No.134(2006年4月)
自分のことを棚に上げる
己を観ずに他人を観て、不幸を招く Discovering and eiminating of weak points.
人間は二種類います。
(1)他人を批判する人
(2)他人を賞賛する人
です。こんなに簡単に二分化できるとは思いませんが、少々考えてみましょう。
(1)他人を批判する人は、いつでもどんな人でも、短所ばかり見るのです。相手に対する批判が的中しているならば、役に立つこともあります。批判は一方的であるならば、かなり迷惑です。智慧があって、主観的な見方でものごとを観ないで、常に客観的な立場で人々のことを心配して、慈しみに基づいて批判する人であるならば、他人を批判する性格は決して悪くない。しかし、この世界でこのような優れた人格者がいるのでしょうか。稀にいるかもしれませんが、ほとんどの人々は完璧な人格者ではありません。なのに、他人を批判するならば、様々な問題を引き起こす人になってしまうのです。
生まれついた性格によって、環境に適応できなくて、他人と仲良くすることができなくて、何でもかんでも嫌で、何ごとでもどんな人でも批判してしまう人々もいる。このような人は、普通の社会から追い出されてしまいます。自分と気が合う仲間を見つけても、皆、反社会的な人間なのです。社会を正すという、いい加減な盾を使って、反社会的、違法な行為をするのです。世界で行き渡っている様々なテロリストグループは、一つの分かりやすい例です。テロリストは、自分たちが社会のために良いこと、正しいことを、自分を犠牲にしてでもやっているのだと思っているのです。
普通の人は、批判的な性格になると、社会人として成功することなく、家族の中でも愛されることなく、孤独になるのです。自分の能力も徐々に減って、無能な人間で不幸で、人生を終えるのです。他人のことを心配して、他人を育てる目的で相手を批判しなくてはいけない立場の人間がいます。指導者、目上の人、先輩、教師、社長、課長、部長、などです。それでも、危険なことです。自分でも気付くことなく、暗いダメな人間になってしまう恐れがあります。なぜならば、他人を批判して成長させようと必死になると、結局は短所しか見えない、長所があっても素直に評価できない人間になるからです。
(2)の他人を賞賛する性格も、(1)に対して良い性格だと断言することはできません。皆のことを誉めてあげるから、最初は皆に愛される、認められることにはなる。やがて、嫌われるのです。それはどういうことでしょうか。何でもかんでも賞賛されると、自分の間違い、短所が見えなくなる。自分を成長させることも、人格を向上させることも、能力の開発もできなくなる。だから何でも賞賛する人は、役に立たない人間だと思われてしまうのです。間違いを教えてくれないという点で見ると、確かに役に立たない人間なのです。意見を聞いてもアドバイスを求めても「すごいすごい、最高だ」ばかり言う人は役に立たないのです。
他人を自分の利益のために操りたいと企む人は、何でも賞賛するという手段をとる。だから、自分の利益しか考えない人だとわかってくると、皆に嫌悪されるのです。また、自分に対して何の自信もない臆病な人は、社会に溶け込むために、社会の批判を避けるために、何であろうとも賞賛するという手段をとる。この場合も、社会の役に立たないことは明確です。それだけでなく、自分自身の役にも立たないのです。人の批判を脅えるから、自分を育てることは無理なのです。他人から見ると、いてもいなくてもどうでも良い人間になるのです。賞賛ばかりする人生の辿り着くところは、批判ばかりする人と同じ、孤独なのです。しかし、智慧のある、ものごとを客観的に見る、人のことを心配する、慈しみの人による賞賛は、皆に勇気を付けてくれるものです。励ましてくれるエネルギーなのです。残念なことに、このように優れた人格者は稀なのです。
では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。批判することも、賞賛することもダメなら、何も言わず黙っていることでしょうか。試しに、他人に対して何も言わず、黙っていることを実践してみる。結果はどうなりますか。忽ち社会から追い出されて、孤独になるでしょう。いてもいなくてもどうでも良い人間になるでしょう。答えは、黙っていることではありません。意見を言わず黙っていても、心の中はどうでしょうか。他人を批判する性格の人の頭の中は、批判の妄想が暴走している。賞賛する人の頭の中は、賞賛の妄想が暴走している。二人とも、何も言わないでいるから精神的に苦痛を感じるのです。頭の中に何も意見がない人も黙っている。意見がないのは、観察能力がないからです。インスピレーションがないからです。要するに、無知です。この人は、黙ってはいるが自分の無知を気にして精神的に苦痛を感じるのです。
迂闊に批判することも、賞賛することも良くない。客観的にものごとを観察した上で、意見を述べるべきです。意見を述べても、他人を傷付けたり、他人を嫌な気持ちにさせたりする恐れもあります。また余計に他人に喜びと自信を与えてしまう恐れもあります。この状況も避けなくてはならない。つまり、人は客観的にものごとを観察した上で、相手のことを慈しんで、また心配して、成長することを向上することを期待して、意見を述べなくてはいけないのです。
考えてみれば、できそうもない話でしょう。だからこそ、挑戦するのです。試行錯誤で挑戦していくと、徐々にできるようになるのです。ということは、我々一人一人が自分自身の人格を向上させなくてはならないのです。仏教が語る善は、自分の幸福になる、また他人の幸福になる行為なのです。相手を批判するべきか、賞賛するべきかという問題に対する仏教の答えも、善を判断する基準に基づいたものです。それは、自分も他人も幸福になる道なのです。最初は智慧がなくても良い。観察能力が乏しくても、インスピレーションなんかはなくても良い。全ての生命に対して慈しみの念を抱くことなら、簡単にできます。だから、相手に対する態度を、まず慈しみから始めることです。間もないうちに、客観性も観察能力もインスピレーションも付いてきます。それから徐々に智慧も現れてくるのです。ならば、「人を批判するべきですか、賞賛するべきですか?」答えは、「慈しむべき」です。
人間は二種類います。
(1)他人、社会が完璧であることを強調する
(2)自分が正しいと強調する。
変に思われる分析でしょうが、少々説明いたします。
(1)に入るのはどのような人でしょうか。周りのこと、他人のこと、社会のことをあれこれと批判する。要するに、評論家人生です。評論家になるのは難しいことではありません。自分が関係のない立場にいて、好き勝手に、批判したいところを批判する。評価したいところを評価する。例えば、実際の政治活動に関係のない人にも、政治批判などは簡単にできる。自分で事業を行っていない人には、経済状況に対する評価、経営に対する評価などは簡単です。実戦に参加しない人には、戦略についてあれこれと言える。戦争の善し悪しについて何でも言える。
他人のことなら簡単に批判できる、ということです。やっていることは正しいか間違っているか、気楽に言えるということです。しかし、実際にその活動を行っている人の世界は別です。例えば、小説家が結構苦労して、研究して何回もやり直したりして、作品を作る。その人は、自分の能力のぎりぎりのところまで頑張っている。評論家は僅かな時間でそれを読んで、いとも簡単に批判する。欠点を見出す。また自分に気に入ったところを賞賛する。戦場で戦っている兵士たちにとっては、生きるか死ぬかの状況です。攻撃を受けたら、容赦なく反撃しまくる。関係のない人にとっては、「やりすぎだ、関係のない一般人まで殺した、病院も学校も巻き込まれた」云々と言えるのです。最前線にいる兵士にとっては、「あなたは味方ですか、敵ですか」と調べてから、敵なら殺すという態度をとれる余裕はありません。政治、経済、芸術、科学開発、教育、子育てなどの、どのような戦場の場合も、実戦に参加している人々には全ての状況を判断して完全無欠な態度をとる余裕はありません。しかし、評論家にはいとも簡単に批判できるのです。それは要約すると、他人、社会が完璧であることを強調することなのです。
(2)の自分が正しいと強調するとは、どういう意味でしょうか。
自分を認めてくれない、評価してくれないと悩んでいる人々がいるでしょう。認めて貰うことに値するほどのことをやっているかないかは気にしない。何かをしたら、それを認めて貰いたがる。何もしないでいる場合も、それを認めて評価して貰いたくなる。もし自分のことを評価する代わりに批判されたら、激怒する。やる気を失う。結果として、他人に対して不平不満ばかりを言う人生になる。自分がやっていることに自信がある場合、能力がある場合、他人が認めるか認めないかはそれほど気にしないのです。自分が文句の付け所がない仕事をしているのだという確信があるのです。だから、他人の評価ばかり期待する人は、それほど立派に仕事をこなしていると言えないのです。評論家性格と大して差はないのです。ということは、(1)の人も、(2)の人も、結果としては同じです。違うところは、(1)の人は自分のことを棚に上げている、(2)の人は自分のことばかり大事にするということです。
では、私たちはどうすれば良いでしょうか。他人の失敗、間違いを発見しても黙っているならば、皆に対して迷惑です。不幸です。自分が他人に認められるかないかを気にしないで好き勝手に生きると、自分が正しいことをやっているか否かはわからなくなる。社会を無視して生きる人間になる。これでは、自分も向上しないし、社会にも不幸な結果を与えてしまう。
では、答えは何ですか。「完璧・完全」という観念に問題があるのです。この世で完全な人は過去にもいなかったし、現在もいないし、将来も現れない。他人のことを見ると欠点が見られるのは当然のことです。その瞬間で、自分が正しいという前提に立っているのです。他人が不完全なら、自分も不完全です。それで我々は、互いに心配し合って、慈しみ合って、協力し合って、人格向上に仲良く励まなくてはいけないのです。他人の欠点は自分に見える。自分の欠点は他人に見える。そこで、仲良く意見交換して成長すれば良いのです。これが釈尊が説かれる、調和を保つ、競争のない、平和な生き方なのです。この場合も、善を判断する基準に基づいているのです。それは、自分も他人も幸福になる生き方なのです。人格は必ず向上する道なのです。
あるとき、Atulaという人が、説法を聞きたくて、仲間と一緒に Revata という尊者を訪ねました。 Revata尊者がとても短い説法をしたところ、彼らは気に入らなかった。満足できなかった。そこでSāriputta 尊者に訴えたのです。智慧の第一人者Sāriputta尊者は、明確に詳しく、深遠な真理を時間をかけて語ったのです。しかし、彼らは気に入らなかった。満足できなかった。話は難しくてわからなかったし、その上時間も掛かりました。今度はĀnanda 尊者に訴えたのです。Ānanda尊者がとても分かりやすい内容の説法をしたのです。また気に入らなかった。満足できなかった。単純な仏法なら、自分たちも知っている。子供扱いされたような気がしたのです。ついに彼らは釈尊に訴えたのです。釈尊は、Atulaとその仲間をこう叱ったのです。
「昔も今も、これは全然変わらない。黙っていても批判される。話が長すぎても批判される。計算して適度に喋っても批判される。批判されない人はいません。また、Atulaよ、極端に非難される人も、極端に賞賛される人も、昔もいなかったし、今もいないし、将来も現れない。」
Atulaのグループは、社会が、他人が完璧であることを強調していたのです。釈尊は、ものごとは不完全であるという立場で、彼らに説法なさったのです。彼らの間違っていた態度を直したのです。
しかし仏教は、「人間は不完全である」ことは認めるが、評価しない。成長しなさい、向上しなさい、人格を完成しなさいと導くのです。我々皆、不完全ではあるが、それはそれで良いということにはなりません。だらしないままで良いということにはならないのです。釈尊はさらにアドバイスをなさります。
「もし賢者が人を賞賛するならば、その人は本物です。賢者が明確に観察して、人の道徳、心の向上、智慧などを賞賛する。賢者に賞賛される人の人格は、純金の如く何の欠落もないのです。その人のことを神々も梵天も賞賛するのです。」
釈尊は我々に何を説いているのでしょうか。無知な人に、心が汚れた人に、感情に抑えられている人に批判されても、それはその人の見方です。賞賛されても、またその人の見方です。事実ではありません。真理ではありません。気にする必要もありません。賢者に(仏陀に、悟った人に)賞賛されるようにと、我々は自分の生き方を改良しなくてはならないのです。
今回のポイント
-
一方的な批判も賞賛も、意味がありません。
批判主義者も、賞賛主義者も、やがて孤独になる。
生命は不完全である。
しかし、自分は完全無欠だと勘違いする。
互いに慈しみ合って成長するべきです。
経典の言葉
- Porānaṃ etaṃ atula, N’etaṃ ajjatanām iva;
Nindanti tunhim āsīnaṃ, Nindanti bahu bhāninaṃ;
Mita bhānim pi nindanti, Natthi loke anindito. (Dh.227)Na cāhu na ca bhavissati, Na c’etarahi vajjati;
Ekantaṃ nindito poso, Ekantaṃ vā pasamsito. (Dh.228)Yañ ce viññu pasamsanti, Anuvicca suve suve;
Acchidda vuttim medhāvim, Paññāsila samāhitaṃ. (Dh.229)Nekkhaṃ jambonadass’ eva, Ko taṃ ninditum arahati;
Devā’ pi taṃ pasamsanti, Brahmunā’ pi pasamsito.(Dh.230) - 「アトラよ、これは昔からそうであって今にはじまることではないのだ」
黙して坐すも人そしり 多く語るも人そしり
少 し語るも人そしる 世にそしられぬ人ぞなきなり一向 にけなされし人 一向にほめられし人 かつて無し
また将来も 今もなきなりしかし、もし識者が日々に考察し
「この人賢明瑕瑾 なく 智慧と戒との定を得」と賞賛すれば
ジャンブーの河の砂金で鋳られたる 金貨のごときこの人を
誰 そとがめ得ん神もほめ 梵天さえも誉め讃 とう - 訳:江原通子
- (Dhammapada 227-230)