あなたとの対話(Q&A)

今の瞬間に幸福を得る方法

先月のお話の中で、幸福は「今」得るものだというお話がありましたが、目標に向かって苦労し、結果、幸福を得るという考え方はおかしいのでしょうか。

一生懸命苦労して、畑を作って、後で結果として作物が採れる。土をいじって、肥料をあげ、水をあげ、雑草を取る。つらい重労働でも、やらなければならないからやる。なぜならば結果として、いろいろな作物が採れて、自分のもとに入ってくるのだから。その目標のためにがんばる…。ずっと苦しんだら、ちっぽけな幸福が出てくる。会社の仕事にしても、1ヶ月間仕事をしたら1回だけ給料をもらう。そしてそれはすぐ消えてしまう。毎日苦労して、幸福の瞬間はほんのわずか。それが世俗的な論理なんですね。一般的に考えられている生き方でしょう。

それを仏教の考え方で考えてみると、畑を作ることも幸福であって、水をあげることも幸福であって、肥料をあげることも、雑草をとることも幸福、そしてどんどん成長を見守っていることも幸福であり、実ったところで作物を取り入れることも幸福、そういうふうに、全部が幸福でなければならないと考えるのです。苦しんでからの結果の幸福ではなくて、道自体も楽しい道でなければなりません。一般的な生きる道と、仏教的な生きる道の差を、頭でだけでも理解しておきましょう。

どこかに面白いところがある。誰でもそこへ行って遊びたい。では行こうということになると、道中の乗り物も楽しいし、旅の途中で食べるものも、見るものも、楽しいし、寄り道したり、みんなで歌ったり踊ったりして行くこと自体も楽しい。そして、目的地に着いたら着いたで、また楽しい。仏教というのはいわばそんな道なのです。仏道というのは、たとえわずかでも苦しいものではないのです。もしも苦しいというならば、我々がどこかで、何か、固定観念に引っぱられているということなんですね。

先月、人が苦しみを感じると、脳が毒(身体に悪い物質)をつくり出して、身体や内蔵までダメージを受けてしまうが、脳は身体を喜びで溢れさせ、身体にいい影響を与える物質も作ることができるのだというという話をお聞きしました。もう少し詳しく教えてください。

人間には、栄養の取り方がいくつかあります。食べるご飯もその一つです。人間の栄養のひとつは普通にいう食べるもの。もうひとつの食べものは、目、耳、鼻、舌、身、に触れるものです。見るもの、聞くもの、それも仏教では「食」「食べもの」というのです。耳に触れる音も、目に見えるものも、鼻に触れる香りも食べものなのです。栄養です。その栄養を得て、身体が活動するんですね。今、アロマテラピーというのが大変人気ですが、ある香りが鼻に触れると、気分が良くなって、元気になって、異性でも追いかけていこうかという気になるとかで、ま、ただそれだけのことですが、そのように香りも身体のひとつの食べものなんですね。それらをまとめて「触」とも呼びます。

次にくる人間の食べものは、頭の意志ですね。何かやらなきゃ気が済まないという、いつも何かやりたいという気持ち、それも食べものなんです。行動するためのエネルギーというのは、その、「やりたい」という意志そのもの。それが3番目の食べもの。

4番目の食べものは、心そのものなのです。心そのものというのは、自分自身が栄養となって、次の心を作る。それはちょっと理解が難しいかも知れません。

それで我々の脳細胞に、そういう食べものが入ってくるんですね。入ったら、脳工場で何を作るかといえば、不快感の物質をつくるのです。それはひどいものです。だから人生は苦しくなってくるのです。この工場というのは、普通の工場と同じく、売れるものは作るのです。売れない品物は作りません。工場で品物を作ったら、よく売れる。それでまた、材料が入ってくれば同じ品物を作るでしょう。では全然注文がない品物についてはどうなるでしょう。その工場は倒産しちゃうんですね。つまり、我々の心の中で、幸福を作る工場がもう倒産しているわけです。ですから我々がおいしいご飯を食べても、どうも幸福にはならないんですね。その代わりに、血圧があがったり、脂肪がたまったり、ストレスがたまる。音楽を聴いてもストレスがたまる、いろいろなものを見てもストレスがたまる、人としゃべってもストレスがたまるし、仕事をしてもストレスがたまる。

ということは、快感を作る工場は倒産していて、不快感を作る工場だけが活発に活動しているということです。
栄養が入った分だけ、どんどん苦しみの物質、不快感の物質をつくってしまうのです。

実際の我々の生活の中での、具体的な例があれば敢えてください。

たとえば、誰にでも文句をいう人がいますね。誰にでも、何にでも文句をつける、ケチをつける。そういう人は、その不快感を自分の生きがいにしているのです。極端な話でいうと、お嫁さんのすることすべてに文句をつける姑がありますね。このような場合、何か文句をつけるところがないか、探して探して、わざわざ見つけて文句をつけているのです。
子供のすることにカンカンになって怒っているお母さんがあって、とにかく叱る、叱る。父親が子供のしたことだからまあいいではないかと言うと、父親にまで爆弾を落としてしまいます。あなたは黙っていなさい! と怒り心頭です。何を言っても結果は同じなのです。きれいなメロディでも聴けば落ち着くだろうかと思って、父親がステレオをかければ、何やってるんですか、こんな大事なときに、などと言って、ステレオをぶん殴って壊してしまうかも知れません。第九を聴いたからといって、気持ちよくなるかというと、そうはならないのです。このような場合、脳の工場が怒りを作ることにしか活動していないのです。

お話はよくわかりますが、どうすれば怒りばかり作る工場から、幸福を作る工場に変えていけるのでしょうか。

その方法が瞑想なのです。瞑想とは、不快感を作る工場を、どんどん倒産させることなんです。そして快感を作れるようにするのです。こちらの品物もたまには売れるということになると、脳工場の方でもたまにはそれを作らなければなりません。それをどんどん注文するようにすると、脳は快感を作り始めます。快感の物質と不快感の物質は一度には作れないので、快感を作り始めたとき、もう片方の工場は一時ストップするのです。そこで工場がどんどん快感の物質を作るようになると、不快感の工場は停止しなくてはなりません。注文がないわけですからやがてその工場は倒産して終わってしまうのです。ですから、楽しく生きている人は、何を見ても楽しいわけですね。たとえば子供が何かやらかしたら、お前とんでもないことをよくやってくれたなあ、と笑っちゃうんですね。お金がなければ納豆とご飯だけで楽しむ。毎朝毎晩、様々な納豆料理を工夫して開発して楽しんじゃうんですね。

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