿って」教えてあげないといけません。「これをしたらどうなるでしょうか?」と問いかける。子供は頭が論理的にできているから、「こうしたらこうなります、こうしたらこうなります」と教えてあげれば、すぐ理解します。「ゴミをちゃんとゴミ箱に捨てるのは人間で、猿はそのまま放置しますよ」と教えれば、一生懸命ゴミを片付けるようになると思います。
 
 しかし、子育てという仕事は「こうすれば、ああなる」と一概に言えるものではありません。芸術作品と同じで、一人ひとりが作品として仕上げなくてはいけないのです。マニュアル思考では子育てできません。それは忘れないでください。

◆子育てに『愛情』はいらない・子育ての苦労は文化習得の苦労

現代社会では皆、子育てにたいへん苦労しているように思えます。子育てをめぐって児童虐待や過干渉といった問題がマスメディアを賑わせています。なぜ子育てはこんなに大変なものになっているのでしょうか? 

それは端的に言えば、『愛情』で子育てをしているからですね。

 仏教では、子育てに『愛情』を持ち込むと危ないと教えています。そんなこと言われると嫌でしょう? 愛情なしに子育てなんか成り立たないと思うでしょう? でも、子育ては愛情がなくてもできますよ。猿でも昆虫でも子育ては完璧にできるのです。人間も子孫を育てる能力が本能に組み込まれています。誰一人、子育てに心配する必要はない。子供が生まれると、男女とも身体に変化が起こります。それで見事に子育てできる能力が出てくるのです。しかし、愛情が絡むと、その能力が壊れます。
 
 親にとって、子供への愛情が並ならぬ苦しみを作るのです。親の愛情があらゆる問題を起こします。親の愛情に縛られた子供は、何とか親との縁を切ろうとして、切れないなら殴って、それもダメなら殺してでも出て行こうとする。でも親とトラブルを起こして出て行っても、正式な「卒業」ではないから人生が暗くなってしまう。「自分は親から祝福されて頑張ってるんだ」という気持ちが、本人を後押ししてくれるのです。それがなくて、逆に子供が親から離れられず、親元に寄生し続けるケースもあります。ずっと奴隷のように面倒見てくれたのだから、これからも大丈夫だろうと。それで何の役にもたたない社会の寄生虫ができあがってしまう。
 
 子供への愛情によって、様々なトラブルが起こるのです。なぜ愛情がいけないかと言えば、それが所有欲だからです。人間は、生命は、自由でありたいと思っています。しかし社会の依存関係で様々な拘束がある。自由でありたい生命を『私の子供』と見ることは法則違反です。その報いは、受けます。自分の子供から殴られたり、殺されたりするはめになるのです。その精神的な痛みは酷いものです。
 
 もう一つ、人間が子育てに悩むのは、子育てがややこしくなっているのは、文化を持ったからです。文化というのは、アーティフィシャル(人工的)なものです。命には全然関係ないから、ほんとうは真剣に考える必要がないことです。人間に子育て能力は先天的にありますが、アーティフィシャルな日本社会の仕来りに合わせて育てないといけない。そこで手こずるのです。
 
 アーティフィシャルな習慣は「いのち」に関わらないから、当然、子供は嫌がります。なぜやらなくてはいけないか、ぜんぜん分からないからです。だから、ちゃんと「いのち」に関わるように教えないといけない。「そんなことしたら格好わるいよ」とか「挨拶するといい子だと思われますよ」と。それならば、子供の「いのち」に関わるので、しっかり聞くのです。子育ては、人工的な文化に適応させるために苦労している面もあるのです。

◆愛情ではなく慈しみで育てる

仏教では、愛情で子育てしてはならないと教えていることは分かりました。でも、愛情なしに、どうやって子育てすればいいのか、まだ見当が付きません。

「慈しみ」があればいいのです。仏教は愛情の代わりに慈しみを推薦しています。

 親子のよい関係は愛情からではなく、慈しみから出てくるのです。慈しみとは「全ての生命への優しさ」です。自分の子供への愛情ではなく、一切生命への慈しみを育てることです。狭い人間性を破って、偉大なる観音様のような人間になるのだと。そう思えば一人二人の子供を育てるくらい、どうってことないでしょう。たとえば幼稚園の先生のように、幼稚園児みんなを慈しみで、一つの水のように見る気持ちになって子供たちに接することができれば合格です。逆に、うちの子、うちの子、という気持ちが出ると、かえって自分の子供との関係がうまくいかなくなるのです。
 
 子供たちと接するときに、差別は微塵もあってはいけないのです。差別があるということは、慈しみがないということです。
 
 先ほど言ったように、愛情には必ず「所有欲」が絡んでいます。それには気をつけることです。夕焼けを見て美しいなぁ、と思う時は所有欲が絡んでいません。「慈しみ」と聞いて、世の中で言っている「無償の愛」をイメージすると、また問題です。「慈しみ」では、犠牲を払うことを認めません。他の生命を慈しめば、当然、他の生命からも慈しみが帰ってきます。身を捨てて犠牲になれというのは危険な考えです。見返りは期待しないが自分の義務は果たす。期待しなくても幸福の権利を得ているのです。
 
 我々は借りだらけの人生です。親や周りの人々、教師や社会から借りまくって生きています。この膨大な借りを返す方法は一つだけ。無条件で一切生命を慈しむことだと、お釈迦さまはおっしゃいました。「無条件で」というのが大事です。分かりにくければ、自分の子供だけではなく、周りの子供達にも愛情の範囲を広げてみることから始めてください。
 
 愛情というのは自然に湧いてくるものです。しかし同じく、怒りも自然に湧いてきますよ。愛情が湧いてきた時は、すぐに慈しみに入れ替えることです。「どの母にも、子供は大切なんだなぁ」と、普遍的に観察する習慣をつけると、愛情を慈しみに入れ替えることができるようになります。

◆子育ての意味とは何か?親の責任とは何か?

そもそも、子育ての目的とは何なのでしょうか? どうすれば「親の責任」を果たしたことになるのでしょうか?

子育ては、そんなに大変なことではないんです。しかし、愛情が入ると疲れます。子供が一人前になったら親の財産を受ける権利はない。子供は自分の力で生きていかないといけない。親は子供に相続させる義務はないし、子供も親の財産をあてにしてはいけない。親子関係はそんなものです。親の義務・責任というのは、子供を一人前に育てて、「はい卒業」と、卒業証書をあげることです。
 
 仏教的には『私の子供』はいません。もっと大きな人類の子供なのです。子供は人類のメンバーですが、まだ正会員になれないのです。「私の仕事は、この子を一人前の会員にしてあげることだ。そのために人類から預かっているだけだ。人類の一員として立派に育てるのだ」と考えることです。「立派な日本人として」でもダメです。日本がもし潰れても、どこでも生きていられるように育てないといけません。時々、親が自分の好きなように子供を育てる例がありますが、あれは犯罪です。あくまで人として、人類の中で立派に生きられるようにしないといけない。
 
 この発想がないから、日本でよく起きているのは、イジメです。イジメのニュースを見るたびに、人間失格のことをしていると思います。
 
 それから、お母さんがよく、『知らないおじさんと話すなよ』と躾けているでしょう。あれは、絶対に言ってはいけない言葉です。「知らない人と話すなよ」ということは、「人類と話すなよ」ということです。親が子供を人類から切り離して、牢獄に閉じ込めることです。自立できない引きこもりを育てることです。それは犯罪行為です。子供には、「知らない人でも、目上の人に自分から挨拶しなさい」と教えなければいけないのです。
 
 親の仕事は子供を独り立ちさせることです。しかしそれはもっともしづらい仕事になっています。「私の子供」と執着して、子供に殴られることになってしまう。子供の本能のプログラムには「親に依存しろ」とは書いてありません。「自立して生きろ」と書いてあるのです。まだ幼い時は、そのプログラムが機能しないだけです。(※ですから、親孝行は本能のプログラムに入っていないのです。親孝行は、あえて育てるべき道徳です。子供が小さいうちから、頭に叩き込まないといけないのです。)
 
 親が最初から、「子供は社会の一員だ」という意識で育てていれば、反抗など起きないのです。時期が来ればさっさと離れるだけです。親が子供を社会に出そう出そうと育てると、そこで初めて、子供は親の苦労を理解するようになるのです。

◆障碍を持つ子供を育てるということ

重度な知的障碍の子供を抱えています。その子が育つ、成長するというのはどういう事なのでしょうか?

将来のことなど考える必要はないのです。自分に生まれてきた子供は自分に育てられます。障碍を負った子は親に大きな充実感を与えてくれるものです。あなたが預っているのは、人類の一員ですからね。その子の母として選ばれて、人類の一人を自分が預かったということです。育てることも人類の責任です。親がやれるところまで頑張って、出来なくなったら、誰かがバトンタッチしてくれます。子供がどんな状態にあったとしても、障碍、障碍と思わないこと。他と比較したりしないこと。「だから何よ?」という厳しい親の気持ちを持たないといけない。『五体不満足』の乙武洋匡さんも、本を読むと彼の母親の人間としての偉大さが読み取れたのです。お母さんが「だから何よ」という態度で育てたから、乙武さんはあそこまで立派に育ったのです。知的障碍の場合はどうしても一生面倒見てあげないといけないけれど、「だから何よ」という気持ちを忘れないでください。預かった人類の一人を責任もって育てているのです。

◆ゲーム漬けの子供について

子供たちはゲームに夢中で、暇さえあればテレビゲームに興じています。幼少期からずーっとゲーム漬けになっている子供にどう接すればよいのでしょうか?

この世界は汚いのです。子供たちをゲームに依存させて、ソフトを買わずにいられない状況を作っているのです。仏教的にはこれは「盗み(偸盗)」です。いまの産業社会は、依存させて買わせるという、ほとんど盗みと同じことをして利潤をあげているのです。子供が成長するためには、遊ばないといけないのです。昔は遊びで人生を学んだのです。遊びを通して一人前の人間になることを学んだのです。ゲームは現代の文化になっているので、無理やり取り上げることはできません。それならば、ゲームを通しても何か子供の能力が上がるようにしないといけないのです。

 この問題にはっきりした答えはありませんが、ゲームボーイに夢中になっている知り合いの子供に私はこう言ったことがあります。「これはゲームボーイじゃなくて、本当はNHKというんだよ」と。N・能力 H・破壊 K・機械だと。そう言えば微妙に、子供の心にも「自己管理しないといけないんだ」というアドバイスが入るでしょう。
 
 脳は喜びを感じると成長します。落ち込むと危険です。私たちは二十四時間、喜びを感じて生きないといけないのです。それが下手だから、わざわざゲームをするのです。ゲームに依存することなく、人生の中からいつでも喜びを、いつでも笑いを見つけること。そのワザを子供たちに教えてあげてください。

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