No.48(『ヴィパッサナー通信』2003年12号)
香り盗人の話
Bhisapuppha jātaka(No.392)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある比丘について語られたものです。
その比丘は、ジェータ林を離れて、コーサラ国の、とある森の近くに住んでおり、ある日のこと、蓮池に降りて行って、花の咲いた蓮花を見つけ、風下に立って香りを嗅いでいたということです。
そのとき、その森に住んでいる女神が、「尊者よ、あなたは香り泥棒ではないでしょうか?実にあなたの行為は偸盗罪にあたります」と言って、彼を恐れさせました。これを聞いた彼は、大変に怯えて、ふたたびジェータ林に帰ってきて、お釈迦さまに礼拝して坐りました。お釈迦さまに、「比丘よ、お前はどこに行っていたのか?」と尋ねられ、彼は、「これこれの森に住んでおりました。そこで女神が、このように言って、わたしを恐れさせました」と答えました。そこでお釈迦さまは、「比丘よ、花の香りを嗅いで、女神におびやかされたのはお前ばかりではない。昔の賢者も、かつて恐怖させられたことがある」と言って、比丘に請われて、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、カーシ国の町のあるバラモンの家に生まれました。彼は成長すると、タッカシラーの町で学問を学び、その後仙人の道に出家して、ある蓮池の近くに住んでいました。ある日のこと池へ降りて行き、満開の蓮の花を見て、その香りを嗅ぎながらたたずんでいました。そのとき一人の女神が木の幹の穴から現れて、彼を恐れさせて、第一の詩句を唱えました。
水中に生まれた一輪の蓮の花
貰いもせずにあなたは嗅ぐ
それは偸盗罪の一種といえる
君は香り盗人なのである
そこで菩薩は、第二の詩句を唱えました。
取ることもなく折ることもなく
ただ離れて花を嗅ぐのみである
何故にして私は
香り盗人と呼ばわれるのか
ちょうどそのとき、一人の男が、その池で蓮根を掘り出して、蓮花を傷つけていました。菩薩はそれを見て、「離れて立って香りを嗅ぐ者を、あなたは盗人と呼ぶのなら、どうしてあの男をそのように言わないのですか」と女神に語りかけながら、第三の詩句を唱えました。
この人は蓮根を掘る
蓮花を切り散らす
このように散々に痛めつける
何故この人には言わないのか
そこで神は、その男にはそう言わぬ理由を説明して、第四、第五の詩句を唱えました。
残酷な行為が多い人は
子守りの前掛けの様に汚れている
彼に言うことはない
しかし自己を戒める人には言う
煩悩から離れて
常に清浄を求める人には
毛端ほどの罪さえも
雲のように大きく見える
女神の意外な言葉に気付かされ、菩薩は感動して第六の詩句を唱えました。
実に神霊よ 君は私を知っている
さらに私を隣れんでいる
神霊よ 私の他の過ちを見出したならば
ふたたび私に告げたまえ
そこで女神は、彼にたいして第七の詩句を唱えました。
貴方と同居しているのではない
貴方に養われているのでもない
比丘よ 如何にして天界に行けるかは
自分自身で知りなさい
女神はこのように彼を諭して、自分の住所に入って行きました。菩薩も禅定に入り、梵天の世界に生まれるべき身となりました。
お釈迦さまは、この話をされて真理を明らかにされ、過去を現在にあてはめられました。(真理の説法が終わったとき、その比丘は、預流果の悟りに達しました)「そのときの女神はウッパラヴァンナーであった。修行者は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓…香り盗人
偸盗罪といえば、銀行強盗のようにスケールが大きい行為のことを思ってしまいます。最小のスケールの偸盗罪は、もしかすると万引きくらいでしょうか。どちらにしても、それは他人のものを強引に自分のものにしようとする犯罪行為です。偸盗の仏教の定義は、「与えられていない他人のものを盗ること」です。その品物を置いている場所から移動させた瞬間に、偸盗の罪は完成します。
俗世間の法律では盗まれるものの価値によって罪の重さを計ります。仏教は人の行為は法律的に合法か違法かということよりも、心が汚れるか清らかになるかということに基づいて、善か悪かを判断するのです。ですから、世俗的には何の価値も見出せないものを盗ったことによっても、自分の心が汚れたらそれは偸盗罪なのです。
仏教における偸盗罪の論理的な説明を理解した方が、自分自身の行為を正すために役に立つと思います。私たちには眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの器官があります。心というのは、その器官の働きなのです。この六つに色・声・香・味・触・法という情報が触れると、認識が生まれるのです。汚れた認識が生まれたら、悪を犯したことになるし、清らかな認識が生まれたら、善行為をしたことになるのです。それから善因善果、悪因悪果という自業自得の法則が成り立つのです。「盗む」と言えば、一般的には金を盗む、店の商品を盗むなど具体的な事を考えます。しかし仏教の業論の場合は、具体的な盗品を見て犯した罪の重さを計るのではないのです。論理的に考えなくてはならないのです。
たとえば、ある人が店から香水を盗んだとします。その人の心は鼻という身体器官を使って嗅ぐ香りを盗んでいるのです。身体で触ることのできる物体をも盗んでいます。その盗品の価値によってその人の心の中で、儲かった、得をしたという欲も生まれます。もしその品物は美しいものであれば、見て楽しむことも出来ます。そこでその人は、単に品物としての香水を盗んだのではなく、眼・鼻・身・意を汚す行為をしたのです。外から四つのものを盗っているのです。その四つでどれほど自分の心が汚れたかということによって、悪業の重さが決まるのです。
では、別の人が金を払って同じ品物を買ったとします。その人も単なる品物を得たのではなく、見て美しいもの、良い香り、身体で触れられるもの、良いものを手に入れた心の喜びという四つのものを得ているのです。この人も欲を出してそれを使うと心が汚れますが、人間として正当な楽しみを得ているのだから、悪業・罪を犯したとは言わないのです。悟りをひらいていない凡夫の、普通の煩悩に汚れた生き方なのです。社会的に不正な行為ではなく、正当な行為で楽しむ人の心の汚れは、悟りをひらかない限りは誰にも避けられないものです。
盗んだ人は、自分の喜びのために、他人に対する何の躊躇も遠慮もなく強引に品物を手に入れたのです。そこに、盗むという意欲が働いたのです。この悪意に基づいた身体の行為は、偸盗罪なのです。盗品を喜ぶその人の心は、二重に汚れるのです。論理的にいえば、盗むということは眼・耳・鼻・舌・身に触れる、色・声・香・味・触を盗ることです。女神は真理に基づいて、論理的に修行者を戒めたのです。