あなたとの対話(Q&A)

慈悲の対象と認識の限界/嫌いな人への慈悲の実践/「慈悲の携帯」について

パティパダー2013年12月号(195)

慈悲の対象と認識の限界

「慈悲の冥想」を実践する場合は、自分が認識できない生命にも慈悲を向けるべきなのでしょうか? そうだとすれば、どのように慈悲を向ければいいのでしょうか?

すべての生命を認識することは不可能です。私たちに認識できるのは、地球にいる肉体を持つ生命のみです。それだって、認識しているか怪しいのです。私たちの認識には当然リミットがかかっています。アリ一匹、ハチ一匹は認識できても、巣穴や巣箱にいるすべてのアリやハチは認識できないのです。

 慈悲の冥想は一切の生命を対象にしてまじめに実践してみると、不安な気持ちになることが度々あります。この場合は、対象に集中してサマーディを作りたいと修行者が思っているのです。一切の生命は認識しきれないものなので、「生きとし生けるものが把握しきれない」ということで不安になって、サマーディに達しないのです。その場合は指導者がアドバイスして、冥想対象を決まった認識範囲で止めてもらう。それでサマーディを強化するのです。日常生活のなかで慈悲の冥想をやる場合は、サマーディよりも人格向上を目指すのです。その場合は、修行者みたいに対象を区切らず、ふつうに念じればいいのです。いちいち生命を数えなくてもいいのです。一切衆生どころか、親しい人々だって数えられないものでしょう。一応ざっくりと「親しい人々が幸せでありますように」と念じるのです。厳密に数えると頭が混乱します。大切なのは「親しい人々が幸せになってほしい」という自分の気持をはっきりさせることです。「自分はこの気持ちで生きています、慈悲の気持に偽りはありません」と確認する。気持に偽りがなければ、それでOKです。生命の数は数えなくてもいいのです。

 親しい人々も数えられない。ましてや、生きとし生けるものはまったく把握できない。それで心がガタガタになって、無重力状態で流されるような感じになる。これはよくない兆候です。ちゃんと心を制御しないと糸がキレたような状態になるので、そこでまた自分の気持に素直になるようにするのです。「生命は誰であろうと慈しみます。自分の気持には偽りがないです」と。そうすると、世界にどれくらい生命がいるのかという疑問が消えるのです。生命は無数無限にいるとお釈迦様は説かれています。ということは認識できないのです。一切衆生への慈悲を育てる場合は、客観的な対象を確認するのは無理です。慈悲は自分の心のなかで管理するものなのです。

 突然、火星から異星人が来たとしましょう。アメリカ映画の影響で殺意を抱くかもしれません。しかし慈しみを実践した人は、「いまだかつて見たことがない生命がいます。それが生命ならば幸せでありますように。幸福でありますように」と、そこで慈しみが働いてくれます。この喩えを出したのは皆さんには妄想しかできないからですけど。冥想する時は、決して妄想する必要はありませんよ。

 慈悲の冥想をする人は、どんな生命に出会っても、慈しみの準備ができています。自分の気持に正直に、自分の気持に偽りがありません、というところで冥想が進んでいくのです。どれくらい生命がいるのかということは考えてはいけない。生命にはリミットがありません。無限無量です。次元的にも、我々の次元だけが生命ではないのです。ですから、自分の気持で慈悲の準備ができていればいいのです。次元の違う生命について考えても、いろいろな妄想が入ってわけがわからなくなる。どうでもいいのです、そんなものは。天界や餓鬼だけではなくて、畜生だって、全部わかるわけではないのです。でも、誰が出てきても、こちらは慈しみを与える準備だけはできているようにする。いきなり餓鬼が出てきても、神が出てきても、混乱したり怯えたりせず、「こんにちは。お元気ですか?」という気持でいられます。それはすごい気分でしょう。混乱して精神病に陥ったり、「我こそは神に出会ったぞ」と、いばって詐欺師になったりすることはない。どちらも病気ですからね。

 出会った生命が自分に危害を与えるような怖い生命だとしても、「こんにちは」という態度をとれば、相手も危害を加えられないのです。自分もいつでも安全です。ですから、知り得る生命、知り得ない生命ということについて困る必要はありません。


嫌いな人への慈悲の実践

嫌いな人への慈悲の実践で悩んでいます。会社勤めで同僚が、自分の意見にたいしていちいち否定してくるのです。「こんな自我が強い人は慈悲の冥想をする相手ではない」と思ってしまいます。いまはその人から逃げる方向で対応していますが、会社も狭いので難しい。どうしたらよいでしょうか?

理性で考えて下さい。人間はみんな自我を持っています。私たちは「自我はよくない」というブッダの教えを聞いていますが、修行完成していないから、結局は自我の意識を持っているのです。いまあなたの心に何が起きているのかというと、「他人に自我意識があるから私が怒るんだ」ということになっている。これはヤバイのです。自分の自我が相手の自我と対立しているのです。自我とは恐ろしい曲者です。自分が自我を張るのは一向に構わないが、他人が自我を張るのは決して認めないのです。これで人間関係は対立関係になります。「慈悲の実践」で、自分の自我が牙を剥くことを止めてもらうのです。

 誰にでも、自我があるのはあたりまえです。それにいちいち反応するなら、自分が他人に操られて生きることになります。それって情けないのです。そうではなく、他人が自我を張っても「どうぞご自由に、ご勝手に」と、気楽な気分で生きることです。この人は自我を張っていますよ、と思ってしまう瞬間に気をつけましょう。その時は自分の自我が牙を剥いているかもしれません。自分も自我意識を持っているのに、相手の自我意識に対して批判的な態度を取るのはおせっかいです。人権侵害です。他人を自分の好み・自我に合わせて改造しようとしているのですから。誰だって、他人の自我に合わせて自分の自我を抑えようとはしません。無理にでも、自分の自我に他人を合わせたいのです。ですから社会は対立ばかりです。調和はないのです。思いやりはないのです。私たちはあり得ない無理な戦争をしようとしているのです。これは必ず負ける戦争です。

「ひとに自我があるのだからこそ、私は慈悲を実践しますよ」というのが正しい答えなのです。自我をいいわけにして慈悲を実践しないのではなく、逆に使うのです。いっそ漫才にしてしまえばいい。相手が「これは違いますよ」といえることを話して、調子にのせて、その間に相手も「これは違う」と言えないことを挟んじゃう。よい漫才になります。嫌な気分になるどころか、楽しい気分になるのです。やがて相手も黙ると思います。まぁ、黙っても黙らなくてもどうでもいいことです。

 あなたを悩ましているその人は、「自分はあなたより物事をよく知っているんだぞ」と言いたいのです。もしかすると自信がないのかもしれません。それなら可哀想です。無能な人は、インチキをはたらいて世界を抑えようとするのです。それは長持ちしない手段です。偽造旅券で旅行できたとしても、ずっと続けるのは難しい。でも中身のない人はそういう手段をとってしまう。しかし人々の弱点を自分の足かせにしてはいけません。詐欺師に騙されている人々は、のちにそれが発覚すると詐欺師に悪口をいうのです。法律的には仕方のないことですが、論理的に考えると違う側面も見えてきます。騙した相手が悪いという場合は、自分を騙さないで守る義務が相手にあると思っているようです。私を守る義務が世界にあるのだと思うことは成り立たない。自分が自分を守らなくてはならないのです。慈悲の実践を知らない人々には、自分を護ることが難しいのです。親しい人にも、嫌いな人にも、すべての生命にも、慈しみの気持を抱いて生きているならば、それに勝るお守りは存在しないのです。

 性格があまりにも合わなくて、嫌なことばかりする人々とは、親密な関係を持たないほうが無難かもしれません。親密な関係は持たないが、その人々にも慈しみの念を抱くのです。この気持は、慈悲喜捨の捨です。Upekkhā(ウペッカー)と言うのです。


「慈悲の携帯」について

2013年10月号と11月号のパティパダー『智慧の扉』欄に、「慈悲を携帯しよう」「慈悲を携帯する方法」という文章が載っていました。たいへん感銘を受けたのですが、もう少しだけ、慈悲を携帯して生きるためのヒントを頂きたいのです。

慈悲を携帯するというのは、軽く言うならば、いつでも頭のなかで、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という考えが出てくることです。いつでも慈悲が心のなかで優先になることです。それ以上、あまりあれこれ考えないほうがいいです。「幸せとは何か?」とか、「なぜこの人が幸せにならなければいけないのか?」とか、そういう理屈はどうでもいい。腐った自我であれこれ考えること自体が間違いです。私たちには自我中心にしか考えられないという認識の問題がありますから、いくら考えても、どこかでぶつかってそれ以上進めなくなるのです。そうではなく、すごく単純に、軽く、軽く、「幸せでありますように」「どんな生命でも幸せでありますように」という気持でずーっといることです。やってみれば。「すごくスムーズに、気楽に生きているのだ」と自分で実感できるようになります。

 一つ具体的なエピソードをお話します。私が生まれた村のお寺の住職は、自分にとって親みたいな存在でした。立派な学者でもあったのですが、村人とふつうに生活して冗談ばかり言っていました。若者にはかなり人気者で、しかしすごく精密に出家者としての生き方を守っている。見栄もはったりも何もない。その長老が病気で最期の時期、「もうご飯も何もいりません」と何もしゃべらなくなったのです。周りの人々が何を訊いても、ただ「(生きとし生けるものが)幸せでありますように」とだけ応える。そして、笑顔は絶やしません。それは「慈悲の携帯」ですよ。長老はすべて俗世間との関係を切ってしまったのです。何も考えないから、唯一残ったのは慈悲だけ。すばらしい人生でしょう。そのように、すべて忘れても、慈悲だけは残るような生き方をして欲しいのです。

 日本でみな心配なのは認知症でしょう。認知症になるとどんな人間になってしまうかわからない。現代医学でいくら脳を回復させようとしても、俗世間のレベルで回復するだけです。決して、俗世間のレベルを超えることは知らないのです。ですから認知症は大きな問題になっています。加齢に応じて脳が壊れるのは普遍的なことです。でも仏道をまじめに歩んでいる人には、認知症は問題にならないのです。認知症になっても、誰も気づかない。いろいろ忘れているけれど、自分の修行のことや慈悲の冥想のことは憶えている。いま話している相手が息子だと気付かなくても、道徳を教えてあげるのです。そういうのは不幸な老後でしょうか? 

 皆さんに慈悲を携帯して欲しいのはそういうわけです。脳が壊れたら、どこが壊れるかわかりません。でも慈悲を携帯して生きれば、道徳を携帯して実践し続ければ、その部分は壊れないのです。これは昔からいくらでも実績があります。貪瞋痴には破壊力があるのです。脳細胞を貪瞋痴で動かしていると、脳の弱いところから破壊していきます。反対に、不貪不瞋不痴には生成力があるのです。不貪不瞋不痴で働く部分は壊れないのです。慈悲が呼吸するのと同じになれば、たとえ認知症になっても心配いらないのです。すごくしっかりした人間に見えますし、そういう人は認知症だと判断することもできないのです。

 ブッダの道を実践して亡くなる人は、私が知っている範囲では、面白いことに「これで自分の寿命だ」とすぐ分かるのです。その時が来たら、突然倒れる。倒れた瞬間で、治療もすべて断る。周りのみんなは一生懸命治療しようとしますが、断ります。死ぬことに対して、もう微塵も恐怖感がないのです。いままで心配して悩んできた子供のことなども、きれいサッパリ捨てているのです。親がそういう境地になると、子供にとってはキツイんですけどね……。そういう方々から、私はよく学んだのです。向こうは出家の私から仏教を学んだつもりかもしれませんが、実際には私が向こうから仏教を、経典の知識ではない「生きた仏教」というものを教わったのですね。「慈悲を携帯する」という言葉で軽く表現したのはそういう生き方のことなのです。