No.158(2008年4月)
達成感を味わう過程
理性ある人は少々の達成感では足を止めない Let not minor successes impede the greatest victory.
道徳・戒律の話を持ち出しただけで、世は仏教を「嫌なものだ」と感じてしまいます。逆に、「短い命だから、楽しく生きようじゃないか」と言われたならば、「待ってました、その言葉を」という調子で喜ぶ。道徳・戒律などはそんなに悪いものかと、そんなに人の楽しみを奪ってしまうものかと、調べなくてはいけませんね。
道徳は嫌な人でも、自分の家に泥棒が入ってほしくない。道徳は嫌だという人でも、通り魔やひったくりの被害者にはなりたくない。インターネット通販などで代金を送金したのに、その会社が品物を送らないで金だけ取って逃げるのは嫌です。同時に道徳も嫌なのです。嘘をつかないでこの世で生きていられないと断言的に言いますが、自分が他人に嘘でだまされた時は、腹が立ってしようがない。これで見えるでしょうか、人間の矛盾した姿が。道徳がないと、命まで危うくなります。安心して幸福に生きていられないのです。社会にまがりなりにも道徳があるからこそ、我々は安心して生きているのです。
道徳のお世話になって、道徳に守ってもらっているにも関わらず、道徳・戒律などを嫌がるという気持ちは、つじつまが合わないのです。これは人間の本性の問題です。私たちの本性は汚れているのです。本性が、やりたい放題のことをやって好き勝手に生きなさいよ、と絶えず後押ししているのです。しかし、他人が自分に害を与えたり、自分をだましたり、非難・侮辱をしたりすると、自分の好き勝手に生きていられなくなる。ですから、そのような行為を他人が自分に対してするのは、断固反対なのです。そこで、世間に向けて胸を張って、声高に倫理・道徳・戒律などの必然性を言いふらす。しかし、自分の安全をはかって、他人に押し付ける道徳では、他人を納得させることも、道徳を守ってもらうことも、できません。「私は悪いことを一切しないで生きています。人生はけっこう楽で安心です。あなたも悪いことを止めて生活すると、いまのみじめな苦しい生き方が幸福の方へ改良されると思いますよ」。このように語るならば、正しく道徳を語ったことになります。
本性が悪で汚れて腐っているから、道徳を守ろうとしても容易いことではないのです。それでも道徳的な生き方に挑戦する人間は、少ないながらも居ます。その人々は本性と闘っているから、たいへんなのです。その上、社会も非道徳的な生き方へと誘惑します。道徳を守る人は、内側と外側から来るこの攻撃に、打ち勝たなくてはならないのです。もし道徳を完全に守ることができたならば、それはとても貴重な勝利なのです。欠点なく汚点なく、完璧な道徳人間というのは、まずありえないと言えるでしょう。釈尊の弟子たちは、それに挑戦したのです。成功に達した比丘たちはたくさんいました。ほめたたえるべき成果です。そのような仏弟子たちが、「自分たちは道徳的な生き方を完成しています」と達成感にひたった気持ちで告げる時、釈尊はその言葉をどう受け止めるかご存知でしょうか。「微々たる道徳くらいで、達成した気持ちになるものではないよ」と仰るのです。
釈尊に「微々たる」と言われても、我々にとっては道徳とは守り難いものです。本性はつねに道徳的な生き方に攻撃しています。いくら頑張っても、やがて本性に負けてしまうのです。そこで、道徳が自己を守り、他を守り、世界全体を守ってくれる。しかし、それだけでは「安全」だと確信することができない。危険を完全に無くしたわけではないのです。ですから仏教は、道徳を守ることで安心感を抱かず、さらに進むことを推薦します。それは、よく真理を学んで、納得することです。ブッダの説かれた真理を学んで覚えて意味を吟味して理解して納得しておけば、本性の誘惑に勝てることでしょう。しかし、ブッダの説かれた真理を理解するのは、それほど簡単なことではありません。嘘をつかないなどの道徳を守ることよりは、相当難しいことです。その上に、量が多い。一人の人間には教えを全部覚えることなど、不可能と言ってもいいくらいです。教えの中でも、因縁法則を理解するのは、いかなる生命にとってもこの上ない難事であると、説かれています。また、心の法則と業の法則を考えて理解し尽くすことは不可能だとも説かれています。
それでも、ブッダの比丘弟子たちは諦めない。仏教を学び、解釈方法を学び、覚えておくのです。三蔵経典すべてを暗記している比丘たちもまれにいます。俗世間の人々を驚愕させるほどの知識能力、論説能力に秀でた弟子たちも少なくありません。このように理解能力を育て上げることは、貴重な勝利なのです。本性にある無知と闘って得るのだから、貴重な勝利なのです。完全無欠にブッダの教えを学んで理解することは、まずあり得ないと言えることでしょう。しかし、この挑戦を受けて成功に達した比丘たちがいたのです。彼らが達成感にひたった気持ちでそれを告げる時、釈尊はその言葉をどのように受け止めるかとご存知でしょうか。「微々たる学識くらいで、達成した気持ちになるものではないよ」と仰るのです。
釈尊に「微々たる」と言われても、我々にとって、仏教を学んで学識を完成するのはとても難しいことです。天才的な能力を必要とすることです。本性に潜んでいる無知と闘わなくてはいけないのです。しかし、学識は結局、危ないものです。覚えて理解したことは、歳とともに薄れていきます。学識だけでは、本性に勝った保証にはなりません。ですから仏教は、学識で達成感にひたることなく、さらに進むことを推薦するのです。
釈尊は様々な誘惑からこころを守るために、俗世間から離れて林住をすることを勧めます。こころも俗世間の快楽を求めないように、戒めるのです。少欲知足の生活をする。社会とかかわりを持たないようにする。このような生き方も簡単ではありません。病気になったらどうしましょうか。食べ物がなくなったらどうしましょう。動物に襲われたらどうしましょう……などの不安が生じる。しかし林住生活をする仏弟子たちは、本来なら人間にできそうもないことに、挑戦しているのです。本性と闘っているのです。本性とは、自我意識で固まっているエゴそのものです。物に依存して、社会に依存して、自分を守りたい気分なのです。こころが完全無欠に林住になじむことは、貴重な勝利です。この貴重な勝利を得て、比丘たちが達成感にひたった気持ちになったならば、「微々たる林住生活くらいで、達成した気持ちになるものではないよ」と釈尊が仰るのです。
社会とのかかわりを断ち切って、こころの依存症を抑えて林住生活しても、安心という保証はありません。本性はつねに攻撃しているのです。本性は、刺激を要求してきます。それを補ってあげないと、どんどん要求が強くなっていくのです。忍耐ができなくなって、やがて本性に負けてしまう可能性があるのです。ですから、仏教はさらに進むことを推薦します。
皆に嫌われる道徳を守ることにしても、難しい学識を達成することにしても、林住を完成することにしても、それらに攻撃してきた仇敵は、われわれのこころの本性なのです。こころをそのままに置いておいて、何をやっても無駄なようです。それなら、こころそのものを戒めればよいのではないか、ということになります。それはその通りです。こころを戒めて、しつけして育て上げればいいのです。そこで、本格的な瞑想実践に挑戦するのです。こころの成長を妨げている、欲、怒りなどの五蓋を休止させて、サマーディという境地に達するのです。サマーディに達すると、こころが喜悦感を覚えるので、俗世間の誘惑にはそう簡単には負けません。こころの本性を休止させたので、本性は攻撃しないのです。しかし、サマーディに達するのも容易いことではありません。サマーディに達するどころか、たった五、六分、集中力を持ち続けることさえもできないのが、ふつうの人のこころの実際です。仏弟子たちは、この到達しがたいサマーディの境地に挑戦し、成功して貴重な勝利を得るのです。それでも、釈尊の反応は「そんな微々たるサマーディでは……」というものなのです。
仏弟子たちは、ブッダが推薦されるその上の境地に挑戦します。完全たる悟りに達したブッダの説かれた、解脱への道である「観察」修行に挑戦するのです。ヴィパッサナー修行に入るのです。サマーディ瞑想では、こころの汚れが休止するだけです。何かのきっかけで、本性が目覚めてしまう恐れが大なのです。観察する修行で、こころの本性である汚れが、跡形もなく、二度と生まれることもなく、消えてしまいます。無知という基本的な汚れ(闇)が、智慧(光)を開発することで徐々になくなるのです。最初になくなるのは、自我・エゴという錯覚です。同時に、無意味な行などを闇雲にやっても智慧が現われないことと、すべて因縁によって生じる無常な現象であることを理解するので、ブッダのみが真理を語られたのだと、ブッダの教えこそが解脱へ導く道なのだと納得して、「疑」という汚れも消えるのです。それでこころが安定します。欲などの汚れはまだ残っていますが、汚れの土台になる無知にヒビが入ったので、解脱に達することは確定したのです。仏弟子は、それでも満足に至らず、修行を続けます。智慧がまた一段階上がる。欲と怒りが半死状態になります。それでも満足に至らず、さらに修行を続ける。智慧がまた一段階上がる。欲と怒りが跡形もなく消えます。智慧が上がるたびに、無明の土台が壊れていくのです。まだ残っている汚れと言えば、無常でありながらも「自分がいる」という実感だけです。しかしこの実感によって、存在に対する未練が微妙に残っているのです。「慢」も生じてきます。「無明」も少々残っている。しかし、こころの中では、汚れが生じません。そのままの状態で亡くなれば、梵天に生まれて完全たる解脱に達するのです。解脱は確定しているのです。これは不還果という覚りの三番目の段階です。あと残っているのは、一つのステージだけです。これからは修行しなくても、次の生まれで最終解脱に達します。
しかし、ここまで達したとしても、仏弟子たちが満足することは、お釈迦さまが認めないのです。最終的に、「すべてが終わった。完了しました。これ以上、なすべきことはないのだ。ふたたび輪廻転生して苦しむことはないのだ」と、勝利を宣言するまで修行することを推薦するのです。
戒律を守る人間であっても、真理を知った知識人であっても、瞑想実践を成功して汚れを休止して禅定に達した人であっても、釈尊は「凡夫だ。一般人だ」と言うのです。観察瞑想で最初の覚りに達した人が、凡夫を破っているのです。聖者の仲間入りなのです。世間の次元を破り、出世間の次元に達した人なのです。しかしまだ、「学ぶこと」は残っている。仏教で言う「学ぶ」とは、俗世間で言う「学ぶ」と違います。世間の次元を破ることが、「学ぶ」なのです。実践、智慧、体得、という三つが備わった修行が、「学ぶ」なのです。第一段階の覚りから、第三段階の覚りまでの修行者たちには、まだ学ぶものが残っている。だから、「有学」と言うのです。第四段階である最終解脱に達した仏弟子たちに、この上、学ぶものはない。「学」を完了している。だから、「無学」と言うのです。釈尊は我々人間が「無学」の境地に達するまで、達成感に、満足感に、充実感にひたってはいけない、と戒めるのです。こころの一切の汚れを滅尽した人こそ、安定を確保した人になるのだと、そこまで精進努力しなさいと仰るのです。釈尊が明かされた真理の境地は、「道徳は嫌だ」と思う程度の人々には想像することすらできない、偉大なる尊い世界なのです。
今回のポイント
- 道徳を守ることすら難しい行為です。
- 道徳を完成しても人は未完成です。
- 真理に納得しても人は未完成です。
- 成功を収めた瞑想の達人も未完成です。
- 煩悩の滅尽ですべては完了する。
経典の言葉
Dhammapada Chapter XIX DHAMMATTHA VAGGA
第19章 法に依って立つ章
- Na sīlabbatamattena, Bāhusaccena vā pana;
Atha vā samādhilābhena, Vivittasayanena vā. (Dh.271)Phusāmi nekkhammasukhaṃ, Aputhujjanasevitaṃ;
Bhikkhu vissāsamāpādi, Appatto āsavakkhayaṃ. (Dh.272) - 持戒禁制守るとて 多聞博識なればとて
三昧深く得るとても遠離 独居に生くるとも凡常の及ばざる 出離の楽を体解しあれど
いまだ漏尽に至らねば 比丘よ決して安心 せざれ - 訳:江原通子
- (Dhammapada 271,272)