あなたとの対話(Q&A)

認知症の母との関わり方/集中力と実況中継/What can I do?”私になにができるのか?

パティパダー2014年9月号(204)

認知症の母との関わり方

認知症の母親の症状が、年々ひどくなってきています。病気であることは分かっているのですが、家族としてどのように割り切ればいいのか悩みます。どのようにすればいいか教えください?

お母様の「新しい人生」を尊重しましょう

 我々には、誰でもしてしまうある間違いがあります。本人が認知症になっても、私たちは本人が変わっていない、変わってほしくない、という気持ちを持っているのです。例えば、昔と同じように立派な母親であってほしいという希望があるのです。これでトラブルになるのです。
 
 もう、昔のお母様ではないのです。人間の人格というのは、知識(記憶)のレベルで決まります。前の知識は忘れてしまったのですから、見てほしいのは今いる人なのです。いまどのレベルで理解能力のある生命体なのかということです。
 
 わかりやすく言いますけど、いろんなものを忘れても、ある一部は憶えているのです。この一部の記憶でその人の年齢が決まるのです。例えば本人が30代の記憶をしているなら、本人はその30代だった世界にいるのです。その時、あなた(子供)が生まれていなかったなら、あなたは息子・娘ではないのです。残念ですけどね。例えば20代まで戻ったなら、子供が顔を見せても「あなたは誰?」と聞くのです。それに驚く必要はないのです。それは冗談でとって、私たちは隣に住んでいる知り合いですから仲良くしましょうと、それでいいのです。自分の名前を紹介して、憶えてくださいと頼めばよいのです。
 
 そのようにして、認知症になった方々の新しい人生に、私たちが合わせなくてはいけないのです。家族の感情もありますから、これは結構難しいのです。子供や家族にとっては、やはりお母様やお父様ですから。こんなからかった態度を取っていいのか? という気持ちもありますが、それはからかっているわけではなく、正しく看病する方法なのです。


集中力と実況中継

冥想実践をしています。実況中継はうまく行く場合も、そうでない場合もあります。集中して冥想できていると思うとき、実況中継を忘れていることがあります。集中できていると感じているなら、ラベリングをしなくてもいいものでしょうか?

冥想のチェックポイント

 実況中継できない状態ということは、集中力はまったくないのです。なんのことなく淡々と実況中継しているならば、その時は集中力があるのです。ですから、さらさらと実況中継ができる場合は集中力がある。実況中継ができなかったときは、集中力の一欠けらもなく、ほとんど脳が機能しない状態、いわゆる睡眠状態になっているのです。
 
 苦労して、とにかく実況中継するぞと頑張っている場合は、当然集中力は弱いのだけれど、本人が精進している。実況中継できる状態ではないのだけど、頑張って、歯を食いしばって、実況中継している。集中力はまだ出来ていないのですけど、でも頑張っている。ですから、そこだけはマルです。実況中継は上手くできていないのです。
 
 実況中継がさっさと出来ている場合は、集中力もあって、実況中継も上手くいっていて、それは二重マルです。
 
 集中力がありそうなのですけど、あまり実況中継をやっていないという場合は、これはバツです。それは睡眠状態に入っています。脳が、この嫌な仕事をサボろうとしているのです。

脳は巧妙にサボろうとする

 そのような心の働きは、普通の人間には理解できない難しいところなのです。サボる場合は、嫌だからサボる場合もあります。あるいは、これは後ででもできることで、もっと大事なことがあると言って、そのように別なことをやる場合もあります。「サボってません、先にこっちをやってからやりますよ」というふうに言い訳するのです。それもサボっていることなのです。
 
 ですから、脳がどんなカラクリをするのかということは、結構本人には分からないのです。冥想を止めたというふうに決めると、何となく自己嫌悪に陥るのです。そこを誤魔化すために、いま集中力があるんだから実況中継しなくてもいい、とする。そうすると自己嫌悪に陥らないでしょう。いま起きているのは、その状態なのです。つまり、脳がサボろうとしているのです。このような現象は、修行の流れで普通に起こり得るものです。当然、頑張るといろんなトラブルが起こるのですから、これもひとつのトラブルにぶつかったことなのです。それだけの話であって、そこを乗り越えればよいでしょう。

実況中継は修行の命綱

 ということで、自分には集中力があるのだと感じても、気を緩めず、実況中継するのです。実況中継し続けると、自分は集中力が上がったのではなく、心が冥想を嫌がっていたのだ、と発見できるはずです。
 
 もう一つ注意するべきポイントがあります。時々、実況中継って面倒臭いと思ったりしますよ。そのとき、その状況を自分で正当化します。「ヴィパッサナー実践とは、感覚に気づくことです。感覚を観察することです。言葉のラベルを貼って実況するのは、初めはよいかもしれませんが、感覚を感じられるようになると、煩わしい作業になります。すべての感覚に丁寧に言葉のラベルを貼ることは不可能です。ですから、言葉を使わずそのまま感じていればよいでしょう。」このような考えが浮かぶのです。これもよく起こる現象です。心は実況中継しないでサボりたがっているのです。

 サボったら心の成長もストップします。実況中継は、冥想が脱線しないで進むようにできているガードなのです。修行の命綱なのです。心が嫌がっても、サボりたくなっても、実況中継をしなくてはいけないのです。

なぜ心は成長を嫌がるのか?

 なぜ心を成長させる実践を、心が嫌がるのでしょうか? 心は喜んで協力すればいいのではないでしょうか? 理論はその通りです。では子供に、「ゲームばかりやらないで宿題しなさい。お稽古事をやりなさい」と言ってあげてください。子供は、「これは私にとってとても必要なことである」と、喜んで頑張ってくれるでしょうか? 違いますね。子供は、「嫌」という反応をします。「あとでやります。いまは疲れています」等々の言い訳もするのです。心を成長させようとしてヴィパッサナー実践を行なうと、心は協力するどころではなく、巧みに実践を壊そうとするのです。「心は成長したほうがよい。智慧が現れたほうがよい。心の汚れが無いほうがよい」と、心は分かってないのです。心は今まで、貪瞋痴の衝動で活動してきたのです。貪瞋痴にはよく慣れているのです。貪瞋痴と関わりのない作業には馴染めないのです。

 心はいろいろ苦労して冥想実践をサボろうとしているのです。修行者はそれを発見して、感情に負けず精進するのです。修行中は幾度もやる気を失うのです。そのとき、心が何をやりたがっているのかとチェックしてください。メールをチェックしたい、一休みしたい、少々仮眠したほうがよい、実況中継をやめてそのまま観察すればよい、涼しくなるまで待てばよい、今日は休んで明日早くから真剣に行えばよい……のような答えが出ると思います。心は肉体中心に生きる貪瞋痴の世界に戻りたがっているのです。

 心は修行に反対するものだと理解したほうがよいのです。子供は勉強が嫌いなのと同じ情況です。それに負けたら、元も子もないのです。精進しましょう。


“What can I do?” 私になにができるのか?

以前うかがったご法話の中で、「What can I do?」と常に考えるというお話がありました。仕事をしている時に、常に意識するようにしているのですが、何ができるのかすぐに浮かばず右往左往してしまう時があります。どのような努力をすれば、何ができるか素早く思い浮かぶことができるでしょうか?

それは必ず目の前にあります

 考え過ぎです。常に我々は「What can I do?」、「私になにができるのか?」ということを呪文のように頭に入れてほしいのです。この呪文は役に立ちます。
 
 しかし、これは大袈裟なことではありません。この瞬間で、なにができるのか? ということなのです。ですから、少し先を考えて、あれこれと妄想したりすると、右往左往することになるのです。私でも、これから5年間で私になにができるのか? と考えると、頭が混乱してなにもできなくなってしまうのです。ですから、それは考え過ぎです。
 
 いま私が考えるのは、この質問にどのように答えればいいのか、ということだけなのです。次は分かりません。次に私は倒れるかもわかりません。そうなると次の質問に答えられなくなってしまいます。ですから、次の質問にまで準備していても無駄です。
 
 ですから、これは今の瞬間でなにができるのか、ということなのです。すぐに見えてくるのです。今やるべきことは、必ず目の前にあるのです。全然、大袈裟なことではないのです。いたって簡単です。例えば、目の前のペットボトルを倒してしまったら、そのペットボトルを起こすだけでしょう。そんなにすごいことではありません。難しいことですか?
 
 仕事中、隣の人のファイルか資料が床に落ちたら、それを拾って「はい、どうぞ」と渡す。それだけのことなのです。人生は簡単過ぎです。妄想しているから生きていられなくなっているのです。今のことに集中して生活するならば、生きることほど簡単なことはないのです。

妄想だらけの人生は複雑に見える

 人生が複雑に見えるのは、現実的に生きることをしないで妄想に拭けるからです。ひとの人生がどれほど複雑なのかと発見したければ、その人がどの程度で妄想に時間を浪費しているのかと調べることです。妄想する程度によって、人生が複雑になって、右往左往するのです。そういう人は、却ってなにもやらないのですね。「やらなくては、やらなくては」と妄想しつつ、そのうえ他のことを妄想しているのです。ですから、更に人生が複雑になるのです。今やるべきことを今やっておかないと、人生は無茶苦茶になってしまうでしょう。勉強するべきときに、勉強していない。仕事をするべきときに、真面目に仕事をしていない。その結果、会社で立場が悪くなります。今更、他人のせいにしても解決しないのです。同僚に文句を言ってどうするのですか? その瞬間でやるべきことをやっておいたら、生きることはいたって簡単なのです。妄想に浪費する時間に注意すれば、なんのこともないのです。
 
 人生というのは、そんなものですよ。大袈裟に考える必要はないのです。子供の頃は勉強する。友達が来たら一緒に遊ぶ。年頃になってくると異性にも興味をもつ。気にいった人がいれば話してみる。友達にはなりたくないと言われたら、ああそうですかときれいサッパリ諦める。他の人にアタックしてみる。そのようにすれば、物事は淡々と進みます。妄想したり悩んだりすると、先へ進むことができなくなります。人生はなんでも成功するというのは、とんでもない妄想です。何をやっても失敗するというのも、また巨大な妄想です。ただやってみれば、アタックしてみれば、挑戦してみれば、よいだけの話です。妄想さえ無ければ、天真爛漫な生き方ができます。

「こうあるべき」も妄想

 旦那はこうであるべき、妻はこうであるべき、上司はこうであるべき、等々と考えるのは妄想以外の何でもありません。妻ならこうであるべきと、夫には夫なりの意見がある。妻はこうであるべきと、妻にも妻なりの意見がある。この二つの意見が、合致するはずがないのです。たとえ無理をして二つの感想を合併させても、実行は難しい。二人とも人間なのです。理想どおりには生きられないのです。元気になったり弱くなったりするのです。失敗したり成功したりもするのです。「こうであるべき」または「こうでなければいけません」という考えも妄想です。
 
 その瞬間その瞬間の出来事に、真っ向から対応すればよいのです。対応するとは、対立することではありません。その瞬間の現象において、「What can I do?」を実行するのです。それで全ての問題はシンプルになるのです。
 
 会社や仕事のことを大袈裟に考える人々がいます。必要以上に心配して、精神的に病気になる人もいます。仕事も、おもちゃ遊びみたいにシンプルなものです。私たちは考え過ぎです。私たちに与えられる仕事は、簡単にできることなのです。高校を卒業して大企業に入社した人に、企画部門の担当は頼みません。MBAにでも合格して、それなりの経験も持っている人であるならば、企画部門の担当を任せられます。その人にとって、それは簡単な作業です。

 医療に携わっている看護師さんにとって、看護することはお手のものです。しかし、診断すること、治療方針を決めることはできません。だれも頼みません。それにはその仕事を簡単にこなせる専門家が別にいるのです。世界はこういうふうに成り立っているのです。ですから自分が行わなくてはいけない仕事は、自分にできるものです。ややこしく考える必要はないのです。一応、世界はこのように成り立っています。

「将来」という危険な妄想

 妄想に「将来」という概念が割り込むと、とても危険なのです。人間は将来のことを考えたいのです。考えても、決してその通りにはいかないのです。他人のお世話になって死にたくはない、ぽっくり死にたい、子供の負担にはなりたくない、寝たきりにはなりたくない、等々のことは誰だって思っているでしょう。それは考えて悩んで損するだけで終わります。どうなるのかは誰にも分かりません。
 
 現実的な思考にもとづいて計画を建てたりすることは必要です。しかし、「将来」というものは、自分の計画どおりに現れるものではないのです。さまざまな原因が絡んでいるのです。ひとが現実的に思考しようとしても、その思考が将来という枠に入ってしまうと無駄な妄想に変わるのです。「現在」という枠を重視する時だけ、役に立つ思考になるのです。その「現在」も、単位が小さければ小さいほど、しっかりした思考になるのです。
 
 そういうわけで、「What can I do?」というのは、目の前で、今の瞬間でなにができるのか? ということなのです。そこで、今の瞬間にできることが無いと発見したら、「だったら休め」という判断になります。それだけです。仕事も終わりました。退社する時間にはまだなってないのです。仕事も終わったのに、皆と一緒に帰る時間になるまで待つのは苦しいのです。そこで、「今どうすればよいのか?」という呪文が入ってきます。では、皆が仕事を終わるまでゲームでもやれば、あるいは本でも読めばいいでしょう。仕事が終わったら潔く「ではお先に失礼します」と帰ればいいのです。それが出来ないなら、みんなに「お疲れ様」とお茶でも入れて配ればいいのです。仕事が終わってない人を助けることもできる。あまり大袈裟に考えなければ、いくらでもやることはあります。