ヴィパッサナー瞑想のときの精神状態
ヴィパッサナー瞑想をやれば、睡眠時間が少なくてもいいとか、睡眠時間が少なくても熟睡できるとかいう話を聞きましたが、そんなことがあるのでしょうか。
あります。まあ、そんなことばかり考える必要はないのですが。すごく眠いときは寝た方がいいと思いますよ。論理的に説明するならば、人間の心の動きというのは止まることはないし、様々な妄想ばかりしていて、脳紳胞には暇というものがありません。ですから疲れて疲れて、いつでも眠たいのです。一方、ちゃんとヴィパッサナーでものごとを確認しておくと、疲れがないのです。ですから眠気は消えるのです。だから少ない努力でたくさん仕事ができます。そのような人には、からだの休みをとることは必要ですけれども、こころの休みは必要ありません。からだの休みをとることは、上手にできればとても簡単です。横になって、からだを観察すると、ぱっとからだの機能が止まってしまいます。からだの機能が止まっても、頭はものすごく元気に活動しているのです。そういうことで、睡眠時間が少なくなる可能性もあります。昔々のお坊さま達は睡眠時間は短かったですね。お釈迦さまは眠ることに対してけっこういろいろとおっしゃっていますからね。
よく寝たりすると厳しく怒られるんですよ。ですから眠くなるのは最初だけ、つまり煩悩がたくさんある間だけなのです。
煩悩の活動が少なくなってくると、睡眠時間が短くなります。
そうすると、1日の時間が長くなりますね。いろいろなことができますね。でも毎日が長いと退屈するかもしれません。
何かやらなければ、大変なんです。ただ自分の部屋で眠気もないのに、じーっとしているのはつまらないでしょう。瞑想するか、何か仕事をするか、いずれにせよ、とても行動的にならざるを得ません。それに時間というのは大切に使わなければなりません。時間の無駄遣いに関しては仏教ではものすごく厳しくいさめているのです。たとえばお釈迦さまは比丘たちを集めてお話しされますが、人は集まるとすぐ、「元気?」「いや私は…」としゃべりたくなるでしょう。そういったこともものすごく批判しているのです。やるなと言っているわけではないが、お釈迦さまは間接的に、出家までして、お互いに人と仲よくすることをありがたがっておしゃべりして、そんなことは時間の無駄遣いだとおっしゃいます。しゃべるならば意味のある言葉を、相手にとって役に立つ言葉だけをしゃべって、あとは黙っていろと言われるのです。時間というのは貴重なもので、我々は瞬間瞬間に死んでいきますから、やはり必死でがんばらなくてはなりません。ですから睡眠時間を少なくしてでもがんばる、行動的でいるべきだということなのです。
ですからお坊さま達が、自分の瞑想修行は終ったから、これからよく食べてよく寝て…というふうにはならないのです。
たとえば瞑想はかなり成功しているというお坊さまが必ずしも教えることが上手というわけではありません。そうするとその代わりに掃除はするわ、台所の面倒はみるわ、からだが汚くなるまで走り回って、とにかく時間はみんなのために使おうと動きまわっているのです。普通の暮らしをしている人間にとっても、やはり時間は無駄に使わず、何かの役に立つように使う、寝る時間も控えて人々のために使うならばそれはすばらしい。あるいは自分のために使うこともすばらしい。どちらでもすばらしいのです。
睡眠時間が少なくなったところで、何もやることがないのなら、睡眠時間が多くあった方がいいかもしれませんね。ですからそういうことではなくて、いつでも充実して行動できるような人間になることが大切なことなのです。自分がいつでも何か充実したことをやっているということ。何もやることがなければ道路の掃除でもすれば役に立ちますからね。ゴミでも拾ってごみ箱に入れればいいでしょう。まあやることがないわけはありません。なんでもいいのです。やればいいのです。
ヴィパッサナーを続けているのですが、このごろ夜になると虚しいのです。何かわからないが、虚しさを感じるのです。
自分の状態を客観的に観続けていくと、怒りも抑えられてきますよね。そうすると虚しさみたいなものも生まれるのです。
その「虚しさ」にもちゃんとサティを入れておくと、それも自然と消えます。あまり考えあぐねないことです。
どういうことかを説明しますと、これまでは自分の生きがいが「怒り」だったのです。なにくそと、負けないようにがんばる。相手を負かして勝つ。その怒りという生きがいのためにがんばっていたのです。それで他の苦しいことを全部忘れていたわけです。まあ、苦しいことが生きがいなわけですから。それが消えてきた状態ですね。でも生きがいが全部消えてしまったらちょっと寂しいですよね。ですから新たな生きがいを持ってください。つまり自分を発見することを自分の生きがいにしてみるのです。苦しむことではなく、自分を発見していくのだと。「自分」「自分」で観るのではなく、自分のからだと心をあくまでも実験台、実験の対象として観る方がよい。心に対する執着をちょっと捨ててね。科学の世界で、実験台としてモルモットなどを使うことを知っていますね。モルモットを実験台にして、科学的な論理を発見しようとするのです。
私たちも、からだと心を実験台にして、真理を発見するようにすれば素晴らしいと思います。実験ですから、実験に必要ならばモルモットを洗うこともするし、必要でなければ洗わない、必要ならば餌をあげるし必要でなければ餌もあげないというのがやり方です。からだと心を実験するときも、真理を発見できるようにいろいろ工夫していかなければなりません。実験の方法は、ただ確認することです。ですから怒りを見て、「あ、あの怒りはいけません」と思うと実験にはなりません。
実験者にとっては、「怒りだ」と確認することだけが仕事なのです。何か気持ちのいいことがあったから「ああ気持ちいいや。この調子で行こう」というようなことではないのです。
たとえば動物のからだにたばこがどんな影響を持つかという実験をするときに、ものすごく大量のたばこを動物に吸わせる。そこで「ああ、これはかわいそうだ」と思ってしまったら、実験はできません。そういういいことも悪いことも何も考えず、何も感情のない心でひとつひとつ確認していくようにすれば、瞑想は進んでいきます。
客観的に観ようとはしているつもりなのですが、瞑想はなかなか進んでいるようには思えません。
科学実験と同じく、すぐに答えを出そうとあせらない方がよいのです。あせって何か結論を出してもそれは正しいとは限りません。自然に答えが出るまで、自分という実験台に向かって確認し続ければよいのです。