No.15(『ヴィパッサナー通信』2001年3号)
王妃とバラモンの話①
Mudulakkhaṇa jātaka(No.66)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、欲情についてお説きになっものです。
サーヴァッティに住むある良家の息子が、お釈迦さまの説法を聞き、三宝に帰依して出家しました。彼は、仏道を実践し、修行に励み、瞑想の修習を怠ることはありませんでした。
ところがある日、サーヴァッティで托鉢をしているとき、一人の美しく着飾った女性を見て、瞑想の修習をつい忘れ、「美しい」とじっと眺めてしまいました※1。そのとき彼の心の中に動揺が湧きおこり、樹液を蓄えた樹を斧で切りつけたように、煩悩が湧き出してきました。
彼はそれ以来欲情の虜になり、身体の安らぎも心の安らぎも感じることはなくなりました。(人家に)迷ってきた野獣のように、仏道に興味がなくなり、髪の毛や爪も伸びたまま、まとった衣も汚れたままになってしまいました。
彼の立ち居振舞いの乱れを見た仲間の比丘達は「友よ、君の振る舞いは以前とまったく変わったようですが、どうしたのですか」とたずねました。
彼は「友らよ、私は修行に魅力を感じなくなりました。」と答えたので、比丘達は彼をお釈迦さまのもとへ連れて行きました。
お釈迦さまは
「比丘達よ、どうしてあなた方は無理にこの比丘を連れて来たのか」とたずねられました。
「尊師よ、この比丘は修行に興味を失いました。」
お釈迦さまはその比丘本人に
「比丘よ、それは本当か」とたずねました。
「本当です」
「だれがあなたをそうさせたのか」
「尊師よ、私は托鉢中に冥想の修習を忘れ、一人の女性を『美しい』とじっと眺めてしまいました。そのとき私に欲情がわきおこり、そのために私は修行に魅力を感じられなくなりました」
そこでお釈迦さまは彼に言われました。
「比丘よ、それは不思議ではありません。異性を、瞑想修習の見方を忘れて『美しい』と眺めるならば、煩悩が湧き起こるのです。
昔、五つの神通と八つの禅定を得て、禅定の力によって煩悩を退け※2、清浄な心を持ち、空を飛行することもできた菩薩でさえ、感官の自制を失って異性を眺めたために、禅定を失い、欲情にかられて大きな苦悩を味わうことになりました。
というのは、例えば須彌山を覆すほどの大風が吹けば、象ほどの小さな禿山はひとたまりもない。巨大なジャンブ樹を根こそぎにするような大風が吹けば、崖に生えた小さな潅木は耐えきれない。大海を干乾びさせるほどの大風には、小さな池など相手にはならない。それと同じ様に、最高の智慧をもち、心の清らかな菩薩たちさえも無智な状態にしてしまうほどの強い欲情には、あなたなど、ひとたまりもないのだから、そのことを恥じることはないのです。
心の清らかな者たちでも、欲情を起こすことがあり、最高の名声を得た者たちでも、恥をかくことはあるのです」と言って、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はカーシ国の、ある大富豪のバラモンの家に生まれました。
分別のある年頃になると、あらゆる学芸に熟達し、やがて俗世間を捨て去って出家生活に入り、瞑想を修習し、五つの神通と八つの禅定を得て、禅定の楽を享受しつつヒマラヤ地方で暮らしていました。
あるとき彼は塩や酢を求めてヒマラヤ山から降りバーラーナシーに行き、王家の遊園に一泊しました。翌日彼は身なりを整えて、樹皮で出来た褐色の衣を身に纏い、一方の肩にはカモシカの皮をかけ、髪を丸く束ねて、荷物を担ぐ棒を携え、バーラーナシーを托鉢して廻るうちに王宮の門に到着しました。
王様は彼の立ち居振る舞いを好ましく思い、彼を招いておいしい硬軟の食べ物をご馳走して満足させ、彼が礼を述べたときに、ここに住んでくれるように懇願しました。彼は承諾して、その後はいつも宮中で食事をとり、王家の人々に教えを説きながら、十六年間そこに住みました。
さて、ある日、王は国境で起こった反乱を鎮圧するために出陣することになりましたが、そのとき「ムドゥラッカナー(優相)」という名前の王妃に対し「心を尽くして仙人に仕えなさい」と言い残して、出征の途につきました。王が出立して以降、菩薩である仙人は、自分の気が向いた時刻に王宮に出掛けるようになりました。(次号に続く)
スマナサーラ長老のコメント
※1 「美しい」とじっと眺めてしまいました。
仏教では、不浄随念という瞑想方法があります。出家修行者の場合は、心を清らかにするために、諸々の欲を退ける瞑想法を実践していきます。どんな人にも異性に対する欲は生まれますが、異性の身体を見て「綺麗だ」「美しい」とは決して思わず、そのかわりに「不浄なものだ」と観察するのが不浄観の瞑想のやり方です。この物語の比丘はその修行を怠ってしまったのです。
自分の身体も人の身体も「不浄だ、汚いものだ」と念ずることは、よくないと思う人々もいるでしょう。寝たきりの老人や痴呆の人々の介護をしたり、身体の不自由な病人のケアをしたりする場合に、障壁になるのでは? という疑念が生じるのかもしれません。人の身体を「不浄だ、汚い」と思うと、介護が苦痛になる…と考えてしまうのでしょうか。不浄観の場合は、身体というものは、心臓・腎臓・大便・小便などの三十二種類の不浄な要素で構成されていて、綺麗に見えるのは表面的であって幻覚であるということを観察します。ですから実際には、「心臓は汚い」というよりも「心臓は欲を抱く対象ではない」という智慧が生まれ、そのことが不浄観の瞑想の目的になります。このように観ることが出来れば、介護をする場合でも「綺麗」でも「汚い」でもどちらでもなく、ただ単に「便である」「よだれである」などと客観的に観て、嫌悪感や不快感もなく仕事をすることが出来るのです。
仏教は、看病、介護、年上の人々の面倒を見ることは、強く奨励しています。そういうことは、賞賛に値するような特別なことではなく、誰でもやらなければならない道徳的な行為です。
※2 五つの神通と八つの禅定を得て、禅定の力によって煩悩を退け…
右記の不浄随念や呼吸随念などの瞑想をしていくと、心の統一された状態を作ることが出来ますが、その状態のことを禅定といいます。禅定というのは、心の中の煩悩が退けられ機能しなくなった状態(完全に消えるわけではなく、観察能力によって煩悩が機能しなくなる)で、心が清らかになった状態です。それには段階があり、八つのステップがあります。心が汚れていると、人間の能力にはおのずと限界があります。人間は肉体を中心に考え、心よりも身体を大事にしていますが、そうした身体に依存した状態(身体の奴隷になっている状態)から離れて、清らかな心を作ると、普通の人間には想像もできないような能力が身につきます。それが「神通」で、神変・天耳界智・他心智・宿住随念智・死生智の五つがあります。