パティパダー巻頭法話

No.150(2007年8月)

口から漏れる放射能

言葉は注意して使用する道具に過ぎない Language that fails to communicate.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

言語は人間固有のものか?

我々は、言語を使えるのは人間だけだと思っています。言語というのは長い歴史の間、徐々に発展したものです。多数の単語とその単語の並び替え方で、言語というものは成り立つのです。人間は成長と共に言語も学ばなくてはいけないのです。わざと学んで身に付ける能力なので、言語は生命の本来的な特色にはなりません。本能でもない。もしかすると、道具・服・アクセサリーなどと同じく、言語は人間が使用するもう一つの道具と言えるかも知れません。道具の使用・服を着ることなどは、この世で人間だけがやっているので、言語は人間固有のものだと言えるでしょう。

言葉の出現

洞窟に住み、狩をして生計を立てていた時代は、言語などいらなかったでしょう。しかし、一人で狩をするよりは、何人かと一緒にやったほうが効率が良いし、殺されるリスクも減る。そこで集団で狩を行うためには、連携して行動しなければいけない。そのために何かの音に合わせる必要が出てきたのです。はじめは喉から出せる音で充分だったと推測しましょう。ある人の後ろから、獣が迫ってきたとします。彼の前で獲物を待ち構えている仲間がそれに気づいて、「危ない、逃げろ」と注意するために喉から音を出す。その警告を彼が理解すれば難を逃れられます。しかし彼が「もっと後ろに下がれ」という意味に理解したならば、獣に殺されてしまうでしょう。このような失敗は、たくさん起きたはずです。だから、こちらで出す音の意味は、間違いなく相手も理解する必要があったのです。そこで、互いに音とその伝える意味について共通理解が現れてきた。それが、単語のはじまりでしょう。

このように一つの民族のグループの中で、共通理解をする音がたくさん現れてきます。その音も、ある論理的な法則で繋ぎあわせなくてはいけない。自由に気ままに音をつなげても、何の意味にもならないからです。このように、たくさんの音(言葉)と繋ぎ方(構文)ができてくると、「言語」なのです。その民族の生活環境が発展し複雜になると同時に、その言語も発展して複雑になっていきます。また、別地域に住んでいる別民族が別の音セットを開発すれば、別の言語になる。人間は生物学的には同じ種なのに、言語がたくさんあるのです。同じ言語を喋る人でも、移動して別々な場所に住むようになると、またその言語も特有の発展をします。いま現在使っている様々な言語がいくつかの言語家族(インド・ヨーロッパ語族、アフロ・アジア語族、シナ・チベット語族など)に分けられるのはそのためです。また同じ言語であっても、方言が出てくるのです。互いに理解するための言語ですが、結局は、言語を学ぶという新しい苦しみが人間に現れたのです。

言語とはコミュニケーション

自分が思ったことを他人に伝えるために使う道具は、言語です。そこで我々は大きな誤解をしています。それは自分が言ったことをそのまま相手が理解してくれる、という期待です。人間のあいだで実際に起こるのは、正しい理解ではありません。私が思うことを私が言語化する。その言語を聞く相手が、何かを理解する。それは、私が思ったことに恐らく似ているでしょう。時々、まったく似ていない場合もあるでしょう。

ちゃんと理解できる単語もあります。たとえば、上・下・右・左・私・あなた、などの名詞、飲む・食べる・歩く・坐る・寝る・殴る・蹴る、などの動詞。単語が示すものが、はっきりしている場合、コミュニケーションが成り立ちます。それ以外は、相手が何かを理解するだけで、明確にコミュニケーションは成り立ちません。現代を生きる我々は、この問題でけっこう悩んでいるのです。こちらで言うことを相手がいくらか理解する。時々誤解もする。若者の言葉は年寄りに理解できないし、年寄りが言うことは若者に理解できない。国際関係はあるけれど、よく見える現象は、理解ではなくほとんど誤解なのです。要するに、夫婦のあいだでも理解しないこと、誤解することはたくさんあります。親と子のあいだも、先生と生徒のあいだも、同じ問題です。

理解しないこと、誤解することは、善いとは言えません。「火事だ! 逃げろ」と言ったことを、「暖かいぞ! 安心して寝ろ」と理解したら、おおいに困るのです。私たちは、うまくコミュニケーションが成り立たないことで様々なダメージを受けています。これは、言語が発達した結果として現れる副作用です。言語の本業はコミュニケーションですが、現代の言語はむしろコミュニケーション不全を増幅させているのです。

言語の誤用

コミュニケーション不全になった理由は言語の誤用です。人間は主観に徹して生きていて、頭の中でいつも妄想しているのです。主観と妄想には、客観性・具体性・合理性は必要ありません。人は勝手に何を妄想しても、他人には関係ないのです。しかし感情に支配されている人間にとって、具体的な事実のみを考えるのはあまり面白くない。だから一日の大半を妄想に費やしているのです。人の感情が妄想を引き起こす。ゆえに、妄想すると気分がいい。妄想することで、大事な時間を浪費したり、仕事ができなくなったり、能力が低下したり、他人とのコンタクトが切れたり、頭が変になったり、問題はありすぎです。それでも人は、妄想することだけは止めるつもりはありません。

妄想を思考だと勘違いしているのです。よく妄想して時間と能力を浪費しているのに、自分は思想家のつもりでいる。思考はそれほど楽な作業ではありません。事実に基づいて、論理的にものごとの有様を発見することが思考なのです。何か問題があって、それをどうするべきかと思考する人は、結論に達したところで思考の流れが止まるのです。妄想には、結論も、止まるところもありません。論理も具体的なデータも必要ない。ただ感情を頭の中で言語化すればよいのです。

頭の中で妄想の言葉が暴走して、同時にストレスが溜まるのです。自分が思ったこと、感じたこと、自分の主観、などを他人に言いたくなる。それで、喋りだす。いくら上手に喋っても、言っていることは聴いている相手に理解できない。人の主観は他人に理解しにくいからです。子供が世の中をどのように見ているのかと、親には解らないことです。「親のこころ子知らず」ということわざは正しいのです。すべての人々は、自分だけの主観の妄想世界を持っています。その世界は他人に理解できません。他人に理解できないことを言語で表現できると思ったことが間違いです。頭の中で単語を激しく交錯させながら、自分は頭の中でちゃんと言語を使っていると思っているのです。だから、頭の中で交錯している言葉を表現したならば、相手が解るだろうと勘違いするのです。

たとえで理解してみましょう。ある人は子供が嫌い。うるさい、危ない、迷惑だと思う。その妄想でいると、自分の妄想を立証するために必要なデータだけ、頭に叩き込む。また別な人は、子供が大好きなのです。子供がうるさいのは当たり前だと思っている。子供嫌いな人が、その人に自分の考えを必死で語り続けても、子供が好きな相手には、理解できません。せいぜい理解するのは、「この人は頭がおかしい」くらいです。コミュニケーションが成り立っていないのです。一人の主観の世界を他の人に伝えるということは、到底無理な作業です。自分の主観・妄想も他人の妄想に似ているならば、いくらかのコミュニケーションが成り立つでしょう。よく気持ちが通じ合う仲間を作って、私たちはよく喋っています。この場合は、その仲間の妄想・興味が似ているのです。しかしそのグループの話は、別なグループには理解できないのです。

言語でコミュニケーションが成り立たない、また、誤解してしまうという現象が起こるのは、言語で表現不可能な「主観」を他人に語ろうとしているからです。これが言語の誤用なのです。文学は人の感情を言葉で表現することに挑戦しています。文学者は言語の達人で、言い回しをいくらでも持っています。文学者は言葉を曲芸師のように使い、彼らの作品を読む人々は、確かに感動するのです。しかし問題は、作者が表現したかったことをそのまま読者が理解したのか、ということです。文学では、自分の好きななように理解してくださいと、読者任せにしているのです。やっぱり、そのままは伝わらない、ということを皆知っているようです。

言葉が招く問題

科学・数学などを勉強すると、言語は問題ではありません。コミュニケーションが成り立っています。歴史・地理学・考古学・経済学で使う言語も、問題ではありません。研究論文などは、他の言語に翻訳することは難しくありません。しかし学校で古典文学のテキストを勉強しようと思うと、問題が起きます。本当に理解できるのか、ということです。たとえばシェークスピアの作品を世界で皆読んで、感動しているようですが、作者が表現したかったものがどこまで伝わっているのか、ということは疑問です。

私たちが言語を使っているとき、そのままコミュニケーションが成り立つ分野、またコミュニケーションが成り立たない分野を、区別していないのです。学問の中にも、人の気持ち・主観が割り込む。それで言語は曖昧になるのです。経済学者の論文にも、自分の主観、好き嫌いが割り込みます。政治家の話も、客観的な事実ではなく、自分の価値判断、主観なのです。家族の会話にしても同じことです。大事な話をしているのに、自分が相手に対して持っている感情が、激しく干渉する。コミュニケーションは成り立たないのです。

それで我々は、様々な問題を引き起こして、互いに争っています。精神的にも混乱しています。騙されています。人間同士の調和を壊しています。こころの安らぎを失っています。言葉は限りなく放射能漏れを起こす原発のようなはたらきもしているのです。

会話で理性が現れる

人が賢者であるかないかは、その人の喋る言葉で解るのだと、お釈迦さまが説かれています。ということで、言葉はとても大事な道具であることに違いありません。言葉は原発のように、とても慎重に使用するべきものです。私たちは人の言葉を聴いて学ぶ。知らないことは知るようになる。無批判に頭に他人の言葉を入れると、自分が堕落してしまう。自分が無責任に語ると、相手が堕落するので、重い悪業を犯していることになる。仏教は、ウソ、粗悪語、二枚舌、無駄話は、言葉の悪業だと明確に説くのです。

私たちには、身体でそれほどたいした罪を犯せないのです。しかし巧みに言葉を操るならば、いくらでも罪を犯せます。たとえば、自分ひとりではたくさん人を殺せない。しかし、政治イデオロギー、宗教理念などを巧みに語って、戦争を引き起こすことも可能です。それを語った人が亡くなっても、世代を超えて争いが引き継がれることもありえるでしょう。人に間違った教えを叩き込んで、地獄に落とすことも難しくないのです。

人は事実を語るべきです。他人に役に立つことを語るべきです。有意義なことを語るべきです。人の向上に資する話をするべきです。平和、幸福、こころの安らぎ、智慧をもたらす話をするべきです。また、役に立つ話であっても、相手の尊厳を傷つけるような言葉遣いをやめるべきです。このように語れる人は、賢者なのです。理性のある人なのです。

雄弁家が溢れている

お釈迦さまの説かれたとおり厳重に気をつけて、他人に対して思いやりを持って語る人々が、それほどいないことは言うまでもありません。しかし、雄弁家はいくらでもいるのです。暴力団について我々はすごく怯えていますが、心配するほどの数はいません。しかしほとんどの人間は、言葉の暴力を振るっているのです。それは身体の暴力よりは、ダメージが大きいのです。言葉の暴力でどれほどダメージを受けているか、統計で知ることも不可能です。誰かが自殺したり、精神的に病気になったりしたならば、言葉の暴力の結果だと知ることができますが、日々皆が、言葉の暴力で苦しんでいるのです。言葉の暴力とは、相手の気持ちを無視して、自分の言いたいことを何の躊躇もなく言いふらすことです。

社会で自分の立場を築くために、言葉を武器にする人もいます。その人々はよく喋る。自分の能力、知識などを言いふらして、あることもないことも言う。自分をアピールするために、必死になるのです。その過程で、他人の知識、能力などを見下して、自分の少々の知識、能力を誇張して言いふらすことになって、自らの人格を卑しめるのです。他人に言いたいほどのことを持っていない場合は、他人のことを軽視することで、批判することで、見下すことで、自分の立場を築こうとするのです。例えば「この人々は皆頭が悪い」と言う場合、「自分は頭がいい人間だ」と、間接的に他人に思わせるのです。

よく喋ったからと言って、賢者にも、理性のある人にもなりません。他人の批判は、自分の無欠の証拠にはなりません。大きな声、巧みな言葉で、他人を抑えることは言葉の暴力なのです。我々は、人のことを、その人の言葉で判断するのです。だから、「言葉が巧みなだけでは賢者と言えない」ということを、よく覚えておかないと危険です。この世界では情報が交錯しているので、私たちの判断能力はジワジワと低下し続けています。影響を受けやすい状態で、なんでも簡単にうのみにする傾向にあります。マインドコントロールされやすい人間になっているのです。昔のマスコミはほとんど喋ることだけでしたが、いまは様々な方法で情報が流れています。雑誌の見事なデザインに引かれて、記事の内容を信じてしまうこともあります。だから、言葉に騙されない能力を身に付けなくてはならないのです。

信頼できる人

よく巧みに喋るからといって、賢者とは言えません。信頼できる人でもありません。自分の立場を築きたくて喋る人もいる。精神不安定で喋る人もいる。感情が溜まりすぎて落ち着きがなくなって、下水管が破裂したような感じで喋る人もいる。自分の思考が定められないから喋る人もいる。欲・怒り・嫉妬・憎しみなどの感情が喋る場合もある。腹の中で何かの目的があって喋る人もいる。だから、美しい言葉だけに惹かれてはいけないのです。

私たちは言葉を通して学びます。言葉の内容と、その言葉を語る人の人格に注意した方がよいのです。こころが安穏な境地に達した人が、賢者なのです。その人が喋る言葉は、一言でも宝物です。こころを無畏にした人は賢者です。主観に支配されて、妄想に抑えられているこころは、とても弱い。恐怖感で震えているのです。主観と妄想を断ち切った人のこころが「無畏」なのです。

Mita bhānī という語があります。考えてから話す、言葉を最小限に控えて要点だけ喋る、という意味です。仏教が推薦する語り方は、以下のようになります。どんな内容を語るのか。それは人の役に立つのか。どれほど簡潔に語れるのか。相手が楽に理解できるように、どのような順番で語るべきなのか。相手が「聞きたい」という気持ちを持っているのか。この条件のなかで、語るべきなのです。ですから、「正語」を守る人には、延々とお喋りはできません。正語の人は、ミタ・バーニーなのです。

今回のポイント

  • 語れるのは客観的な事実のみです。
  • 主観を語っても相手に伝わらない。
  • 言葉の誤用は不幸の元。
  • 人のお喋りは感情のはけぐち。
  • 賢者の言葉は唯一の宝物。

経典の言葉

Dhammapada Chapter XIX DHAMMATTHA VAGGA
第19章  法に依って立つ章

  • Na tena pandito hoti, Yāvatā bahu bhāsati;
    Khemī averī abhayo, Pandito’ti pavuccati.
  • 多くを語るそれのみで 賢者(パンディタ)とては言い難し
    安穏にして無怨無畏 彼こそ呼ばる賢人(パンディタ)と
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 258)