2021年7月号(176)
認識の汚染を取り除く
お釈迦様は「ありのままに見る(如実に観る)」という言葉を明確に定義して語っています。「ありのままに見る」とは、現象の生と滅を観察するという意味なのです。俗世間でも、一般的に「ありのままに見る」と言いますが、その場合は「何かの問題を解決するために、現実を客観視しよう」という意味で使っているのです。私たちは日常生活でも、物事を「ありのままに見て」問題を解決すべく努力しています。残念ですが、それはブッダが説いた「ありのまま」とは意味が違います。正等覚者の説いた意味で「ありのままに見る」ことをしない限り、つまり現象の生滅を観ることをしない限り、私たちは現実ではなく、幻覚を観ているに過ぎないのです。
私たちには、希望・願望・期待などがあります。現在の状況と将来に対して、様々なプランやプロジェクトを持っています。これらをまとめて、仮にバイアスだとしましょう。私たちが物事を観察する時には、このバイアスを土台にして、バイアスから現れる目的を達成するために認識過程を変えてしまうのです。「ありのまま」ではなく、「あってほしいまま」に認識する。要するに、認識データを自分の都合にあわせて歪曲するのです。客観的にデータを調べる目的で「ありのまま」に見ようとしたところで、心のバイアスはそのままなので、ブッダが説く「ありのままに見る」ことにはならないのです。
現象をありのままに見るならば、人は真理を発見して究極の安穏の境地に達するのです。俗世間の観察能力は、バイアスから発生する俗世間的な目的に達するために使用されています。心のバイアスとは、仏教的に言えば貪瞋痴という煩悩なのです。貪瞋痴の指図によって生きることで、ひたすらに苦を回転する結果になります。仏道を歩む人々は、貪瞋痴のバイアスを使わないで、現象が現れては消えていく生滅の流れを観察するのです。すべての現象が現れては消えていく、ということは、明らかな事実です。バイアスにより汚れた心は、この事実を無視するのです。結果として、煩悩が強化されて、苦しみが拡大するのです。
バイアスの汚染を取り除くためには、生滅の流れを観察することが不可欠です。現象の生滅を観察することで、期待・希望・願望などから解放され、バイアスから生じる執着も消えてしまいます。それで心は究極の安穏に達するのです。