あなたとの対話(Q&A)

子供への感情/比較の感情/盲目的な生/死者への祈り

子供への感情
私には2人の子供(6才、2才)が居りますが、その子達のことがとても愛しいのです。かわいくてなりません。仏教では、このような感情は子供への精神的な依存や執着につながる、注意しなければならないものなのでしょうか。だとすれば、どのような心で子供に接すればよいのでしょうか?

子供がかわいいのはどうしようもないことです。かわいいと思う感情から、からだの中に、子供を大事に育てるために必要なホルモンなどが分泌されます。かわいいと思わない場合は迷惑だ、うるさいのだといって子供が捨てられる恐れもあります。かわいいと思う感情で、人間のみならずどんな動物も、子育てをやっています。それは自然の法則ですから、仏教では、それを一概に否定するわけでもないのです。

問題は、「かわいい」という感情から執着が生まれて、子供が自分の所有物となってしまうことです。やがて自分のために、自分の夢をかなえるために、鬼のように必死になって子育てしようとしてしまいます。多かれ少なかれ、子育ての過程で生まれるトラブルの原因はこのことです。このような人々は、一人の人間としての、子供の生きる権利を奪っています。すべての生命は自由で平等ですので、それをよく頭に刻み込むようにすれば、間違いのない子育てができると思います。かわいい、かわいいと思って、楽しがって、遊んだり喜んでも一向にかまわないのですが、それよりも、慈しみの気持ちを、心に大切に育てた方がよいと思います。「慈しみの気持ち」というのは、子供に対して、幸せにすくすく育って一人前の人間になり、あとは自由に生きれば、それで結構です、と考える気持ちです。言い換えれば「私にはかまわないで、あなた方は幸せになれ」というような気持ちです。

比較の感情
自分が苦しいときなど、もっと不幸な他人のことを考えたり思い出したりして、(他人と比較して)自分の気持ちを軽くする、自分の幸せを確認するということが私にはよくあるのですが、これは、他人の不幸を喜ぶことにつながる、他人に依存する、否定されるべき生き方なのでしょうか?

それは応急手当のようなものです。問題の解決にはなりません。論理的にいうと、自分が不幸を感じるときは、それを乗り越えるために、世の中の誰かがより不幸になっていなくてはならないということです。他人が不幸になると、自分が幸せを感じる、というようなことではないかと思います。考えてみれば、これはちょっと恐ろしい気持ちではないかと思われます。

人生には幸も不幸もあるものですよ。それは、差異はあっても、すべての人間に、幸も不幸も苦も楽も回転していくものなのです。もし人が幸せ一筋だったら、皮肉なことに、それ自体も刺激がないと悩む原因になってしまうのです。一時的に不幸を感じても、「何ということもない、乗り越えてみせますよ。乗り越えられなかったとしても、そのうち消えていくものだ…」と思えば、精神的により強くなるだろうと思います。

盲目的な生
修行して人間として進歩するということに関係なく、ただ生きていたいと思うことーたとえばわかりやすくする為に、幼稚な例ですがーサバイバルをテーマとした映画などで、主人公たちが数々の困難を乗り越えて、ただ生き残ることに全力を尽くして必死になっている映画などを見ているとき、スマナサーラ先生の「サケの話」が思い出され、映画のテーマ「何としても生き残る」ということが色あせてしまうのですが、ただ生きていたいという姿勢は、仏教の教えでは意味のないことなのでしょうか?

「何としても生き残ること」は、誰でもしようと思っているごく当たり前のことです。動物の世界でも同じことをやっていますね。サバイバルと威張れるくらいの人生というのは、とてつもない不幸、危険などに遭遇してそれを乗り越えたという意味ではないでしょうか。しかし、何とかして生き延びたということは、人間としてそれほど自慢にはならないものだと思います。とにかく人間は死ぬまで生きていきますので、何かプラスアルファのものがあった方がよいと仏教は勧めています。死ぬときには何か獲得したものがあって(しいていえば、精神的な清らかさです)死ねれば、本当の意味で生きていてよかったと言えるでしょう。

死者への祈り
慈悲の瞑想法は、死者に対して行うことが禁じられていますが、亡くなった方に手を合わせて「冥福を祈る」ー私は、たとえば亡くなった小さな子供に対しては「天国で遊んでください」と念じる、祈ることがあるのですが、これは無意味なこと、誤った作法なのでしょうか?

死者を、感謝の気持ちで大切に思うことは、道徳であって、仏教はそれを否定するわけではありません。立派な生き方を成し遂げた先祖のことを思い、今の自分の人生を正すこともよいことでしょう。

でも、祈っただけで幸福になれれば何の苦労もないでしょう。死んだ人が幸せになって欲しいと思う気持ちは、死者には何の役にも立ちませんが、祈る本人にはやさしい気持ちが生まれますので悪いことではありません。死者のことを本当に大切に思うならば、自分が徳を積んで、その業のエネルギーを回向すればよいのです。仏教における冥福の儀式は、死者に回向する儀式です。

回向の儀式;誰かが亡くなったとき、行う儀式のことです。葬式の日、1週間目、49日目など、その文化において決められている記念日に、お布施などの善い行いをなさって、この善い行いの結果が亡くなった方々にありますようにと念じることです。亡くなった方の名前など、また、おじいさん、おばあさんなどの呼び名でも入れて念じる場合は、より気持ちが集中できます。もっと広い心で冥福を念じたければ、自分が思い浮かぶ死者の名前に付け加えて、すべての先祖も幸せでありますようにと念じた方がよいと思います。

いつ冥福を祈ればよいかという決まりはありません。葬式なのか、通夜なのかなどは文化的な決まりに過ぎません。それも国によって変わりますので、あまり気にする必要はないのです。毎日何か善いことをして毎日回向してもかまいません。自分が回向したからといって、徳の結果が自分から消えていくというものではありません。どんなに回向したとしても、その結果は、自分にもよい結果として報いられます。さらに他人に対しても優しい気持ちで回向したという善い行いの結果も付け加えられて、回向した本人がより一層幸福になります。

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