「与えて・頂く」生き方/「今の瞬間を生きる」の意味/動物実験と製薬業
パティパダー2013年5月号(188)
「与えて・頂く」生き方
執着して、それを引きずります。なぜかと考えてみると、「損得の感情」が根っこにあるように思いました。日常生活をしながら、この考え方を切り替えていく方法をアドバイスしていただきたいのです。
損得の思考は正しくないのです。世界は、give and take で成り立っています。それも微妙です。Give and take ではなく、give & recieve なのです。「与えて・頂く」のです。自分が他人に対して先に何を与えるべきか、何が他人の役に立つのかと先に考えて行動して欲しいのです。
「得る・得をする」思考は汚れているのです。得だけ考えて行動するときは、自分に相応しい得をしないのです。
俗世間の人々は「奪う」ことのみを考えています。奪うだけでは人生は成り立たないので、渋々与えることもします。しかし、一をあげて一万、派手に悩む羽目になるのです。
人は「与えること」を中心にして生きることです。それで、こころは安らぎます。不安・不満がなくなります。充実感を憶えます。「充分、ありすぎ」だと言えるほど得をします。「幸福は与えることにあり」です。
「今の瞬間を生きる」の意味
協会のサイトの中の講演で「今の瞬間を生きるのが人生」とのお話でした。私は肝臓の病気ですが、インターフェロンの治療をするかどうか考えているところです。治療を始めると1年かかります。瞬間瞬間だけ生きるのであれば、治療を1年も受けるようなことは必要ないのかなと感じました。仏教の考え方としてはどうすべきか教えてください。
「瞬間瞬間だけ生きるのであれば、治療を1年も受けるようなことは必要ないのかなと感じました。」というのは、意味が不明な文章です。瞬間瞬間生きるとは、そのままで、落ち込んで生活するという意味だと受け取っているようです。
ポイント①:
質問された方は、瞬間瞬間生きることを行っているのでしょうか? 実行するつもりは全くなく、只、ケチをつけてみようと想っていらっしゃるのでしょうか?また、文章を読んだだけで、「その道のプロ」になっている気分でしょうか?
注:文面から推測すると、質問者は、瞬間、瞬間生きるという法則を実行しないで、ただ、「こうなったらこうなるだろう」と妄想しているに違いありません。
ポイント②:
「瞬間、瞬間の生き方」を実践している場合、その人の状態は次のようになります。
注:瞬間、瞬間生きるとは、真理を理解した人の理性的な生き方です。真理を発見することに挑戦する方々のためにも、ガイドラインになるようにと、その生き方を教えてあげます。しかし、実践して瞬間、瞬間生きる能力を身につけなくてはならないのです。(例:医学の本をたくさん読んだからといって医者にはならないでしょう)
我々の脳は、怯えるように、過去・将来に不安で悩むようにプログラムされています。脳のその基礎プログラムを書き換えなくてはいけません。プログラムの書き換えを実践し始めると、脳が別な生き方を発見します。それは、悩むことなく、元気で、明るく、何事にもめげず、その日その日で、その瞬間その瞬間やるべきことをやる、後腐れのない生き方なのです。
その場合は、「一年もかかる治療は止めるべきでしょう」という妄想はしません。一年かかる治療なんかは存在しないのです。治療はその日その日の出来事です。医者は、治療に必要な薬量を一日投入できる量で割ってみてかかる日にちの答えを出しただけです。
全て、「今日、一日生きていれば」という話でしょう。どれほど高度な、尊い、大事な、必要不可欠な計画があったとしても、「死んだ瞬間」で全て終わりでしょう。
「瞬間瞬間に生きる」という教えは、明日のことでくよくよ悩んだり、心配したりする執着漬けの暗い生き方を変える目的で教えているのです。質問された方は、その目的と正反対の「将来のことで悩むため」に使っているのです。思考が逆さまです。
ブッダは、「毒蛇の尻尾を掴んで捕る」という例えを使います。蛇使いが毒蛇を捕まえて商売するはずのところで、ヘビに噛まれて死んでしまったという結果になるのです。
ブッダの智慧に対して、あれこれと妄想する前に、専門の医者と相談してみるのは普通です。治療のプラスとマイナスを計算してプラスのほうがより多いと分かったら、治療を受けてみることです。治ったら治ったので宜しいし、治らなかったとしても、それはそれで宜しいのです。
動物実験と製薬業
私は製薬会社に勤めようと思うのですが、一つ気になる点があります。それは薬を生み出すためにラットを用いて実験をすることです。人のためとはいえ、意図的に動物を病気にしたり、殺したりしていいものでしょうか。薬によって人の苦しみを減らすことは魅力的なのですが、ラットを犠牲にして、後で悪い結果が起きたりしないでしょうか。
一概に返事出来ない質問です。角度を変えながらお答えいたします。
◎純粋なブッダの立場
殺生はいけない。悪い。悪行為です。理由があります。殺生とは、自分の利益のみを考えて、自分の命を守るために犯すものだからです。「私が生きるためには貴方が死ぬべきです」というような理屈でしょう。貪瞋痴の衝動によって犯す行為なので、殺生を認めると、一向にこころが貪瞋痴から自由になりません。要するに、解脱【ルビ:げだつ】は出来なくなります。
殺し合いをするよりは助け合うほうが、生命にとってより都合が良いのです。仏教では解脱を絶対的善として説くので、殺生は決して認めることはできません。以上です。
●俗世間の反論①
「生きるためには殺生は避けられません。殺生禁止とは、「死ね」という意味になりませんか?」
◎仏教の答え
生物学の立場から考えると、他の生命を摂らないと生きられません。有機物を摂取しなくてはならないのです。それは事実かも知れませんが、「私を殺して食べてよ」と思って現れる命はありません。食物連鎖という言葉がありますが、それはこの世で起きている現象をそのまま理論化しているだけで、倫理学的な判断だと思うのは、正しい受け取り方ではありません。
世間のこの考えを正当化するためには、「私に生きる権利があります。貴方にはない。貴方が死んで私の栄養にならなくてはいけません。貴方が生まれた目的はそれだけです」と証明しなくてはいけません。これは、無理でしょう。
人間は最高位の生命体だと昔から勘違いする傾向がありました。「考えることが出来るし、神様の創造物であり、霊魂・魂がある存在であり、生きることが尊いものであるから」云々などの訳も分からない理由を言います。もし人間に特別な生きる目的・義務・理由があると、客観的に立証できれば、そのような目的がない生命体を殺してもよいでしょう。(これも立証は無理です)しかし、「生きる目的とは何なのでしょうか」と悩んでいるのは人間でしょう。自分自身でも生きる目的が分かってないくせに、「生きるために殺生は正しい」と思うのはいかがなものでしょうか?
●俗世間の反論②
生命を助けることは良いことです。漁師たちは私たちの命を支えているのです。殺生は悪だと言われても、それならこれは「必要悪」になります。薬を開発する時に行う動物実験もこのカテゴリーに入ります。
◎仏教の答え
「必要悪」というのは便利なフレーズです。それで、自己満足になります。戦争の時も同じ理論を使うのです。「必要」と「悪」は合体できない単語です。「栄養になる猛毒」というような単語です。悪だけれど必要だから犯すので、「必要」という言葉が優先です。行うべきということです。行うべきものは善です。ですから、必要悪だと言っておこなう行為は結局、善行為だとしないといけません。
◎製薬の問題
必ず動物実験を行うべきだとするのは西洋の思考です。その思考は、人間のみが魂を吹き込まれた生命であるという文化背景から生まれたものです。ほとんどの漢方薬、インドのアーユルヴェーダ薬の全ては植物由来で、動物実験して発見されたものではありません。時間はかかりますが、漢方とアーユルヴェーダ薬は副作用も起こすことなく、人を治すのです。
どちらが良いという問題ではなく、ただ、「動物実験は欠かせない」という理論は成り立たないだけです。苦しんでいる生命・人間を助けるのは言うまでもなく、善行為です。一人を助けるために、生命を何体殺すのか、というのは問題です。多数決理論で決めなくてはいけないようです。ラット百匹を実験に使用したが、できあがった薬で、百とは比較にならないほど多数の人間や、場合によっては病気の動物も助かっているのだと言える場合は、多数決で勝ちになるでしょう。
この問題はそのように考えた方が良いのです。ラットを虐めることも、あえて病気にさせることも、それから処分することも、残酷な悪行為です。しかし、その結果、沢山の生命が助かっています。ですから、悪の量と善の量を考えると善の量が多い、といったような理屈です。(しかし、どうやって、悪と善をはかるのでしょうか?)
仏教は「意志」を大事にします。金儲けのみを目指して行っている現代製薬業の場合は、もともと意志が汚いでしょう。従って、悪は重すぎです。しかし、人々を助けたい、苦しみをなくしてあげたい、金儲けは目的ではない、という意志であるならば、意志は美しいのです。悪の重さは軽減されます。
生命を虐めて問題にならないのかという考えもありました。問題になります。病人を助ける純粋な気持ちで製薬業に励んでも、結局は悪を犯しているのです。悪人だとレッテルは貼れないが、それなりの苦労を受けることになるかも知れません。(意見を述べるのは私の管轄ではありません)
さらに、薬の副作用はいかがなものでしょうか?病気を治しているのか、半殺しにしているのかよく分からないでしょう。薬の使用法でも少々間違ったらどうなることでしょうか?
結局は、薬という名目で毒を注入していることでしょう。「毒は毒で制する」ことですね。人は必ず病に罹る。治療しなくてはいけません。それで、適した毒を服用しなくてはいけません。只、それだけですね。
それから、大問題があります。日々進んでいる医学と薬が、人の病気を治したことはありますか。一時的に治るだけでしょう。完治できる病も沢山ありますが、最終的に皆、病に陥って死ぬのです。現代医学には「命の法則」をいじることはできません。以上です。
◎実践的なアドバイス
生きること自体が、はじめから矛盾なのです。製薬業に限ったものではありません。「なんとしてでも生きていきたい、死にたくはない」という衝動がある限り、この矛盾を取り除くことは出来ません。
我々は、生きている間は出来るだけ他の人々も、他の生命も助ける。悪を犯さすに生きていられないので、悪を減らすことにします。ぎりぎりまで、悪を犯さないようにします。それでも悪に染まっているので、徹底的に慈しみの気持ちを抱きます。いつかは、悪を根絶した境地である、解脱を経験することを目的にして生きてみます。これしか、具体的に行える方法はありません。
余計な理論・妄想は悩みの親なのです。度を超して妄想すると、どんな職業も悪になってしまいます。世は純善、純悪ではないのです。ごちゃ混ぜです。ですから、善の割合が悪より遙かに多い、と言えるように生きることです。