パティパダー巻頭法話

No.194(2011年4月)

高級な乗り物の選び方

自己制御は最高級な乗り物 Select the most excellent vehicle for your life.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIII NĀGA VAGGA
第23章 象の章

  1. Na hi etehi yānehi
    Gaccheyya agataṃ disaṃ
    Yathāttanā sudantena
    Danto dantena gacchati.
  • これら各種の乗り物も 涅槃に至ることを得ず
    よく調御せし己のみ 調御によりて行くを得る 
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 323)

こころの重石

ある日のことです。インドのアチラワティ河岸で、ひとりの象使いが象を調教していました。頑張っても頑張っても、象さんは調教師の期待通りに反応してくれません。調教師は疲れ果てました。その辺りに何人かの比丘たちもいました。その中のひとりの比丘は、在家の時に象使いのプロでした。この象にこのように言ってあげて、このような順番で教えるならば、象さんは簡単に調教師の命令を理解するはずだと、その比丘が周りの比丘たちに言いました。
この言葉を聞いた象使いは、そのようにしてみました。象は見事に従順になったのです。

この出来事を、あの比丘たちがお釈迦様に報告しました。お釈迦様が本人に問いただしたところで、本人はその通りですと認めました。俗世間のニュースなら、あの比丘の能力は褒められるところでしょう。
お釈迦様はその比丘を叱ったのです。直接、象使いにやり方を教えたならば、それは戒律上よくないことになります。俗世間のできごとに口を挟んだことになります。しかしその比丘は、象使いにやり方を教えたわけではないのです。自分の仲間に説明しただけです。どんな職業でもプロになった人は、他の人がその仕事に苦労したり失敗したりするのを見ると、黙っていられないものです。教えてあげたい気持ちになるのです。それでもこの比丘は、戒律規則に抵触することはしなかったのです。

ではなぜ、お釈迦様が叱ったのでしょうか。もしかするとこの比丘が、長年にわたって身についた能力を大事にしていた可能性があります。在家として獲得した知識と技術能力に愛着があった可能性もあります。俗世間の知識、俗世間の技術能力は、仏道においては関係ないものです。解脱を目的にして修行する場合は、たいへんな障害になるのです。知識と技術能力は、俗世間に属するものです。俗世間の知識と技術能力は、収入を得るために、権力を獲得するために、名誉のために、使用するものです。科学者であることも、数学者であることも、一流のコックさんであることも、有名な演奏家であることも、瞑想実践の糧にはなりません。こころの重石のように邪魔にはなります。

象や馬の調教は、当時の世界では高く評価されていたのです。象と馬の価値は、どの程度で調教されているかで決まります。当時では、象と馬とは乗り物です。人間の力では行けないところも、この乗り物によって制覇できるのです。乗り物という言葉は、仏教では譬喩としてよく使うのです。パーリ語のyāna は乗と訳します。乗り物という意味になっています。しかし、はしごを使って普通登れない高いところに登ったならば、はしごもyāna(乗)なのです。yāna の意味は、乗り物とは微妙に違います。普通ならば辿りつけない場所に運んでくれる道具、というニュアンスになります。お釈迦様はyāna(乗)という言葉を中心にして、象や馬などの乗り物では、涅槃という境地には辿り着けないだろうと説法なさったのです。

解脱に達する乗り物

誰がどんな乗り物を使っても、辿り着くことができない境地とは、涅槃なのです。
しかし涅槃という境地に辿り着くためには、何かのyāna(乗)が必要なのです。ふつうの力では達することができない境地なのです。涅槃の境地に辿り着くyāna とは、「自己制御」です。自分のこころを調教することです。
正しく鍛錬されたこころというyānaに乗って、解脱に達するのですが、涅槃という境地にこころが入らないことも憶えておきましょう。高級車に乗って宮殿に行くとしましょう。しかし車は宮殿には入れません。高級車の仕事は宮殿の入口に人を運ぶだけです。涅槃に達したらどうなるのか、涅槃という境地はどういうものなのか、などの疑問を一般人が持っているのです。仏教を調べたキリスト教の専門家たちが、ブッダが語る涅槃という境地は、自分たちの宗教で約束している富に溢れている永遠な命と違って、極限なる無の境地(虚無 absolute nothingness)だと言われる場合もあります。涅槃にはこころもない、ということは、一般的な知識では理解できるものではないのです。ですから、車と宮殿の喩えで理解してください。
解脱に達するyāna(乗)とは、こころなのです。
戒を守ることで、瞑想実践することで、こころを調教するのです。さらに智慧を開発することで、調教を完成するのです。それで解脱に達するのです。こころを調教することは、自己の制御とも言うのです。

俗世間の知識、技術能力などを身につけることは、調教にならないとは言えません。読み書きを習うことさえも、結局はこころの調教なのです。我々はふだん様々なことを学んだり習ったりするのです。それによって、こころが調教されるのです。ですから、学識のない人、技術能力がない人、何もできない人より、知識・技術能力のある人は、性格的にもよくしつけられているのです。信頼できるのです。しかしそれほど学識と技術能力がない人でも、道徳を守る人になると、より優れた人格者になるのです。学者、技術者よりも、信頼できるのです。なぜかというと、その人は直接、こころを調教しているからです。

最高のyāna

では俗世間の知識・技術能力などを身につけることによっても、こころがしつけされると言うならば、なぜ仏教は、そういうものに価値を見出さないのでしょうか。仏教は知識・技術能力を否定しません。
乗り物扱いしているのです。乗り物でどこまで行けるのか、ということは決まっているのです。大阪に住んでいる人が、東京の池袋に用事があるとしましょう。その人は新幹線に乗りますが、東京駅までです。池袋には着けません。それで、山手線という乗り物に乗り換えなくてはいけないのです。世の中の知識や技術能力は、目的がはっきりしています。看護師は患者さんの面倒をみる能力はあるが、治療する能力はありません。医者は治療する能力はありますが、看護はできません。このように見ると、世間の知識・技術能力は目的別に細分化されているのです。社会で認められている知識人であっても、技術者であっても、自分たちはある特定の狭い領域の中のプロであって、何でも知っている人ではないと気づかなくてはいけないのです。

仏教は「人を育てる」ことに専念するのです。人を育てる場合は、数学は欠かせない、音楽は欠かせない、などなどとは言えないのです。特定の知識が欠かせないと言うならば、その知識能力が身につかない人はどうすればよいのでしょうか。人を育てる場合は、道徳から始まるのです。道徳は欠かせないのです。道徳を守ることは誰にでもできます。道徳は守れない、守りたくない、と言う人は、精神的な病に陥っているのです。

人は何を学んでも、死で終わります。大富豪家になっても、死ですべて捨てます。技術能力も、死ぬまでです。道徳を守っていれば、死後、不幸に陥ることは避けられます。しかし、それでも輪廻転生して苦を循環することになります。ですから、こころを育てて、解脱に達することこそが、人にとってこの上のない、最高のyāna(乗)なのです。

今回のポイント

  • 知識や技術能力もこころの調教になります
  • 世間の知識は目的別に細分化されています
  • 知識があっても人格者になるとは限りません
  • 道徳は人格者への近道です
  • 自己制御は解脱に達するyāna(乗)です