パティパダー巻頭法話

No.210(2012年8月)

自分が作った網に自分でかかる

苦しみとは、身から出た錆 Build your prison and get imprisoned.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章

  1. Ye rāgarattānupatanti sotaṃ
    Sayamkataṃ makkatakova jālaṃ
    Etampi chetvāna vajanti dhīrā
    Anapekkhino sabbadukkhaṃ pahāya
  • おのれの吐きし網伝う 蜘蛛のごとくに人もまた
    おのれが欲に流さるる 賢者はそれを断ち切りて
    執着を捨てて苦を滅す
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 347)

仏教思想と罪の概念

宗教は「罪」という言葉を中心として自分の教えを拡げますが、仏教は「執着・束縛」という言葉を中心に真理を語るのです。罪の概念は、仏教思想の中心的な概念ではありません。束縛があるから、人は罪を犯すと説くのです。同時に、束縛があるから、人は善も行うのです。

執着の親分

それでは束縛とは何かと、理解しなくてはいけなくなります。束縛するもの・束縛の対象は、簡単に理解できます。子供に、家族に執着する。財産に執着する。知識に、権力に執着する。仕事にも執着する。食べ物や娯楽にも執着する。無数の執着のなかで、最強の執着は、自分自身の身体に執着することです。自分の肉体に執着するからこそ、他の執着も起きてくるのです。執着の親分は、自分の身体なのです。他の執着は子分なのです。

ケーマー妃の覚り

お釈迦さまの時代、マガダ国のビンビサーラ国王にケーマーというお妃がいました。彼女は絶世の美女でした。他の誰よりも美しかったので、ケーマーは自分の身体にプライドを持っていました。ビンビサーラ王の宮殿の人々はお釈迦さまと親しかったので、彼女の耳にもブッダの話が入ります。彼女は、「ブッダは美を非難する人だ」という誤解に陥ったのです。これは誤解だと断言することも難しいのです。ブッダは、すべての現象は無常であると説きます。肉体は不浄であると観察するように戒めます。自分の美貌で傲慢になっている彼女に、ブッダの教えとして、家来の人々があえて不浄の話を教えた可能性もあります。彼女は、「ブッダには絶対会わない」と決めたのです。

ビンビサーラ王は「宮殿の皆が三宝に帰依する仏教徒なのに、大事なお妃だけ邪見に陥っているのは良くないことだ」と思ったのです。そこで、王様はある企画を立てました。詩人に頼んで、竹林園(竹林精舎のことです)を褒め称える歌を作らせたのです。音楽隊が作曲して歌い、舞踊団がそれに合わせて、踊りを披露したのです。ケーマー妃は感動しました。美しいその園はどこにあるのかと訊きました。近くにある竹林精舎だと知って、それを見学したいという意欲を持ちました。しかし、ブッダには顔を会わせない、という覚悟のうえです。この出来事をお釈迦さまも知っていたのです。竹林精舎を訪れ、お釈迦さまと比丘衆の姿を見ていたケーマー妃はびっくりしました。なんと、天女のように美しい若い女性が、お釈迦さまの側に立って、団扇で風を送っていたのです。実は、お釈迦さまは、彼女にだけ現象が見えるように神通を起こしたのです。

ケーマー妃は、「美を非難する人なら、釈尊が美人を選んでお世話をさせるはずはない。私の誤解でした」と思いました。しかし、ブッダの言葉に集中することはできなかったのです。お釈迦さまの側にいた女性が、眩しいほど美しかったからです。自分の美と比較にならない美貌でした。ケーマーの目が、彼女に釘付けになったのです。ケーマーの頭の中で言葉さえもなくなった状況を見計らって、お釈迦さまは作った現象を徐々に変えるようにしたのです。十六歳から二十歳になり、二十五になり、三十歳になり、というふうに、美女は早送りで年老いていきました。さらに年をとって、老いた婆になり、さらに老いて醜い身体になって、倒れて死んでしまった。肉体も腐っていって、骨になったのです。この早送り現象に釘付けになっていたケーマーのこころは、変わってしまいました。「美は儚いものである」と分かったのです。自分よりも遥かに美しかった女性が、年取って醜い身体になってしまったのを目の当たりにして、自分の肉体に対する愛着と慢が壊れてしまったのです。

その時、お釈迦さまは、「ケーマーよ、身体とは不浄なものを集めて構成されたものです。身体からは常に、不浄なものばかり放たれるのです。愚か者が不浄な肉体に執着するのだ」と説いたのです。ケーマー妃は預流果に達しました。のちに彼女は出家して、大阿羅漢の一人になったのです。このエピソードは、すべての束縛・執着の親分は、自分自身の肉体であると示すものです。

束縛のカラクリ

束縛のカラクリを理解しましょう。この肉体に「感覚(vedanā)」があります。感覚があるから、感じるのです。目・耳・鼻・舌・身体で感じるのです。束縛・執着は、この感覚によって生まれるのです。美しいものを目で感じると、欲が生じます。醜いものを目で感じると、見たくはない、という怒りが生じます。同時に、見たいものを探し求める意欲も現れます。これをまとめて、「渇愛(tanhā)」と言います。渇愛(tanhā) という衝動を原因として、憂い悲しみ悩み苦しみなどが、絶えず起き続けるのです。肉体を持って生きている生命には、感覚から生まれる渇愛の罠から抜けることは難しいのです。お釈迦さまは、生命の苦しみの原因が渇愛であると発見したのです。

ブッダは束縛を知り尽くして語る

執着・束縛などは苦しみの原因になると、当時インドの他宗教でも、何となく語っていました。しかし、明確な理解や分析は無かったのです。お釈迦さまは弟子たちに、「他宗教の人々から、『私たちも束縛を断つことを説きます。ブッダも束縛を断つことを教えます。
ですから両者は同じです』と言われる場合は、議論すべきだ」と説かれました。他宗教の人々も、束縛の一つか二つは分かっているかもしれません。しかし束縛を知り尽くしていないのだ、ということが議論のポイントです。「束縛は全部でいくつありますか? 束縛はどのような原因によって起こるのですか? 束縛の短所と長所は何なのですか? 束縛を完成させる方法は何なのですか?」と、比丘たちは訊くべきです。そのように質問を投げかけると、相手は明確に答えられず曖昧になるのだと、お釈迦さまは説かれたのです。

悪の枢軸

眼耳鼻舌身意 という六根に起こる六種類の感覚が、束縛(渇愛)を引き起こす犯人なのです。それはお釈迦さまの発見です。悪の枢軸に対して、宗教はいろいろ語りますが、ほとんどの話は神秘的です。また神話物語を原因として示します。ブッダはとても具体的に、「(悪の枢軸とは)肉体の感覚である」と説くのです。宗教は修行として苦行を推薦します。さまざまな行儀作法を推薦します。断食しなさい、娯楽を捨てなさい、裸形をしなさい、全財産を捨てなさい、聖典を読誦しなさい、沈黙行をしなさい、森に隠れなさい、などを言うのです。このような話の場合、悪の枢軸は「外の世界」になるのです。「美しい人の姿が目に入ったから、性欲が生じた。財産を見たから、美しい音が聴こえたから、ごちそうを食べたから、欲が生じた」という話になります。ですから、こころを汚す敵から逃げることが、修行になるのです。

宗教の修行ももう一つの束縛

しかし仏教から観れば、これは勘違いなのです。退屈だったら人は、遊んだり音楽を聴いたりする。一緒にいるとケンカになる場合は、その人から離れて、気があう人々と付き合う。このようなことは、一般人は誰でも行なっています。ストレスの解消法です。しかし、それでストレスが消えるわけではありません。宗教が語る苦行などの修行方法も、同じ思考パターンになっているのです。ひとと喋ると、欲・怒り・混乱などが生まれるから、沈黙行をやる。人々が目に入ると、欲が生まれるなら、森に隠れる。修行システムは、一般人のストレス解消法と同じなのです。一般人がどのような方法を駆使してストレスを一時的に解消したところで、ストレスが無くなることはないのです。苦行を実践しても、同じく束縛が無くなることはないのです。一時的に現れなくなるだけです。ですからお釈迦さまは、宗教の修行方法は「戒禁取(sīlabbataparāmāsa)」という、もう一つの束縛だと説かれるのです。

自縄自縛を乗り越える

悪の枢軸は、自分自身の肉体にある感覚です。ある日お釈迦さまは、蜘蛛の巣に喩えてこの真理を語りました。蜘蛛は六方に糸を張って巣を作ります。自分が作った網の真ん中に住みます。網に他の虫たちがかかったら、その糸を通してそれを感じます。それが蜘蛛の生活です。自分が張った網から抜けられないのです。網を作る糸は、自分の身体から出るのです。誰かが糸で網を張ってあげたわけではないのです。人間は六根の感覚器官から外の情報を感じます。その情報に依存して生きているのです。六つの感覚は、当然、自分の身体から発するものです。生きているとは、この六つの感覚で編み込んだ網にかけられていることです。この網は、自分自身が作るのです。自分が作った網だからと言っても、自由自在に網から抜けることはできないのです。

眼耳鼻舌身意 から入る情報によって、外の世界に対する束縛が生じる。それによって、憂い悩み苦しみなどが生じるのです。輪廻転生する生命は、この網の中で生きています。
賢者は破り難いこの網を破るのです。感覚に対する執着・依存を無くすのです。それによって、一切の苦しみから解放されるのです。肉体も、感覚も、感覚に入る情報も、つねに変化する無常たる現象です。ひとつも執着に値しないのです。一切の現象は無常であると発見することで、執着が無くなるのです。

今回のポイント

  • 罪の概念は仏教思想の中心ではない
  • 束縛・執着(渇愛)は仏教の中心軸です
  • 執着の親分は自分の肉体です
  • 執着が感覚から起こる
  • 苦しみを乗り越えるために執着を断つのです