あなたとの対話(Q&A)

競争社会を乗り越えるブッダの智慧

パティパダー2013年3月号(187)

これまで、競争こそが人間を成長させる道だと思っていました。先生の著作に、人間社会が、人類が共存から競争へと変わった途端に人間破滅の幕が開いてしまった、ということが書いてありました。仏教はその破滅を一日でも先送りするために頑張っている、とも。お釈迦様は人類の行き先をどう語っているのでしょうか? 自分は競争、競争という生き方を変えていきたいと考えています。

なぜ幸福になれないのか?
 お釈迦様の過去生=ジャータカ物語を読むと、お釈迦様がずっと人間社会を心配していたと読み取れます。釈尊が悟る前の認識は、「生きることは苦しいことで大変である。しかし苦しみを忘れて、悩みを押さえて、幸福になろうとしている。誰もそうなっていないのではないか?」というものでした。これはお釈迦様を含めた誰もが、という意味です。人々は、幸福になろうとして幸福になれない。ちっぽけな幸福のために多大な苦労をしないといけないのです。

■生は苦
 生きるとは、どう頑張ってもあらゆる現象が生まれてくることです。生まれる、ということ自体がトラブルです。子供が生まれたら、楽しみはわずかです。大変な苦しみが、責任が待ち構えています。誰でも人間なら、子供はかわいいし、見たらニコッと笑ってしまうけれど、親が子供に抱いている責任感はどれほど大変か。子供のためにどれほど悩んでいるか、苦しんでいるか、失望して落ち込むか。それでも親は頑張り続ける。自分に暗示をかけながら、踏ん張って頑張っている。それでも大変です。

 生きていると、あらゆる現象が起こります。子供が生まれたとか、結婚したとか、それで幸福だという現象があるけれど、結婚にたどり着いて幸せだ、おめでとうございます、というのは本当ですか? 結婚した途端、大変な苦労が待ち構えている。これから楽です、という世界は生まれません。政治家の方が、地方議員になって、国会議員になって、総理大臣という最高の地位に達したとします。楽なはずでしょう? 日本人一幸福でしょう? 人間のトップの地位に就いたことを喜ぶべきでしょう? 違いますね。そこから地獄が待っています。釈尊は分かりやすく「生まれることは苦である。生は苦である」と説かれました。津波に見舞われるのも生(しょう)、生まれることの一環です。生まれたら死ぬまで生きていかないといけない。逃げられない。子供を世界一幸せにしたいと思うのは、その子の親だけです。生まれた生命が幸福になるためには、自分で頑張らないといけないのです。

■老・病・死は苦
 それから、老いること。結婚は楽しいんだけど、その気持ちは日々、老いていく。これはどうにもならないことです。私たちは日々、老いていく。だから将来は怖い。明るい未来というのはとんでもない嘘です。誰にも明るい未来が待ち構えているわけではないんです。日々、老いて、老いて、苦しみが増えていくんです。老いることは苦である。老は苦である。これは、どうしようもない真理です。

 次に、病気になること。病院にかかるような病気にならずに80歳まで生きることはできる。しかし、病気からは逃げられません。仏教の定義では、身体そのものが病によって成り立つんです。生きるということは、壊れていく身体を修復すること。病が生きること。病こそが生きることなんです。みな観察能力がないから、医者のところに行く時だけ病気だという。本当はいつでも調子が悪い。それを修復している。呼吸も病気なんです。呼吸は修復作業です。やめたら、たちまち死にます。ご飯を食べること、用をたすことも、やめたら死にます。世間は観察能力が乏しいから、おいしいご飯を食べて生きていて良かったと言うでしょう。私は怖気がたちます。なんと無知な人々でしょうか。何か食っただけで、「日本人に生まれてよかった」と、そこまで感動するほど苦労したのでしょうか。人生でろくなものを食べてきていないから、あの感動があるのです。

 我々は、生きることは苦しみだから、それを誤魔化すんです。家族団らんは幸せだとか、化粧して身体を作品に仕立てて、世間をだましたら幸せだとか、心のなかで誤魔化ししているんです。化粧に騙される男も馬鹿で、騙している女もバカで、お互い誤魔化しあっている。それで誤魔化しあいで、ああ幸せだというのは、本当の幸せですかね。そういうことに人間は必死なんです。10階建てのデパートがあったら、8階までは女性服。そこまで誤魔化している。騙し騙されです。なぜか? そこまでしないと人生は生きていられないんです。そのくらい大変なことなんです。騙しがないとどうにもならない。音楽がなければ、映画・ドラマがなければ、現代ではゲームがなければ、生きられませんよ。苦しいんです。ですから、ゲームをやる人は自分を騙しているんです、「ああ楽しい」と。病イコール命です、病とは生きることなんです。血液がさらさら流れないと死んでしまう。流れるためにはあれこれしないと。命は病で成り立っているやばい代物です。ちょっと油断すると死んでしまいます。

 しかし、いくら細心の注意をはらっても、必ず死ぬのです。死なない人はいません。

■生老病死を解脱する
 釈尊は、この「生・老・病・死」に人生を見事にまとめてみたんです。そこで、あわれみという、心配の気持ちが生まれたんですね。これは「汝らを憐れむぞ」という偉そうな気持ちではない。そうではなく、「生きとし生けるもの」が苦しんでいるんだと。「生きとし生けるもの」には、お釈迦様自身も入っています。汝ではなく、生きとし生けるものを心配する。そこで生老病死をどうするか? 釈尊は、家を捨てて出家して、八正道を発見して覚ったんです。生老病死を解脱したんです。それから、解脱に達する方法を誰にも隠すことなく教えてあげたんです。これは一般的な思考とはかなり違う立場。ただ慈しみがあるだけで、主語はないんです。心配する。それだけ。主語はないんです。「我は」はない。これはけっこう理解が難しいと思います。

■認識プロセスの問題
 それからお釈迦様は原因を探すんですよ。なぜ命が病になったのか。なぜ生まれること自体が怖いものになったのかと。それは、認識する過程で問題があるんです。認識する過程、プロセスに何か問題がある。われわれは騙し騙されの世界を喜んでいます。本当ならばデパートに行ったら腹をたてて出ていくべきでしょう。歌の世界というのも嘘ばかり。十五、六歳の女の子たちが偉そうに恋の歌、別れの歌を歌ってもいい加減にしろと。まだ男の子の友達もいないでしょうに。あれも訓練させて、だましの世界のプロになる。それで人々は喜んで騙される。そういうことを見ても、我々の認識過程には何か問題があるんです。つねに騙し、現実を誤魔化ししているということが発見できるのです。

■執着を捨てれば問題は消える
 そこで、生きることへの執着を捨てたところで、問題が消える。病気になって慌てるのも、執着があるから。子供が死んでものすごく悲しいのも、執着なんです。私の子供ではなく、人間である。生まれたものは必ず死にますよ、と思っちゃえばその執着は綺麗に消えます。金が無くなったらすごい苦しいでしょう。それも執着です。執着さえなければ、ものすごく穏やかな心でいられます。それは目の前で経験できます。死後も、この恐ろしい「存在」というものを作らないんです。

■心の汚れ
 心のトラブルについて、釈尊は様々な例を出して語っています。心のトラブルを惹き起こすものは煩悩という。原文は「汚れ(kilesa)」、心の汚れという意味です。心の汚れをリストアップして、これこれを捨てなさいと。それだけだと。リストはその都度いろいろ挙げられますけど、すべてまとめると貪・瞋・痴の三つなんです。生命は騙しの世界にいるんだから、真理の世界に生活していない。嘘の世界、幻覚の世界に生きている。心の汚れの一つは、「自我」ですね。「我はいる」という考え。これは幻覚なんです。あなたが「我」という場合は何を指していますかと。大雑把で中途半端で明確な定義もなく、「私は」「我は」という単語を使っているんです。しかし、単語が生まれたということは何かを指しているはずです。それは何かと調べなさいよと。すると、それは幻覚だったと発見する。それだけで煩悩が終わります。

■「我」は詐欺師のマインドコントロール
 解脱に達する方法はいろいろありますが、ひとつは、「我とは何か?」と調べてみることです。すると我とは成り立たない、大雑把で非論理的に使われてきた単語に過ぎないと分かるんです。「我」とは、ただの一般人が作った単語です。それにおかしいのは、知識人たちが「これこそが我である」と大まじめに論じることです。知識人の幻覚は、皆さん一般人の幻覚よりも、とんでもない幻覚なんです。私の魂は、私の霊魂は、とか言い出すと、もう治らない幻覚になります。詐欺師のマインドコントロールです。詐欺師が、自分の商売のためにつくったマインドコントロール以外の何ものでもない。権力欲、支配欲など病気の心で作られた宗教の世界になるのです。

■他の生命なしに生きられない
 そこで、競争について話します。健康になりたい、と思うのは健康でない人々です。痩せたいと思うのは痩せていない人です。生きていきたいと思うならば、生きるとはどうやって成り立っているのか、それを無視したら結果を得られません。痩せたい人は、なぜ体重が増えるのかと調べないとダメでしょう。それはどうでもいい、私は痩せたいだけ、と思ったら痩せるわけがない。同じく生きていきたいと思うならば、どうやって私は生きているのかと調べなくてはいけない。それを調べていないのです。

 そこで、答えは、「他の生命がいなければ、自分は生きていられない」です。たちまち死にます。砂漠では生きていられませんよ。他の生命がいて、生きているんです。この身体のなかで、細胞の数よりもはるかに、数えられないくらいの他の生命が生きているんです。これらの生命の排泄物で、自分の身体が成り立っていますよ。腸内細菌の排泄物をビタミンだのなんだの言って、元気に生きている。皮膚がこれだけ厳しい環境でも元気なのは、皮膚の上にたくさん菌が生きているから。なのに日本社会はいつでも抗菌抗菌。それで金をはらって身体にあれこれ塗りたくっている。自然の中で生きている人々は年取っても身体がつやつやしてますよ。抗菌人生ではないんだから。

■残酷なエゴイスト
 私たちは、他の生命がいないと生きていられないということを知らないんです。他の生命に対して、一欠片も親切ではない。ある日、子供を連れて品川水族館に行きました。中学生がたくさんいてうるさかったんです。水族館は生命の生き方を学ぶところでしょうに。それなのに彼らは、カニを見ても「これが美味しいんだ」と騒いでいる。同じ生命だという気持ちがまったくない。彼らの心は獣とおなじです。しかし、獣は腹が減った時に食べるだけです。空腹でないライオンの前をガゼルが通っても、相手にしません。獣だってそうなのに、水族館に遊びに行って、生命が食い物にしか見えないというのはどういうことでしょうか?

 我々はエゴイストになって、他の生命に残酷な態度を取っています。他の生命に残酷な態度を取ると、自分は生きていられないんです。ただでさえ生きることは苦しいのに、エゴイストで残酷な生き方をする人は、恐ろしい生き方をその上に味わってしまうんです。ですからお釈迦様は、穏やかで、安全で、気持ちよく、明るく生きたければ、生命に対して慈しみを育てなさいよと、慈しみを教えるんです。それが法則です。他の生命がいないとあなたは生きていられないでしょうと他の生命に慈しみを感じなさい。それでたちまちあなたは安らぎを感じますよ、生きる歓びを感じますよ、と教えるのです。

■競争の問題は根が深い
 競争というのは、根が深い問題です。「日本の社会は競争社会だ」なんていっても、問題はもっと根深いんです。たとえば水の中で生きている生命というのは、あらゆる他の生命に食われますね。他の魚、鳥、いちばん恐ろしいのは人間ですね。大量に捕る。みなさまがたは、例えば、鯛(たい)という魚を食べたくなる。鯛一匹が、「どうぞ私を食べてください」と出てきますか? 生命は食べられたくないんです。そこで競争が始まるんです。人間はあれこれ工夫して、魚を取ろうとする。競争に負けた時点で、魚は命までなくなってしまう。我々が生きているということは、強者であること、残酷な生き方をしているということなのです。

 人間はあらゆる生命のなかでもっとも凶暴です。自分が生きていたいがために地球まで破壊するんです。競争というのは根深い、根本的な問題です。森に入って、熊(くま)に出会ったら、そこで競争が始まります。お互い怖いんだから。熊は人間を見ると恐ろしくて、いてもたってもいられなくなる。自分のいのちをまもるために攻撃しないといけない。どちらが勝つかというと強者が勝ちます。人間が手ぶらだったら熊が勝つ。猟銃でももっていたら、熊が死にます。そうやって他の動物との競争に勝って、他の動物を殺して、我々人間は、人間の社会を作ってきた。一人ひとりが、自分が生きていたいために社会を作る。自分が生きていきたいためにあらゆるシステムを作る。

 人間には教育というものがあります。教育のなかで、我が生きていくために、あんたはどうでもいいや、という気持ちでやっているから、競争が出てきます。ただ必要なことを学べばいいのに、敵と味方に分かれて競争するんです。それで、教育はとことん苦しい世界になっているのです。

 また、現代は経済中心の社会になっていますが、商品の交換が経済で、別に大したことはありません。経済学という大げさな学問にするほどのものではない。しかしこれが、我々に耐え難い競争になっているのです。

■競争の原理で幸福になれない
 結果として、他の生命を攻撃すると自分には生きていけない状況になる。私たちは、幸福に生きたい、楽しく生きていきたいと思うんだけど、方法を知らないんです。競争すると幸福になるのかと。なれません。この間、また政権交代がありましたが、民主党が政権を取ってすぐに、自民党が徹底攻撃をはじめて仕事をさせなかった。それで良い国ができますかね? 国民のためになりませんよ。この世の中で何ひとつもうまくい行っていないんです。あらゆる組織が無数にありますけど、すべて競争という原理に変わってしまう。なぜ人類が破滅に向かってまっしぐらで走っているか。これ、競争のためでしょう。一つの国が経済的に豊かになると、他の国がガタガタに壊れてしまう。中国が世界一の経済大国になったら、どうなるかわからない。これまではアメリカが世界一の経済大国で、世界中に迷惑をかけまくってきましたが……。

 ひとが経済的に豊かになるのはいっこうにかまわないが、競争の原理で成り立っているから、大勢の人々を不幸に落としているんです。100人を踏みつけて、自分が美味しいご馳走を贅沢に食べている。それに万々歳、素晴らしいことというべきでしょうか?

■共存すること、まず与えること
 そこでお釈迦様は、「人の道は競争ではないのだ」と説くのです。「生きていきたければ、共存だよ」と説くのです。生かして生きる。生命を生かしてあげると、生命も自分を生かしてくれます。レストランでも、先に自分が客に、喜び・充実感・安らぎを与えるならば、自動的に繁盛するんです。これが実行が難しくなっているのは、人類が全体的に競争になっていて、それが根深い問題だから。鶏を食いたいけど、鶏は食われるために生まれていない。だから鶏の自由を奪って、身体を動かせないようにして、機械で餌をあげて、そこにいろんな成長ホルモンなどを入れて、毒にして、殺して、皆さんに売っているんです。自分さえよければいい、という恐ろしい世界が広がっているのです。
共存の精神で、慈しみで生きていると、まるっきり想像できない社会が成り立つんです。私はgive & take という言葉を少し変えて、give & receive と言っているんです。先にgiveなんです。先に何か与えなさいと。赤ちゃんだって、先にお母さんを見て笑うんです。それで母親は喜んでおっぱいをあげる。赤ちゃんがまるっきり笑わないで恐ろしく泣き叫ぶだけだと、親も育児ストレスが溜まって子供を捨ててしまいますよ。赤ちゃんが先にニコッと笑うと、問題が起きない。児童虐待をしてしまうお母さんも、やりたくてやっているわけではない。どうにもならなくてやっているのです。(赤ちゃんもお母さんも)どちらもエゴイストですからね。

 ブッダの教えが世界に広がればまったく問題ないんですけど、世界に広まっているのはイスラム教の教えですから……。キリスト教ならまだ「汝の隣人を愛しなさい」くらいの教えはありますけど、彼らには、それすら見当たらない。それでも広まっているのは、貪瞋痴で成り立っている私たちの心に合っているからなんです。

■個人で実践する教え
 ブッダが教える正しい教えは個人で実践しないといけない。「競争の世界で、私は競争なしに穏やかに生きる」ということふうに。怒りに狂っているこの世の中で、私は怒りなく生きます。憎しみ争いの世の中で、私は憎しみ争いなく生きていきます。競争の世の中で、私は共存の気持ちで穏やかに生きています。破滅を一日でも先延ばしにしようと頑張っても、どうにもなりません。存在というのは維持しようとしても壊れるものです。人類がいくら頑張って生きていても、自然の条件が変われば、人類など地球から消えてしまいます。

 しかし我々は、頑張れば目の前で破壊が起こることは先延ばしにできます。とはいえ、これは個人で実行するしかないんです。人類に向かって、「怒るなよ、競争するなよ、共存の理論で生きてみましょう」と訴えても、誰も聴いてくれません。世直し主義では、正義の味方では、何のよい結果も得られません。一人ひとりが自分の心のなかの問題を解決することが、人類の問題に対する答えなのです。「自分は怒りに狂った世の中で怒らないようにしますよ」と実践すれば、周りの人々もそれを学ぶのです。

 夫婦関係でも、自分がしてもらうことばかり考えてはいけないのです。それで関係がハチャメチャになる。結婚したら、自分が相手に何をしてあげればいいのかと考えれば、仲良く一緒に歳をとれます。「自分がまず何を与えるのか?」という生き方をすることで、幸福に生きられるのです。