パティパダー巻頭法話

No.169(2009年3月)

計画的に生きる

理性があるなら捨てられる計画を立てる Plans are always uncertain.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

私たちには、明確な計画を立てないで生きることは難しいのです。しっかりした計画があれば、しっかりと生きることはできます。ですからわれわれは、幼稚園の時から計画を立てること、計画通りに生きることを学ぶのです。計画の立て方を学ぶ作業は、何歳くらいで卒業するのでしょうか。この質問はおそらく考えたことはないと思います。試しに考えた方がいいのではないかと思います。実は、計画の立て方を学ぶ事をやめる時期があります。それは自分の意志で何もできない状態に陥った時です。老いて病弱になって、生きることは床の上に制限された時です。言いかえれば、人は一生、計画の立て方を学ばなくてはいけないことになるのです。

問題は、このことを早くやめたいと思っていることです。「計画の達人」に早くなりたいのです。美しいのは言葉だけです。裏にあるのは、「怠けたい」という気持ちです。怠けたい、手抜きをしたい、という気持ちを隠して立てる計画には、手抜きがたくさんあります。ですから、達人の計画を実行すると、起こるのは問題ばかりなのです。世の中の現実を見れば、よく分かることです。

経済学、経営学について見識がある一流の知識人たちが計画を立てて実行しても、人類の経済状態は悪化するばかりです。世界にある政治制度も同じです。民主主義、共産主義などの政治制度は、決して一般人が決めたわけではなく、一流の知識人たちがつくったものです。しかし結果は、けっして思わしくないのです。教育における問題を解決するために、教育のプロたちが計画を立てます。計画を実行するが、教育における問題だけは無くならないのです。新たな問題をつくることは日常茶飯事です。達人の計画はこのようなものです。

人は一生、学ぶ生き物であると、仏教の立場から言えます。その考えは、仏教独特とは言えません。思想家の間でも、インド文化の中でも、よく言われることです。仏教の違うところは、学ぶことにも完了・終了という位置があるのだと取ることです。世間の考えでは、完了・終了ということは成り立たないのです。学ぶ項目のなかで、計画学は必修科目です。計画なしには何もできないのです。計画を立てることで、それを実行することで人間の自由気ままな生き方はできなくなります。束縛されるのです。本音を言えば、それは嫌なのです。しかし、本音で生きる自由はありません。計画を立てなくてはいけない、計画を実行しなくてはいけないのです。

なぜ計画が必要なのでしょうか。なぜ人があえて自分の自由に制限をつけなくてはいけないのでしょうか。この疑問を真剣に考えた方がよいと思います。「誰でも知っていることです」と言えないのです。計画が必要だと誰でも知っているならば、みな問題なく失敗することなく、幸福で生きているはずです。実はその反対です。ですから、この問題を考えることが大事です。

では答えを言います。ものごとはランダムで不規則で起こるものではありません。意外はけっこうありますが、偶然、突然は存在もしないのです。このウソの単語は、堂々と言語のなかで生きているから、人間が困っているのです。いくらなんでも、偶然、突然はあり得ると信じれば、計画を立てる時は手抜きするのです。真剣さに欠けるのです。

ここで、仏教が語る因縁法則の出番です。
一切の現象は因縁により生じるのだ とはブッダの言葉です。「如来がこの世に現れても現れなくても、一切の現象は『因縁性』であることは真理であり、変わらない事実であり、法則であります。」これは、釈尊が特別なこと、世にないことを教えるのではなく、普遍的に世にあることをただ発見して説いただけ、という意味です。この世に仏教思想がなくても、現象は因縁によって生まれるのです。

すべては因縁により生じるのだから、不規則なんかは成り立たないのです。なにごとにも決まった規則があるのです。だから、計画を立てることは可能です。計画は、どうにもならない人の妄想という代物ではないのです。

計画を立てる場合は、難しいところがあります。私たちに、物事の因縁性を発見する能力は乏しいのです。徹底的に原因究明する、という言葉は、無意味なスローガンに過ぎません。誰一人として、徹底した原因究明はしないのです。一つ二つだけ原因を見出して、大げさにしゃべるのです。しかし問題は解決しません。日本のどこかで子供が誘拐されたとしましょう。日本中大騒ぎになります。いろんなところから様々な分野の一流のプロたちを集めて、原因究明する作業にかかるのです。これが原因だと言いながら、たくさん意見を出すのです。村の人々も、一ヶ月間ほどは誘拐されないように自分の子供を守るのです。原因は究明されたし、子供たちが登下校する時は一ヶ月間程度守ってあげたし、卒業するまで子供を守る作業はできないし、それで万事解決です。しかし、またどこかで子供は誘拐されるのです。また同じプロセスで、大騒ぎする。現実を見ると、誘拐犯人は同じ場所に行って二番目の子供も誘拐しようとはしないのです。

現在陥っている経済不振に対しても、同じことが言えます。経済不振とは、いまだかつてなかった現象ではありません。経験があるはずです。それで専門家の方々は、瞬時に原因究明してぶ厚い論文をたくさん出す。この速さは奇跡的です。しかし問題は悪化するばかりです。ですから、「徹底した原因究明」は問題だと言えるのです。
原因究明をしていないのです。客観的にものごとを観察せずに、自分の都合で考えているのです。

原因を知り尽くすことができれば、見事な計画を立てられるのは当たり前です。しかし、難しいのは計画を立てることではないのです。原因究明なのです。その能力はゼロにして、計画立てるとは、波の上で家を建てることと同じです。成り立たないのです。仏教は原因究明について明確に語られてはいるが、その教えは理解しがたいほど困難で難しいのだと注意もしているのです。ブッダの教えをすべて覚えていたアーナンダ尊者が、このような言葉を言いました。「因果説はとても難しい理解しがたいものだと説かれているが、私にはとても容易く理解できます。」その言葉を聞いたお釈迦様は、「アーナンダよ、このような言葉を言ってはならない。因果説は理解しがたい深遠なものです。これが理解できないから、生命が苦しみから脱出できなくなっているのです」と、却下したのです。

簡単な例で考えましょう。カボチャの種がある。この種を原因にすれば、カボチャの実を作ることができる。
それぐらいは誰にでも分かる。難しくもない。では、カボチャの種があれば、カボチャを作ることはできるのでしょうか。それはできません。カボチャの種だけが原因ではないのです。カボチャの種からカボチャの実を作るならば、必要な原因は複数あります。土、水、太陽などが必要です。この原因が揃っても、まだ足らないのです。

条件もあるからです。種を植える時期、肥料を与える時期と分量、カボチャの蔓への手入れ具合、陽のあたり具合、虫たちの攻撃程度なども、介入するのです。それらは、原因というよりは条件かもしれません。仏教が因縁というのは、原因と条件のことです。原因が揃っても結果が出ないのは、仏教の話です。しかし世界は、原因さえそろえば成功するはずだと思いこむのです。子供を有名な学校に入れておけば、必要なものを全部買ってあげて、疲れた時に遊ぶためのゲームもそろえてあげれば充分だと、思ってしまうのです。しかし、何でもそろえてあげると、成長する子供がいないとは言い切れませんが、ほとんどの場合は、不良という結果になるのです。これは原因だけ見て、条件を無視する時の結果です。どんな現象であっても、主な原因ぐらいは発見できないわけではありません。それでは足りません。すべての原因を知らなくてはならないのです。それでも足りません。必要な条件も知らなくてはならない。ですから、因果法則はたやすく理解できるものではないのです。正直なところ、「分かるわけがないでしょう」と諦めたいところです。

世の中の人々は、計画がうまくいかないことに、計画が狂ってしまうことに、よく悩みます。計画を立てても、その通りに成功しないということが事実であることは、もう理解できると思います。一部の原因だけを知って立てる計画は、うまくいかないのです。うまくいくどころか、失敗する確率はかなり高いのです。しかし、この事実は認めたくはないという感情に陥るのです。仏教は悲観的だと怒鳴る。人間なら、計画を立ててそれを実行して生きているのではないかと反論もする。しかし、仏教側の弁解は単純です。「うまくいっているのか?」だけです。

計画を立ててはいけない、という話ではありません。
計画は立てられるものです。問題は、計画を立てるために必要なデータが、ないことです。計画の立て方などは、学校でも会社でも、教えてくれる。しかし、原因究明については、教えてくれない。それなら、計画を立てることはできないのです。企画を頼まれてもアイデアが出なくて、何もできなくなって困っている人々の方が多いのです。企画を作っても、成功するか否かを考えたりして、大変な精神不安定になるのです。結果は、計画のおかげで病気になることです。能力はないにもかかわらず、人は計画を立てる。実行してみる。うまくいく場合も、うまくいかない場合もある。うまくいったところで、能力自慢もする。たまたま条件がそろって、計画がうまくいっただけなのに、自慢できないはずです。「運が良かった」というしかないのです。しかし、運が良かった、ついている、などの単語も危険です。因果性を否定する言葉です。日本の自動車会社は、毎年どれぐらいの台数をつくるのかと計画を立てる。日産自動車社長のカルロス・ゴーンさんは今年、全世界で売れる自動車台数は5500万台だと推測する。ちなみにトヨタ自動車は去年、年間990万台を生産したのです。当然、すべては売れないのです。トヨタの売れるシェアは同じだと推定しても、半分も売れないでしょう。それは計画通りにいかないことでしょうか。いいえ、売れた台数を計算して、競争する目的で、次の計画の場合は台数を上げるのです。しかし、この計画では「条件」ということを無視しているのです。

人が買う気になる、という条件をトヨタに管理できないのです。自分が原因だけにしがみついても、条件のことは管轄外なのです。まったく管理できない条件を無視して立てる計画は、うまくいかないに決まっているのです。

物事は条件によって現れるというならば、現れた現象は一時的であり、条件に依存するものでもあります。分かりやすく言えば、たちまち変わります。時間の経過は、見事な条件です。美味しいラーメンをつくったとしましょう。しかし、「美味しい」ということは、時間という条件によるものです。作ってから30分たったら、美味しいラーメンではなく、不味くて食べられないラーメンなのです。因縁により一切の現象は生じるという場合は、一切の現象は無常であるということになるのです。

無常であっても、われわれは様々な工夫をするのです。
家を建てる時は、耐震性を考えるのです。しかし、地震が起きても壊れない、という保証もないのです。要するに、いかなる計画を立てても、その計画を立てて実行する人々に、何の管理もできない、管轄外の原因と条件が関わってくるのです。管理外の原因と条件まで揃ったら、文句なく成功するのです。だから無知な人は、ついている、ラッキーでした、運が良かった、神の恩寵だ、などの言葉が好きなのです。これが怖い落とし穴です。

やっぱり何であろうとも、「不確定」という態度が安全です。精神的に落ち着いていられます。明日のことは分からないとは、事実です。事実を認めれば、ウソを信じるよりは安心です。無常には勝てないのです。理性のある人は、精密に計画を立てるのです。実行する時でも、成功するまで運に任せて待っていないのです。成功させるようにするのです。それでも成功しなかったからと言って、何とも思わないのです。実行する過程で、いつでも計画の変更、改良、調整などをするのです。計画通りに、という発想は、理性のある人にはないのです。計画を実行することをはじめたその瞬間から、絶えず改良、調整などをするのです。もし条件が揃ってこないと、または条件が悪いと、分かった時点で、どれほど苦労した計画であっても、何の躊躇もなく、中止するのです。捨てるのです。逆説的に言えば、捨てられる計画の方が、良い計画なのです。

お釈迦様の時代、マハーダナという商人がいました。
ベナレスから商品をもって舎衛城に来ました。川が溢れて渡れなくなり、1週間もそのまま足止めを食らっていました。彼は商品をすべて売るまで帰るつもりはなかった。計画を実行したかったのです。舎衛城に入って、店を開いている彼を見た釈尊が微笑みました。アーナンダ尊者に、このように言いました。
「アーナンダ、あの商人が見えますか。彼は商品をすべて売って帰るつもりです。しかし、彼の寿命は尽きている。彼が自分にとって大事なことを何かしたいならば、今日一日のうちに、行うべきです。彼にとって唯一有意義なことは、気づきを実践してこころを清らかにすることです。」
アーナンダ尊者は、その旨を彼に伝えました。彼がとてもこわくなりました。商売をたちまち止めて、七日間かけてお布施をしました。釈尊の説法を聞いて、悟りに達しました。

そうして彼は、七日目に亡くなりました。お釈迦様が失礼なことを言ったわけでも、人を軽視したわけでもないのです。愚か者の計画なんかは当てにならない、ということを説かれたかったのです。計画にしがみつかないで、日々自分が何をやるべきかと考えて生活することは正解です。充実した人生とは、今日、充実して生きることです。計画とは、よいものでも悪いものでも、無視できるものでもないのです。立てたからと言って、思い通りに行くものでもないのです。以上、計画に対する仏教の正道の説明なのです。

今回のポイント

  • 的中した生き方には日々の成功を目指すしかない
  • 計画なしに生きていられない
  • 原因究明できる人に計画を立てられる
  • 計画通りに成功するという保証はない

経典の言葉

Dhammapada Chapter XX MAGGA VAGGA
第20章  道の章

  • Idha vassaṃ vasissāmi, Idha hemantagimhisu;
    Iti bālo vicinteti, Antarāyaṃ na bujjhati.
  • 雨期はここ 夏冬かしこに過さんと
    心惑わす おろかびと いつ死ぬるかも知らずして
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 286)