どのような心を目指すか
心を育てるべきであると、いつも教えられていますが、目指して育てるべき心とはどのような心なのでしょうか。
人間は、幸福になりたがっています。幸福になりたいと思うのは現実が不幸だと思っているからですね。ああなりたい、こうなりたい、あるいはこれが欲しい、あれが欲しい、お金のない人はお金が欲しい。お金がないから不幸だと思う。しかしお金が入ってきたらそれで楽しいかと言えば決してそうではなくて、また新たな問題、苦しみが生まれてきます。
母親が、必死に頑張って子供を成長させ、社会人にして、仮に母親としての仕事を終了することが幸せだと思ったとしても、目的がなくなって愕然としたり、あるいは子供が自分から自立することが受け入れられない母親は、そのことが苦しみとなります。
存在というのはそういうシステムなのです。心は苦しみを味わうようにプログラムされているのです。寒さに苦しんでいるから各家庭に冷暖房を入れようと計画して入れたとしても、外に出ればまた寒い。では、寒くて、何もせずに寒さに震えていても、それで得るものも何もない。必死に手を尽して研究して快適な環境をつくりだしたところで、実は何も変わることはありません。10年20年の年月は、時代や環境を大きく変えているように見えますが、苦しみの量が減ることはありません。日本の社会で起こるトラブルも、たとえば子供の自殺やいじめがある度に何とかしようと頑張り、校則を変えたりシステムを作り直したりしますが、何も変わらないのは、結局「人」が変わっていないからです。社会環境がどう変わろうが、それに適応できる心をつくってあげないと、何も変わらないのです。
バブルの時代に、借金して大金を投資して家を買った人も、半年後にバブルが崩壊してただ借金だけが残るというような状況になるとは想像もつかなかったのです。
いろいろな例を挙げましたが、どんな変化にも適応できる柔軟な心をつくっておけば、突然文無しになろうが大病にかかろうが、関係ありません。心を育てることの大切さはそこにあります。
心を育てるということは、柔軟な心を持って、どのような状況が起こっても対応できるようにしておくということなのですね。
わかりやすい例を挙げると、喧嘩ばかりしている嫁姑がいる。嫁は今度こそ徹底的に喧嘩して言い負かしてやると心の準備を整えて家に帰った。すると姑が「お帰りなさい。疲れたでしょう。さあ、お風呂にでも入って」とやさしく迎えてくれたら、どうしますか。結局いくら準備しても、予想した状況にはなかなかなりません。それより必要なのは、どんな状況に出逢おうと、瞬時にその状況に適応できる柔軟な心なのです。頑固な心はダメなのです。
心は何か思い込みを持つことが多くて、自分の思っていた状況と異なってくると、心を変えきることができません。
心の癖というのは、何か理想をつくってしまうことです。病気になると、病気でない状況を思い描いてしまうし、年老いてくると、いつまでも若くいたいと若さにしがみつく。不老不死という概念をつくりたがる。何の根拠も無いにも関わらず、その頭の中の理想、想像に向って努力しようとする。そこで何が得られるかというと、瞬間瞬間の失望です。失望する度に大変苦しく心は痛みます。その度に悔しく思ってまた頑張る、するとさらに失望と苦しみに苛まれる。
また先ほどの子育てのように、持った理想を実現したとしても、そこには虚しさが残ったりするのです。理想を実現することも、実現しないことも苦しみなのです。この存在のややこしさ、むなしさをよく理解すれば、我々の心は必ず変わります。やるべきことは、すべての問題をつくっているのは我々の心であることを理解し心と体の働きをよく理解する、法則を十分に理解して執着を捨てることです。
そのような柔軟で静かな、落ち着いた心をつくるためには、瞑想が必要ですか。
瞑想というより、瞑想も含めて実践することです。放っておけば、今のまま変わりませんから、ちょっと方向性を変えて流れを変えてみてください。我々にもコントロールできるはずです。
水が流れる。人間が、そこでダムを造ったりしたら、電気も作ることができるし水道にもなり役に立ちます。水は流れるという事実は変わりませんから、水をありがたがって拝んでいるだけではただ海に流れていくだけで何も変わりません。自分の心についても、心の流れに何かちょっと工夫をする必要があるのです。ちょっとダムを造ってみたりいろいろな工夫をすることで、幸福になれるのです。それは物質の流れも心の流れも同じことです。物質の流れは科学者たちが解明してきました。
しかし、物質は触れられますが、心は触れられません。ですので、科学者たちにはその法則の発見はできませんが、心の流れを変え、心を育てる実践は、科学者が物質に対してやっていることと全く同じです。客観的に「心」を観るのです。わけのわからない神秘の世界の語ではありません。
ただ、心で心を観るという、普段と異なる慣れない手法を用いますから、時間がかかったりするのです。
よく、清らかな心、きれいな心をつくるということも言われますが、清らかな心とはどのような心なのでしょうか。
普段、我々の心は頑固でかたいのです。その状態は清らかな状態ではないと理解した方がいいでしょう。頑固さは、無知、高慢、エゴ、怒り、欲、嫉妬などの感情から生まれます。そのような人は、環境に適応して進歩することができません。心に生まれる「錆」のようなこれらの感情を徐々に努力して取りのぞかなかればなりません。そして、また新たな「錆」が入り込まないように、智慧、慈しみなどの徳で、心を守っておかなければなりません。
柔軟な心をもつ人は、どんな環境にも適応でき、心が乱れることはありません。ですから何の問題も作りません。毎日生きる中で、問題に出会うたびに、新しい智慧、新しい発見、新しいひらめきの連続です。そういう生き方を、幸福な生き方と言えはしないでしょうか。