No.321(2021年12月号)
仏道は不放逸に極まる
智者は世の流れを渡る Vigilance
今月の巻頭偈
2. Appamādavaggo
第二章 不放逸
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Appamatto pamattesu
Suttesu bahujāgaro
Abalassaṃva sīghasso
Hitvā yāti sumedhaso
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怠りなまけている人々のなかで、ひとりつとめはげみ、
眠っている人々のなかで、ひとりよく目醒めている思慮ある人は、
疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いてかけるようなものである。
- 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より
放逸・不放逸
放逸と不放逸。この二つの単語に、仏道のすべてが集約されているのです。仏教は経律論という三蔵に分けられます。いずれも膨大な量です。三蔵を隅々まで読んで理解して、専門家になる人々は極めて少数です。それは一生かかる仕事になります。大乗仏教の三蔵はさらに膨大な量です。お釈迦さまは、その場その場で相手に理解できるように真理を語られました。皆に同じ内容を同じ言葉で教えたわけではなかったのです。ブッダの説法はいつでも新しい説法だったので、教えが量的に増えていくと、それを学ぶ弟子たちが苦労することになりました。本来、学問的な能力がある人ならば喜ぶかも知れませんが、一般人にはとてもアクセスできない教えになってしまいます。その問題を知り尽くしたお釈迦さまは、仏道を〈不放逸appamāda〉という一言にまとめたのです。反対の言葉は〈放逸pamāda〉です。ここでは、pamādaは世間の生き方であり、appamādaは仏弟子たちの生き方であるとおおまかに理解しておきましょう。
自然の流れではない
放逸の生き方は、生命の自然の流れです。快楽を追い求めるのは自然です。苦難から逃げることも、身を守るために他人と戦うことも、自然の流れです。身体の要求に応じることも、「肉体を維持管理して守ることだけが生きることだ」と理解するのも自然です。生命が何かを判断する場合は、感情に従うのです。つまり、身口意の行為を感情の司令で行うのです。私たちは「人は死ぬ」ということを知っていますが、「自分は死なない」という前提で生きるプログラムを実行しています。このような生き方は、俗世間においては自然の流れです。生命は、生まれて、成長して、老いて、病に罹って、必ず死ぬのです。人が真面目に生きたからと言って、得るもの、達するものは、何ひとつもありません。その虚しい生き方への解決策として、お釈迦さまが不放逸を提案したのです。
不放逸は自然の流れではありません。自然の流れではないならば、不放逸とは自然に逆らうことでしょうか? そうではありません。皆と一緒に流れて死ぬべきではないけれど、自然とは、逆らえるものではないのです。不放逸の道は「中道」と名付けられています。中道の意味は、自然に従う/逆らうという極端の間を取ることではありません。正しくは「超越道」なのです。
次の例で考えてみましょう。人が怒るとします。決して不自然な出来事ではありません。①さらに怒りの対象(相手)を攻撃して壊したくなる。それも自然の流れです。もう一人は、②被害を受けて怒りが起きても、なんの反応もしないで堪【こら】えている。この反対の立場を取っても、人は被害を受けているから、内面的に壊れていくのです。極端①の結果は不幸だし、極端②の結果も不幸です。不幸だから苦しむのです。怒ることは苦であって、怒りを抑えて堪えることも苦に他なりません。それに対して、不放逸の人は、自分のこころに起きた「怒り」という現象を観察するのです。怒りのありさまを理解するのです。その観察によって、彼に智慧が顕れます。怒りも消えるのです。結果は幸福です。不放逸とは自然の流れのままで生きることではなく、「自然の流れはどのように起きて、どのように消えていくのか」と観察することです。このやり方を仏教の教えから学ばなくてはいけないのです。
お釈迦さまは、「流れに逆らうこともなく、流れに沿って流されることもなく、流れを渡って解脱に達するのだAppatiṭṭhaṃ anāyūhaṃ, tiṇṇaṃ loke visattikaṃ」(SN.1-1)と説かれています。
勘違い
不放逸とは超越道そのものであると理解していない人々が多いのです。放逸には、怠けるという意味もあります。だから、不放逸は「怠けないこと」になります。怠けないことは修行者にとってやりやすい実践なのです。朝早く起きて、住んでいる僧房と周りをきれいに掃除する。一日に必要な水を汲んでおく。托鉢にでかける。食事のあと、真面目に後片付けをする。毎日、身体をていねいに洗う。探せばいくらでも仕事が見つかるのです。夜遅くまでさまざまな仕事をして、深夜に寝て朝早く起きる。来客の出家がいるならば、その人のお世話をする。昔も今も、お寺とは仕事が多い場所なのです。お経を憶えたり、勉強したり、唱えたりする仕事もあるのです。在家に説法する仕事もあります。このように怠けないで出家生活することは、決して「不放逸」ではないのです。
在家の人々も、怠けて生活しているわけではありません。在家も毎日、忙しい生活を送っています。怠けない人はいくらでもいるのです。だからといって、みな仏教徒でも、仏道を実践している人でもないのです。怠けないで頑張ったからと言って、得るものは何もありません。死ぬときは、すべて捨てて去るのです。この場合は、怠けた人も忙しく生活した人も同じです。
解脱の道
不放逸は解脱の道です。解脱の門を開ける鍵なのです。怠けないで生活することが不放逸であるならば、世間の人々の半分以上、解脱に達しているはずです。苦しみを一切乗り越えているはずです。しかし、そんな形跡はありません。現実は、怠けないで努力することも苦しいのです。怠けることも苦しいのです。出家が「不放逸とは怠けないことだ」と誤解すると、精神的な向上は何ひとつも得ることができずに、凡夫のまま人生を終えるはめになります。残念なことに、appamādaの日本語訳も「怠りなまけることなく、つとめはげむこと」になっているのです。Appamādaを誤解するケースは、お釈迦さまの時代からありました。「不放逸とは不死(涅槃)の言葉(道)なりAppamādo amatapadaṃ」(Dhp.21)というブッダの言葉は簡単に忘れられてしまうようです。
観察
不放逸とは、今の瞬間の現象を客観的に観察することです。それには指導と訓練が必要です。「今の瞬間」は、人の能力によってバラバラになります。一瞬の時間の長さは、人の能力範囲によって決まるのです。しかし、「一秒の長さは人によって違う」と言っても成り立たない話です。一瞬の長さは一秒より遥かに短いのです。人は自分の能力範囲で、今の瞬間の現象を観察します。集中力と能力が上がり次第、今の瞬間はより小さな時間間隔になっていくのです。「一切の現象は瞬間瞬間、生滅変化し続け、それも因縁によって成り立つ」と発見できるようになります。そこで最終的に、「無常が真理であり、現象は実体を持たないものだ(無我)」と発見します。執着が消えて、人は解脱に達するのです。Appamādaとは、観察の実践なのです。
不放逸の賛嘆
放逸の世界で、人は不放逸を実践する。現実に目覚めずに殆ど寝ている世界で、人は目覚めた状態でいる。今の瞬間に気づかず、過去の思考妄想、将来の思考妄想に絡まって生きることを、ブッダは「寝ている状態である」と言います。なぜならば、寝ている人も現実に気づかないからです。彼らは夢の中で生きています。鈍足の馬を駿馬がいとも簡単に抜き去ってしまうように、不放逸の人は俗世間を抜き去って解脱に達するのです。
今回のポイント
- 涅槃のキーワードは不放逸です
- 放逸の俗世間は寝ているのです
- 不放逸を実践する人は「目覚めた人」と言うのです
- 不放逸は怠けないことだと誤解されています
- 不放逸とは今の瞬間の現象を観察することです
- 怠けないだけでは解脱に達しません