六道輪廻の生命はなぜ見えないの?/見解から起こる怒りへの対処法/布施功徳の分けあいと随喜
パティパダー2013年11月号(194)
六道輪廻の生命はなぜ見えないの?
六道輪廻では、どうして人間は畜生道の畜生が見えるが、ほかの天道(天上・天界)、修羅道、餓鬼道、地獄道のものを見ることができないでしょうか?
生命に付く認識能力は、ただその命を繋げるだけに限られています。それぞれの種によっても、認識能力が変わります。烏に知ることのできる世界と、猫に知ることのできる世界は違います。人間が生きている世界と、猫が生きている世界も違います。私たちに猫は見えますが、猫が何を考えて、どのように見て、聴いて、どのような気持ちで生活しているのか、という、その世界を知ることは不可能です。畜生の生命は我々と同じ三次元の世界に生きているので、肉体は見えます。それだけです。それぞれの畜生の生命が生きる世界を知ることはできません。
犬・猫・馬など、長いあいだ人間と一緒に生活してきた生命の場合は、微妙に気持ちだけ理解することはできますが、それも正確とは言い切れません。ですから、輪廻六道の場合、畜生は見えますと言っても、ただ肉体が見えているだけです。顕微鏡があれば微生物も見えます。しかし、その生命体が生きる世界は認識できません。
これは輪廻の定めです。自分の命を繋ぐために必要な能力しか現れないのです。何でもかんでも無制限に見えたり聴こえたりすると、生きることはできなくなります。能力に制限が付くのは、「存在欲(渇愛)」のせいです。存在欲はとても格好悪い酷いものです。人間は何の躊躇も無く魚を獲って食べています。殺生しているという気持ちさえも起きません。魚が死の恐怖感で怯えることは感じません。それは人間の都合です。ライオンが獲物を獲る時でも、同じ気持ちです。存在欲に依って知る世界に、制限が掛かります。だから生命は皆、我儘でエゴイストなのです。
人間には他の人間の世界を知ることはできます。他人の気持ちや、悩み苦しみを感じることもできます。度を越したエゴイストはその能力を使いません。自分の事ばかり気にして、自分の利益だけを狙って、罪悪感に悩むことも無く生きようとします。しかし、他人の気持ちに配慮してみる人々もいるでしょう。当然それは善い事ですが、その人々には、楽に生きることができなくなるでしょう。
もし人間に餓鬼道の生命も見えたならば、その恐ろしさに気が動転して頭が狂ってしまうのです。もしかすると心臓発作を起こして死ぬ可能性もあるのです。天界の天人を認識しようとしても、認識能力が余りにも弱くて、アクセスできないのです。いくら教えても、猫に足し算はできないのと同じです。
しかし、お釈迦様が教えているとおりに、慈しみを育てたり、集中力を育てたりして、自分の認識範囲を拡大することはできます。その場合は、修行者の能力に応じた範囲の生命体を見ること聴くことができるようになります。
人間に畜生以外が見えないのは、存在欲によって制限されているからです。人間としての命を繋ぐために必要でない能力だからです。地獄・餓鬼道・天界・梵天などの生命が見えても見えなくても、居ても居なくても、人間として生きることには何の妨げにもなりません。畜生以外の生命を認識したいならば、それなりの修行が必要です。
見解から起こる怒りへの対処法
私は見(ディッティ)が強くて怒ってしまうようです。どうしたものでしょうか?
見とは偏見です。たちが悪いのはそれが自分にとっては正しいと感じることです。簡単ではないのです。もっと心を広くするしかありません。一輪の花があって、これってけっこう綺麗だなと思ったりする。それは私の主観であって私の偏見。しかしそれが私にとっては正しいのです。ほんとは汚いのに、インチキで綺麗と思ったわけではない。自分にとっては綺麗なのです。隣の人から、こんなつまらない花、と言われると腹が立ってくる。このカラクリを理解するとだいぶ楽になります。
私たちは偏見を作らずには生活できないみたいです。家が汚い人も、それでいいやと思わないと生活できないのです。ゴミ屋敷の人も、それがおかしい生き方だと理解していないのです。本人にとっては当たり前の正しい生き方なのです。周りの人がギャーギャーいっても理解できないで、かえって怒るのです。生命は誰でも、偏見で生きています。皆さんの家に鼠が入ったら、ブランド品の服に興味を持ったりしない。感心があるのは、それが囓る(かじ)れるかどうかだけ。そこでブランド品を囓られた人間が、怒りに狂って鼠を殺してやるぞと思うのも偏見です。鼠にとってはたえず何か囓ることが正しい生き方。人間の偏見で見れば迷惑そのもの。どちらが正しいんでしょうか? それを理解することが偏見から解放される道なのです。
我々に偏見=主観があるから、乱暴で失礼な生き方をしているのです。自分の考えを他人に押し付ける。なぜいつでも母と子が喧嘩するのでしょうか? 自分の意見を徹底的に押し付けることといったら、母親が世界で一番だからです。凶暴に自分の好き嫌い判断を子供に押し付けるのです。ですから、母親は人間にとっては一番大事な存在でありながら、いちばん大きな敵でもあります。そういう矛盾で生きているのです。一番好きなのはお母さん、一番嫌いなのもお母さん。それでよく分かります。主観を押し付けるとトラブルの原因になる。人間関係が悪くなるのも、自分の主観を押し付けようとするからです。
怒りが出てくる時は、「これは私の主観で、私こそ正しいと思っているから怒るのです。かといって他人がそれを正しいと思うわけ無いでしょう」と思うとその怒りが消えていくと思います。これはずーっと続けなくてはいけない訓練です。私たちはつねに主観・偏見をつくらないと生きていけない。主観・偏見はそうとう大きな問題です。大きいだけではなく、抜けられない問題です。そこでどうやって怪我しないで、事故を起こさないようにするのか、それだけ考えて下さい。偏見を無くすためには真理を発見しないといけない。それではじめて偏見が無くなるのです。
我々にはどう調べても地球は平らです。それは我々に経験できる世界です。しかし「地球は丸い」という真理が発見されたら、わかってもわからなくても頭に叩き込まれます。それについて全然喧嘩しません。でも、神はアッラーか、エホバかで喧嘩・戦争することになる。どうして喧嘩するかというとお互い間違っているから。しかしイスラム教もキリスト教も、地球が丸いという真理については喧嘩しませんね。偏見はお互い殺し合い、戦争の原因になる。真理はそうなりません。わかってもわからなくても、受け取ることで平和になるのです
親は子供に生き方を強引に押し付けますが、結局は諦めることになります。生命だから、結局、子供は自分の道を歩もうとするのです。親が生き方を押し付けても通じないから、最終的には、「しょうがない、どうしようもない」と諦める。そこでやっと親と子が仲良くなるのです。平和が戻るのです。ひとの主観に対して、最低、「しょうがない」くらい思って何が悪いんでしょうか? 智慧のある母親は、ギャーギャー言わずに「お母さんは大反対ですけど」と意見だけ出して子供に判断を任せる。子供はその場合、真剣に考えるんですよ。「お母さんは大反対です。絶対止めなさい」と命令しちゃうと、かえって反対のことをやっちゃいます。そこで親子関係は崩れます。主観を押し付けるというのは、人間関係を切断してしまうことです。「私には私の主観がある。あなたにはあなたの主観がある」と、まず素直に人の主観を認める柔軟性を育てなくてはいけないのです。
それから、どちらかの主観が正しい、ということは成り立ちません。自分の心は、自分の頭に浮かんだ主観が正しいと思っているのです。べつの意見が正しいと発見したら、瞬時に主観はその意見になってしまうのです。そのように考えて、「ひとはそれぞれの主観的な意見を持っているのです。主観を持たずに生活することはできないのです。私が他人の主観に真っ向から反対することも、残酷に潰してやろうと攻撃態勢を取ることもよくないのです」と思って、心に柔軟性を教えてあげましょう。
主観ばかりが交錯するこの社会では、真理に達することはできなくなります。真理とは「地球が丸い」というように異論が立たない正しい答えです。ですから、主観にしがみつかないで、新たな事実が見えてくるたびに自分の主観を訂正する姿勢を持たなくてはいけないのです。必ず持っている主観を絶対変えないという、恐ろしい執着を捨てなくてはいけない。自分の主観はいつでも訂正待ち状態にしなくてはいけない。それは智慧の世界を真似するような生き方です。徐々に心は真理を発見していくことでしょう。
布施功徳の分けあいと随喜
布施の功徳を分け合うことについて、また、随喜ということについて教えてください。
布施の功徳を分け合うとは、「私が布施で得た功徳をあなたにも分けてあげます」と言って、相手もその布施行為に賛成してもらうことです。賛成することで、同じ気持ちになるか、似たような気持になります。賛成する気持ちの強さによって、功徳を受ける側の功徳の力が左右されます。行為する人の気持ちに賛成だけする人の気持ちは、なかなか同一のものになりません。
しかし、相手がおこなった行為に対して涙が出てくるほど感動して賛成の気持ちが起こることもあり得るのです。その場合はもしかすると、行為をした人よりも賛成した人の功徳のほうが強いかもしれません。ひとの気持ちの問題なので、具体的に理解することはできません。キリスト教の人々の場合も、聖書に通じており、言葉を巧みに使える聖職者は、かなり感動的にインパクト強く祈りをいたします。ミサに参加する人々には、それほど能力はありません。しかし最後に「アーメン」という言葉で賛成するのです。自分がどの程度の気持ちで賛成したのか、ということがミソです。なかには、ただ皆やっているからロボット的にアーメンという人もいるかもしれません。
仏教の場合は、「サードゥ」という言葉を使います。サードゥと言って、自分も善行為に参加して功徳を得るのです。どの程度で功徳を積むのかということは、各個人の賛成する気持ちの問題です。善行為に賛成すれば、功徳を積むことになります。悪行為に賛成すれば、罪を犯すことになります。ですから、サードゥと言っただけで、「功徳」ではないのです。賛成した行為が善行為か悪行為かというにも、気をつけなくてはいけないのです。キリスト教のアーメンは、宗教儀式の中でのみ使います。しかし仏教のサードゥは日常生活の中で一般的にも使います。気をつけなくてはいけないところです。
質問の後半で、随喜という言葉が出ました。それは、同じ気持ちになるか、似たような気持ちになるか、ということです。善行為をする場合は、当然、心は喜びを感じるのです。ですから他人の善行為の功徳を自分も得たいと思うならば、「随喜」しなくてはいけないのです。
質問は布施だけに限定していますが、功徳をわかちあう場合は、どんな善行為にも有効です。自分が冥想実践している場合、それは自分ひとりの行為のように見えますが、冥想する気持ちが全くない他人がそれに賛成して喜ぶならば、その人にも功徳が入ります。どんな善行為でも、廻向することも随喜することもできます。
廻向する習慣は仏教徒のあいだでは普通の行為です。廻向するべきであると推薦しています。自分が善行為をおこなって、その功徳を他人にも廻向すると、自分の功徳の力がさらに強くなります。自我中心的な気持ちが薄くなっていきます。他人の善行為に対して随喜して功徳をいただく場合は、功徳をいただくだけで終わらないのです。他人の善いところを素直に認めるという性格が生まれてきます。それによって、他を軽視する、他を見下す、他を非難する、嫉妬する、などの煩悩も薄くなっていきます。ですから、随喜することも人格向上に繋がります。