No.231(2014年5月)
ウェーサーカとは花まつり
花はこころを真理に目覚めさせる Beauty reveals evanescence.
経典の言葉
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章
- Vassikā viya pupphāni
Maddavāni pamuñcati
Evaṃ rāgañca dosañca
Vippamuñcetha bhikkhavo
- 萎れし花を散り落とす バッシカー草※のごとくにも
貪り瞋りを 捨てよ 比丘たち ※ジャスミン - 訳:江原通子
- (Dhammapada 377)
成功することが楽しい
五月はウェーサーカ祭の月になります。ウェーサーカ祭とは釈尊祝祭日です。お祭り好きな仏教徒にとっては最高にありがたいお祭りになります。仏暦は五月の満月から始まります。ウェーサーカとは、その月の名前です。人間が何かの目的をめざして努力して、その目的に達したら、たいへんな喜びと充実感をかんじるのです。感激するのです。努力が実ることが、人間にとっては喜びなのです。努力しても結果が無く失敗したら、悲しみに陥るのです。ひとは努力するならば、結果が現れるまであきらめず精進するべきです。これはお釈迦様の言葉です。
最高の成功を祝いましょう
輪廻転生する生命にとって最高の目的といえば、輪廻転生を脱出して解脱に達することになります。他のすべての目的の価値は、これ以下です。結果も一時的です。この世で最初に最高の目的に達したのはお釈迦様です。それからその方法をお釈迦様が我々に説かれたのです。ですから、お釈迦様の成道はすべての人間にとって最大の出来事になります。お釈迦様の教えを実践しない・信頼しない人々が関係ないと思われるのは当然のことですが、仏教徒にとっては、お釈迦様の成道より優れた聖なる出来事はありません。ウェーサーカ祭は基本的に、成道を祝う法要なのです。俗世間的な祭りをするよりも、その記念日に皆、修行しようと励むのです。それに加えて、お釈迦様の降誕も同じ日に祝うのです。それがお釈迦様にとって輪廻転生の最後の生まれだからです。この生まれで、無限の輪廻を終了するのです。ゴール・目的に達するのです。覚りをひらくという出来事が最高のゴールに達することであるならば、最後の挑戦に必要なすべての資格を揃えて菩薩として人間界に生まれることは、当然、最大の出来事です。覚りをひらいてから肉体の寿命が終わるまで、皆に真理を語りながら遊行の生活をなさったのです。八〇歳になったところで、お釈迦様のお身体の機能は停止したのです。偉大なるお釈迦様の場合は、亡くなったとは言わないのです。般涅槃されたと言うのです。死という言葉は輪廻転生する一般の生命に使う単語です。ですからお釈迦様が亡くなられたことも、最終的なゴールなのです。というわけで、南伝仏教ではウェーサーカ祭に降誕と成道と般涅槃という最大の出来事三つをまとめて祝うのです。仏教徒にとっては新年なので、皆に新年の挨拶もするのです。仏暦二五五八年になりました。お釈迦様の無量の慈しみの祝福が皆様にありますようにと誓願いたします。仏法僧に護られているという確信があれば、いかなる悩みも乗り越えて平安に過ごすことができるのです。
花見の見方
いま五月のパティパダーの巻頭法話を書いているところです。しかし今日は、四月一日です。東京の桜は満開になっている日です。ゴータミー精舎の前に桜並木があります。満開でとても美しいです。ふだんあまり人のいないこの細い緑道が、今日は多くの人々で賑わっているのです。みな花見を楽しんでいるのだと言うのは、表向きの話です。食べるものとお酒をたくさん持ってきて、ゴータミー精舎の前で飲んだり食べたりして遊んでいるようです。落ち着いておとなしく花を楽しむ様子は見えません。みなお互いに仲良く遊んで、興奮して楽しんでいることだけは確かです。花の美しさは後回しです。
私も顔をあげて桜並木を見ました。花が一斉に咲いていました。美しい光景でした。しかし、満開の日なのにチラチラと花びらが粉雪のように落ちているのです。地面を見ると散った桜の花びらでじゅうたんのようになっているのです。桜の花は力いっぱい咲いて、次に散って落ちるのです。満開の花を見て楽しむべきか、粉雪のように落ちる花びらを見て楽しむべきか、という疑問が生じます。生を楽しむのでしょうか。それとも死を楽しむのでしょうか。疑問でしょう。
感情を追って走り回る
何かを見て楽しむ。何かを聴いて楽しむ。何かを味わって楽しむ。こんなのは二十四時間やっているのです。それでも満足できず、お祭り・記念日などの言い訳を作って楽しむことにもするのです。お祭りであろうが、記念日であろうが、普通の日であろうが、やることは結局同じです。食べて飲んではしゃいで、楽しもうとするのです。時に特別な服装までするのです。要するに、眼耳鼻舌身に刺激を与えて興奮しているのです。この興奮状態に、仏教は「欲」と言うのです。眼耳鼻舌身に刺激を与えても、期待する興奮が生まれない場合もあります。美味しいと思って食べたものが、不味かった場合もあります。美しいだろうと思って聴いた音楽が、歌い手が音痴でうるさかった場合もあります。期待が外れた時は、気持ち悪いのです。それは仏教用語で「怒り」と言うのです。欲の興奮を期待すると、欲の興奮が現れる場合もあれば、期待が外れて怒りの刺激が生まれる場合もあります。
我々にとっては、花が咲こうが咲くまいが、季節が春になろうが夏になろうが、ぜんぜん関係ないのです。どんな刺激が生まれるのか、ということに興味があるのです。ですから春夏秋冬に合わせて、刺激を得る方法を変えるのです。春の祭りと冬の祭りが変わってしまうのは、そういうわけです。結婚記念日は、憶えておいても忘れてしまっても大したことではありません。しかし、刺激を期待しているならば大変な問題が起きます。奥さんが結婚記念日に高級レストランでごちそうを食べる計画を立てたのに、旦那さんが結婚記念日を忘れたら、必ず夫婦げんかになります。結婚記念日を忘れると幸せな家庭環境は築けません、という話ではないでしょう。しかしそれぐらいのことが原因になって、離婚まで発展する場合もあります。問題はどこにありますか? 欲の刺激を期待したのに期待が外れたのです。代わりに怒りの刺激が生まれたのです。欲の刺激があれば、互いに仲良くします。怒りの刺激があれば、互いに喧嘩します。別れます。
求めるのは欲、得るのは怒り
このポイントは、みな無視しているのです。我々は欲の刺激を求めて生きているのです。ものごとは希望どおりに行く回数より、希望どおりに行かない回数のほうがはるかに多いのです。ですから、欲の刺激を求めて生きているが、結果として怒りの刺激に潰されることになっているのです。生命は刺激依存症で病んでいることに気づかないのです。その状況を無視するのです。無視したほうが楽だと思っているのです。これが仏教用語で「無知」という感情です。
世界から刺激を求めて失敗する
生きるとは、他のなにものでもなく、貪瞋癡の感情を求めて走りまわることです。もう一つ、勘違いするところがあります。期待する欲は外の世界が与えるものである、と思うことです。高級レストランであるならば、コックさんが有名な人であるならば、はちゃめちゃ楽しめるでしょうと思っているのです。たとえば高級レストランに行ったとしましょう。その日は有名なシェフが病気で休みを取っているとしましょう。しかし、見習いの人がメニュー通りに料理を提供します。シェフが休みだと聞いても、ていねいに歓迎されたにも関わらず何も注文しないで帰ることなどできません。見習いのコックさんの料理を食べます。感想はいかがでしょうか? 普通だったか、それほど美味しくなかったか、どちらかです。もしかすると、見習いの人の料理もシェフの料理となんの変わりもないかもしれません。シェフが出勤しても、料理はいつも見習いの人々にやらせているかもしれません。欲の刺激は外の世界が与えてくれると思っているから、外の世界に依存する羽目になるのです。高級レストランも高級服も高級車も豪邸も高級住宅街も必要になります。ありとあらゆるものに依存して、身動きができない状態でみじめに生きることになります。怒り憎しみ嫉妬などの悪感情で人格も壊れて、精神的にも病気になる場合があります。その時も見事に、原因は外にあるのだと言い張るのです。欲を期待して生きようとしたのに、うまく行かなかった。期待が外れた。怒りが湧いてきました。なんの躊躇もなく、「あの人のせい」だと言うのです。それをまとめてみると、親の躾が悪かった、親が厳しかった、学校の先生の態度が悪かった、会社の上司の性格が悪かった、仲間の態度が悪かった、政府の対策が悪かった、世界情勢が悪かった、環境が悪かった、云々を言うのです。
刺激はこころに勝手に現れる
このような情況は勘違いもいいところです。貪瞋癡という感情は主観的なものです。自由自在に操ることができるのです。外の世界は関係ないのです。桜の花が咲いていなくても、ゴータミー精舎の緑道に酒や食べ物を用意して仲間を呼んで夜遅くまで楽しむことはいつだってできるのです。おにぎりを「なんだ、おにぎりか」という気持ちで食べることも、「これはけっこう美味しいのだ」という気持ちで食べることもできるのです。自分の気持ちを自分の都合で変えることができるのです。雪が降ったと悩むことも、楽しむことも、アプローチ次第です。
妄想して自己破壊へ進む
感情は主観的なので、自由に操ることができます。人間がこれをまた間違った方法で使っているのです。欲の妄想ばかりをして、病気になってしまうのです。たまたま異性が目に入ったら、欲が現れます。それから妄想で欲を繁殖させます。名前も知らないその人に欲をいだきます。その人は私のことが好きでたまらないと妄想します。ストーカーになります。相手が「あなたのことは知らない」と言ったら、その人を殺してしまう場合もあります。私たちは妄想して、怒り・嫉妬・憎しみなどの感情を繁殖させて、不幸になる場合も大いにあります。
欲の感情(貪瞋癡)を外の世界が与えてくれるのだと勘違いして、世界に依存します。苦労してみじめに生きる羽目になります。実は感情は主観的です。外の世界は関係ないのです。これを勘違いして、妄想するのです。貪瞋癡が繁殖して、精神的な病気にさせるのです。自己破壊に追い込むのです。このような問題はなぜ起こるのでしょうか? 生命ははじめから「無明」だからです。
無執着は正しいアプローチです
ですから満開の桜の花を見て、無知で感情的に興奮するのは正しくないのです。咲いた花は美しいのです。人間の目に美しく映るのです。桜の樹にとまっているカラスさんにとっては、桜の花はどうでもいいことでしょう。人がこぼした食べかすには、興味があるかもしれません。美しいのは花だけではありません。花びらが散って、花が死んでいるのです。落ちる花びらも美しいのです。どちらも瞬間的な出来事です。執着してしがみつく必要はありません。執着してしがみつくことは、本来は不可能です。不可能なことをやろうとするから、なおさら苦しくなります。ですから、貪瞋癡の感情を引き起こすのではなく、桜の花の美しさは瞬間の出来事であると理解したほうが正しいアプローチになります。瞬間だから、面白いのです。無常だから、美しいのです。無常だから、それに執着できないのです。美しくないと思うものにしても同じことです。悩んだり怒ったりする必要はありません。瞬間の出来事です。
揺れ動くこころ
そのように観察すると、発見する事実があります。こころが弱いのです。無常なる外の世界の変動によって、我がこころが揺らいでいるのです。こころに無知があるから、美しいものはいつも変わらずそのままでいて欲しいという、とんでもない、あり得ない期待をするのです。現実から見事にずれるのです。このこころの弱みを何とかしなくてはいけないのです。眼耳鼻舌身に触れる色声香味触の情報によって揺れ動くこころを安定させたほうがよいのです。こころは陸上に投げ捨てられた魚のように跳ねまわるのだと、お釈迦様も説かれました。
インドでもっとも愛される花はジャスミンです。いくら嗅いでも飽きない香りを持っているのです。神々に供養する時は、花を差し上げます。最高のレベルで供養したい場合は、あえてジャスミンの花を探します。ジャスミンの花はとても小さいのです。夜咲くのです。朝になると枯れるのです。(枯れても香りは消えません。)ある修行中の比丘たちが、咲いているジャスミンの花を見たのです。人々にとても愛されているこの花は、みるみるうちに散って落ちるのです。この姿にあわせて、自分のこころも観察したのです。樹から花が散って落ちるように、自分のこころから煩悩が落ちて無くなるようにと励まなくてはいけないと、覚悟したのです。
お釈迦様はその気持ちを認めて、このように語られました。咲いたジャスミンの花が散って落ちるように、こころに現れる欲と怒りを落としなさい。
今回のポイント
- 生を楽しむのか死を楽しむのか
- 刺激を求めることが生きることです
- 生命は外の世界に間違って依存しているのです
- 妄想して自己破壊を招くのです
- 智者は世の美ではなく世のはかなさを観察します