怒りを治療するエゴイスト宣言/ギャンブルと五戒/不安や孤独との付き合い方/こころの汚れと思考
パティパダー2013年2月号(186)
怒りを治療するエゴイスト宣言
自分を顧みると、怒る性格が強いようです。以前はその怒りを他に向けていたのですが、自分にも向けるようになっています。なんとか前に進みたいと思いますが、この怒る性格がなかなか治らないことが悩みです。アドバイスをお願いします。
自分に対する期待・願望が強すぎると、なかなか怒り癖が治らないのです。根本にある問題は、「我(エゴ)が強い」ということです。自分の我が強いことになかなか気づけない、発見できないから、何でも怒りで表現してしまうのです。我(エゴ)という元の原因がそのままだったら、治る見込みはありません。ですから、自我が強いことを治療しないといけないのです。
自分で、「ああなってほしい、こうなってほしい」と思っても、世の中がそうなるわけではないのです。自分も世界の小さな歯車の一つに過ぎないのです。自分がいくら自由にしたくても、まわりの歯車との関係でしか動きません。何ひとつも自分の思い通りに動かないのです。日本の方々が、「尖閣諸島は日本の領土だ」と思っても、そううまくいかない。我を張ってもうまくいかないのです。自我を張った瞬間で、壊れてしまいます。自我を張った時には、怒りがあるのです。面白いことに、自分の希望がなければ怒らないのです。怒る瞬間には、必ず、自分の希望があるのです。些細なことでも嫌な気分が起こります。それも大きくなったら怒りです。「世の中の事柄は条件が揃った所で成立するのであって、『オレの希望』は絶対に通じないのだ」と観察するのです。我(エゴ)という、すべての恐ろしい病気の原因である悪者を、諸悪の根源を取り除いた方がいいのではないか、と理性で確認することです。
たまさか自分の気持ちが通じることがあっても、自我(エゴ)だけは通じないと憶えておいてください。自分の気持ちを素直に伝えれば、通じる可能性はありますが、我を張ったら即アウトです。周りから潰されます。我は必ず壊れてしまいます。酷い目に遭います。気持ちを伝える時も、条件が揃わなければ、叶わないのです。相手に言った途端なんでもやってくれるという期待も自我ですよ。自分が我(エゴ)の塊であることに気づかない人々は、怒りに壊されてしまいます。「自分はエゴイストだから……」と堂々という人は、あまり問題を起こさないのです。そう宣言する人は怒りまでエスカレートしません。そう宣言するためには、自分の我に気づかないといけないのです。
堂々と「エゴイスト宣言」する人のほうが、ウジウジと我を張って怒っている人よりも精神的に優れています。謙虚ぶって後ろに控えながらも、悶々と自我の怒りに悩んでいる人はみじめです。質問された方も、怒りを抑えたい場合は、自分の我(エゴ)に気づく訓練をしてみて下さい。自我に気づくことで、怒りの制御ができるようになると思います。
ギャンブルと五戒
世間にはパチンコや競輪競馬、宝くじのような賭博(ギャンブル)があります。賭博で大金を手に入れることは「盗み」にはならないのでしょうか? 仏教の在家信者が守るべき「五戒」とりわけ不偸盗の戒に賭博が入っていないことに、何か理由があるのでしょうか?
賭けごとをして金を儲けたからといって盗み(偸盗)にはなりません。しかし、立派なお金は苦労して汗を流して働いて得た金のほうです。賭博で得るお金は、かっこわるいお金なのです。五戒に入っていなくても、より品格ある生き方をしたいと思ったら、控えるべきこと・止めるべきことはたくさんあります。その一つが賭博(ギャンブル)です。
仏教では、賭博はだらしない生き方と言っているだけです。賭博で生計をたてるのは情けないし、そんなものは職業にならない。といっても、賭博は人間の文化で、古くから続いている遊びです。だらしないからといって、文化的な要素を消そうというのは過激です。それでは仏教が反社会的宗教になってしまいます。だから悪口はいうが、断言禁止とは言わないのです。
賭博はお釈迦様の時代のインドでも盛んでした。釈尊の叔父さんの一人にも賭博好きで有名だった方がいます。彼も仏弟子になったが賭博はやめなかったのです。それを他の釈迦族からさんざん非難されたのです。彼は、賭博するだけでなく酒も飲んでいました(おそらく儀式の一環でやっていたのでしょう)。彼が亡くなったところで、お釈迦様は「彼は預流果に覚っていました」と何のことなく言ったのです。それには、周りが驚きました。しかし、亡くなった彼の仏法僧の三宝に対する信頼は揺るぎないものだったのです。
賭博はどんな国にもある文化です。本当はない方がありがたいが、そう簡単に消えないのです。賭博が戒律で禁止されたとしましょう。社会の大半の人々は、それほど賭博に興味を持たないのです。賭博に凝ってしまうのは一部の人間だけです。そうなると、「禁賭博戒」は一部の人間にのみ関係あるものになります。在家戒律は、国・民族・時代を問わず、すべての人間が守る努力をすべき基本的な道徳なのです。五戒にはその条件が揃っています。五戒を守ることで、人類が守るべき基本道徳を守っていることになるのです。さらに清らかな生き方をしたいと思うならば、より品格のある人間として生きていきたいと思うならば、賭博に凝ること、娯楽に依存することなどなども、五戒に足して実践した方がよいと思います。
不安や孤独との付き合い方
こころの不安や孤独感とうまく付き合う方法を教えて下さい。
それには、ステップ①とステップ②があります。ステップ①は、いつでも何かをする、いつでも忙しくすることです。毎日を忙しくして、不安を感じる隙がない状態にするのです。「いま忙しいから、明日から悩みますよ」というくらいに忙しく活発に生きてみることです。しかし、これでは問題解決したことにはなりませんね。
そこで、仏教ではステップ②を教えているのです。「こころをそのまま置いておいてはいけません。こころにこれまでなかった能力をいれてください」と。具体的には、怒らないようにすること、混乱しないようにすること、生命にもともと無かった慈しみの気持ちを育ててみること、などです。そうやって、忙しくするだけではなく、こころを成長させる訓練をすれば、こころの不安や苦しみが消えていくのです。
仏教が言っているのは、不安や孤独感との「付き合い方」ではないのです。不安などをなくすこと、解決することです。身体の苦痛はどうにもなりませんが、こころの苦しみは完璧に解決できます。慈悲の冥想をすること、ヴィパッサナー実践をすること、感情がむき出しにならないように制御する訓練をすること、などなど課題はたくさんあります。毎日の日課として、仕事して遊んで寝るだけではなくて、もう一つの課題として、こころを成長させることに取り組んでください。それで、こころの不安が消えます。
こころの汚れと思考
長老のご著書に、「思考によってこころが汚れる」ということが書かれていました。良いことを考えても、悪いことを考えても、こころは汚れてしまうのでしょうか? 私は一人暮らしなので、よく「一人は寂しいな」と思ってしまいます。そう思うたびにこころを汚しているのでしょうか? それとも自然な感情ということなのでしょうか?
仏教の教えはいつでも二重構造で考えて欲しいのです。①俗世間のレベル、②出世間のレベル、という二重構造です。仏道は、①人間(俗世間)のレベルで実践して、それから人間を超えた②出世間のレベルで実践しないといけないのです。「怒らない」という場合も、怒らないように頑張ることと、〈怒 れ な い〉人間になってみること、という二つのレベルがあります。〈怒 れ な い〉人は人間を超えているのです。仏道では、どんな道徳項目をとっても、この二重構造が見えるのです。
思考についても同じです。ヴィパッサナー実践をするならば、「まともな人間になることを目指して……」というだけでは、ちょっともったいないのです。それは別に冥想しなくてもできることですから。冥想するというならば、「解脱を目指す、人間を超えることを目指す」という目標をつくらないと。②出世間のレベルでは、冥想実践で「思考を無くす」のです。思考を無くしたら、もう人間を超えています。①俗世間のレベルでは、考えないと生きていられません。何もできなくなります。思考してルートを確認してきちんと料金を払わないと、バスにも乗れなくなるでしょう。人間という生きものは、思考することで生きているのです。思考をやめるということは人間を超えることです。
冥想にとりくむ時以外、私たちが俗世間で思考の管理をする場合は、怒り、憎しみ、嫉妬、落ち込みになりがちな思考、自我を張ることになりがち思考を抑えるのです。平和を求める思考、人々を心配する思考、慈しみの思考、人の成功を喜ぶ思考に入れ替えるのです。私は日常の些細なことでも、例えばバスが定時に来ただけでも楽しい気分になります。そういうふうに思考を入れ替えてほしい。私も一人暮らしですが、けっこう毎日が楽しいんです。一人でいれば、同居人に合わせることなく、どんな難しいことでも考えられますから。誰にも遠慮しなくていいのです。
思考するならば、怒りの思考、落ち込みの思考は微塵も起こしてはいけません。フードプロセッサーで腐った生ゴミ(煩悩)をかき回すのではなく、自分の思考の世界でも、世界一美しい花園を作ってみてはいかがでしょうか? そうやって思考をコントロールしてください。自分の思考の世界を、落ち葉が積もってもそれがまた絵になるというような、美しい庭園にするのです。頭に浮かぶ「あいつにやられた」という思考さえも、形の変わった石を日本庭園に置くように、調和をもって美しく飾ってください。思考を止めることに挑戦するのは冥想する時です。日常では、思考の世界を誰もが魅了されるような庭園にしてみせるぞ、と心がけてください。