瞑想を続けるための姿勢と注意
ヴィパッサナー瞑想を続けるにあたって、気をつけなければならないことがあれば教えてください。
ヴィパッサナーで観察をするときに、2つの気をつけて欲しいことがあります。一つは自分で分析しようとすること、もうひとつはそれで何か発見できるだろうと思うことです。
自分で分析しようというのも、ずるい働きになってしまうのでよくありません。
「分析しよう」という気持には「私」というものがずるく隠れているのです。
そしてまた、分析すると何か見えてくるだろうと、何かわかってくるだろうと思ってしまうと、そこにも「私」というものが隠れているのです。
言いたいのは、「強引に何かを引き出そうとしないこと」。
強引に引き出そうとすると、「私が」という、「自分が」というものが出てきます。そうなると必ず、「客観的に」見るということから離れていってしまうのです。
歩く瞑想をやっているときに、ある意味で無意識にただただ歩いていることがありますが、そのときサティしている自分の言葉が、ただの意味を成さない「言葉」になってしまっていることがあるのですが。
そういう場合は、言葉にはそんなに意味がない。ただの言葉だと感じてやってみてください。
たとえば自分はちゃんと気づいている。それでも聞違った言葉で確認することもあるのです。
たとえば、「手を伸ばします」と言いたいところで「手を挙げます」と言ってしまうこともあります。その場合は別にそれでもかまいません。ただ、言葉は違っても確認はしたんだからね。
言葉はあくまでもただの言葉ですから、あまり気にしない方がいい。
とにかく集中力さえついてくればいいんです。他のものは自然に放っておけばついてくる。しかしまた、私がここで集中力といったからといって、それにまたしがみつくようじゃ、これもまた問題だし。
とにかく全部、トライアンドエラー、自分で試行錯誤するしかありません。
私は、ヴィパッサナー瞑想に時間を費やしたいと思っているのですが、やっぱり社会貢献というか、社会とのつながりを持ちながら瞑想をしていった方がいいのでしょうか。それとも許されるなら瞑想三昧の日々を送ってもよいのでしょうか。
社会に貢献しながら自分の修行をすることも、決して悪いことではありません。逆に、自分ひとりで瞑想を実践して、自分の心を清らかにすることも、決して他人には全く関わりのない自分だけのこととなるわけではないのです。
もし我々が修行をして、輪廻を脱出して解脱することができれば、また輪廻を完全に脱出することはできなくても、最低預流果という超越した状態になることができれば、その人は自分が悟ることによって、数え切れない人々のために役に立つ、立派な人間になることができるのです。
そういう人とつき合うだけでも、他の人々も心が清らかになって汚れが消えてしまうのです。
ですから我々が自分の心を清らかにするために修行すること自体も、すべての生命の役に立つ立派な社会的な行為になります。
瞑想にいっぱい時間があるということは大変素晴らしいことです。なかなか世の中では聞こえない言葉です。この世の中にいる人はみんな、時間がない、時間がない、と言い訳して逃げる人ばかりです。
ですから「自分には瞑想する時間がいっぱいある」と言えることは大変素晴らしい、ありがたいと、ほめられるべきことなのです。
仏教の世界での「楽しみ」とは何なのでしょう。私は瞑想をしていても、それを楽しく感じるということはないんです。
楽しみは2つに分けて考えた方がいいと思います。
1つは世俗的な楽しみで、美味しいものを食べて、パーティをやって騒いで、あるいは新しい車を買って楽しみを感じる。
それに対し仏教でいう楽しみとは、物事を明確に見て、よく理解し、それから生まれてくる安堵感、心が落ち着いて平安な状態である、そういう楽しみなんです。ハッハと笑って楽しい楽しみは、いつでも奪うことができますが、平安な楽しみ、落ち着いている人の落ち着きを消すことはなかなかできないのです。
心に感情があるというのは不安定な状態なんですね。波のたくさんある海は、波が消えてもまた現れる。心の平安とは、俗な感情の起伏のないどこまでも続く平らな水平線のようなものです。
私は以前は自然が好きで、花を見ると「まあ綺麗」ととても楽しく感じていたのですが、瞑想を始め、今はもう少し平安な気持で感情が揺れ動くということがあまりなくなりました。それがよいことなのかどうか。
以前は花を見て、感情がわき上がってきて、それを楽しんでいた。今は落ち着いてきて、それほど感情の波が出てこない。今の自分が気づいているのは、この自分の感情のことだということですね。
我々は自然をそのまま見て、同時に自分のからだと心を見ることもできます。そのからだと心も、美しいものではあります。花は咲いて散っていく。自然は流れていくものであり、自分のからだと心の現象も、同じように流れていくものです。でも、以前はその流れるものを放っておかなかったのではありませんか。捕まえようとする、そこで美しさは消えてしまい、苦しみが生まれるのです。今は、外にある自然も、また心の中の感情も、体の状態も生まれ消えていく、そのままに放っておくことができますから安定した落ち着きの心が生まれてくるのです。その自然の流れを理解する心の方がもっと美しいといえるのではないでしょうか。
瞑想を続け、阿羅漢になること、悟ることで、人はすべての感情をなくし、冷たい人間になるのではないかという気がします。
瞑想をして自分を見ると、自分が本当に味わっている「存在という苦しみ」を知ることになります。
それを徹底的に味わってくると、「すべての生命も同じように、確実に苦しみを味わって苦しんでいる」という智慧が生まれてくる。そこで人間ははじめて、「人間の苦しみがなくなって、幸福になって欲しい」という本物の気持を持つようになるのです。決して冷たい人間になるのではありません。
普段我々は「人の気持ちをわかっている」「人の幸福を願っている」と言っているかもしれませんが、それは本物でない、うわべだけなのです。自分の苦しみさえ理解していないのですからね。
もし修行によって心が清らかになって悟りをひらくならば、その人が苦しみを徹底的に体験することから生まれる経験ですから、「すべての生命も苦しみ、悩んでいる」ことを理解し、その人に限って本当に人々の気持ちが理解できるし、真に、「人々が幸福でありますように」と思える人間になるのです。
それが、我々がヴィパッサナーでめざしている状態です。