相手を思って嘘をつくことは良いことか
以前のPAṬIPADĀに「少しでも悪いことをしてはいけない、嘘をついてはいけない」という主旨のことが掲載されていたのですが、他人の嘘に結果的に荷担してしまいそうなことが明らかにわかってしまった場合、どのようにしたらよいのでしょうか。
仏教という宗教で教えられているのは「あなたが嘘をついてはいけない」ということです。「他人の嘘に結果的に荷担してしまう」ということなら話はまた別だとおもいます。「それは事実無根だ」と証明して自分の立場を守るべきではないでしょうか。他人の無責任な言動によって自分が損をすることは、残念ながら「徳」ではありません。それは、損をする自分が「無知」か「気が弱い」かです。このどちらもが「徳」ではなく「非徳」です。他人のせいで問題が起こりそうになったとき、自分がまちがったことをしていないと確信がある場合ならば、自分を守ること、弁論することもかまわないと、お釈迦さまが認められたケースが、経典に残っています。(この場合でも、時と場合を考えて行動することが望ましい。下手に弁論して逆効果になったら無意味ですからね)
嘘をつくことが、その人のためになる場合にはかまわないでしょうか。たとえば誰かからプレゼントをいただいて、自分にとってはあまり喜ばしいものでなくても、その人のその行為に対してはとてもうれしいと感じる場合、何と言えば相手を傷つけずにこちらの気持ちを伝えることができるのでしょうか。この場合、自分がもし言われたら…と考えればいいと伺ったように思うのですが、自分と他人の気持ちの持ちようが違うので、どうすればよいのかよくわかりません。
「嘘」はついてはいけません。真実を曲げることが、一体どのように知恵につながるでしょうか。ご質問の例を分析してみましょう。「自分にとって喜ばしい」プレゼントを希望すること自体が「欲」であり「わがまま」であって、あまり美しくありませんね。プレゼントというものは、あげる方の気持ちです。もらう側に「このようなものをプレゼントしなさい」と要求することは一般的にはできないと思います。(子供が親に言う場合がありますが、それは別です。その場合も理性のある親ならば「何をあげるかはこちらの勝手でしょう」と教えるでしょう)プレゼントをもらったならばそれは「気持ち」の表現ですので、その相手の気持ちに対して感謝すべきです。それは「嘘」ではありません。「あなたの気持ちも良くわかるし感謝もしていますが『コレハホントウニイランモンダヨウ』」と面白く言ってみても悪くないでしょう。でも、冗談はセンスの問題ですから、要注意。『嘘をつかない』ということは、真理、事実のみを語るという意味です。事実だからといって何でもかんでも無差別に語って、自分にも他人にも損を与え、迷惑をかけることは、罪です。人のためになるもののみ、語るべきです。語るべきか語るべきでないかを判断して、語るべきでないとわかったら、黙っていることが正しいのです。『嘘をつかない』ことは、知恵の浅い人には、とてもむずかしいことです。『害にならない』嘘はありません。たとえ他人に害がなくて見えても、言う本人に知恵が働いていません。『嘘をつかない』とがんばってみると、かなり頭が良くなります。
常に相手の立場に立って、相手の喜びを一緒に喜んだり、相手に合わせることをしていくうちに、相手(異性)から好意を抱かれてしまった場合、どうすればよいのでしょうか。
あなたのやり方は、良くなかったかもしれません。人に親切になることと、好きになることとはまったく別だと言って、諭してあげてください。親切にする場合、その相手は1人だけでなく多ければ多いほど良いのですが、人を好きになるときは反対で、1人だけのはずだと教えてください。
自分自身が、他人から良く思われたいがために、ついつい本来の自分と違う自分を演じているような気がします。そんな私は少しおかしいのでしょうか? そもそも本来の自分とは何なのかもよくわかっていないのだとは思いますが…。
少しおかしいどころではなく、本当におかしいです。他人によく思われたいと考えて行動すると、ストレスが溜まります。自分というものを失います。偽善者になります。他がほめてくれるなら何でもやる者になってしまう恐れもあります。そうなったら倫理観さえもなくなってしまいます。これは『自分の弱みを他人の誉言でごまかす』ことです。『他人依存症』とでもいうべきでしょうか。ほめられるか、けなされるかに関係なく、我々は他人に対して役にたつこと、良いことをすべきです。他人に依存していないのだから、やりにくいとき、疲れたとき、結果が悪いとき、自分でその行為をやめることもできます。人のことを気にすると、それはできません。『違う自分』を演じることもよくありません。やることは、いつも正直な気持ちでしましょう。しかしもしも、心が汚れている人にこのようなことを言ったら、とんでもないことになりかねません。ですから、やるからには、良いことしかしませんと決めた方がいいと思います。
小学生の頃から母が真言宗の師匠について信心させていただいていた関係で、私自身も仏教に関心を持ち現在(27歳)に至っているのですが、いろいろご指導いただいてきたにも関わらず、指導についていきにくくなってきています。自分の弱さから逃げているだけでしょうか。
わかりません。指導のせいの場合もあるし、自分で納得がいかないときもあるでしょう。自分で判断して、役に立つものならば、説教するのは鬼でも蛇でもかまいませんので、誰からでも真理、正しい生き方を学びましょう。非論理的なこと、非道徳的なこと、証明もしないで脅しで押しつける相手は、それが神であろうとも捨て去りましょう。私の話もそんな調子でお読みになってください。
6月号の掲載記事で、基準を捨てて相手に基準を合わせてみる…とありました。確かにその方が人間関係もうまくいき、些細なことで苛立ったり怒ったりしなくなると思うのですが、あまりにも合わせすぎると自分というものがなくなってしまうような気がするのですが、そもそも自分がかわいいからこう考えてしまうのですが、この考えを改めないとダメってことでしょうか。
改めなければならないことがいくつかあります。文字の意味だけにひっかかったら極論に陥ってしまいます。仏教は智慧の教えで智慧を発達させていくための道を指導しています。すべての苦しみの原因は無知(無明)です。智慧が現れたら、一切の束縛がなくなります。
説法としてお話するのは、(1)智慧の現れる方法 (2)智慧が現れるまで、苦しまない、悩まないための応急処置です。
自分の自我を出さないで、相手の気持ち、考え方、理解能力、価値観などを客観的に観察して欲しいのです。相手のことを理解してあげることで、人間関係の様々なトラブルが消えていきます。が、これは、『相手が正しい』ということでも『自分が正しい』という意味でもないのです。誰の考え方も主観であって、それがゆえに完璧ではありません。『ある条件の中で正しい』ともいえるし『ある条件の中で正しくない』ともいえます。
貪嗔痴の感情で生きている生命には、絶対的な、正しい答えを出すことは不可能です。が、一時的に、不貪不嗔不痴が働くときもあります。そのときの意見などは、真理にかなっています。ということは、人の意見などはほとんど正しくなくて、たまに正しいということです。相手が明確にまちがっているとき、欲に目がくらんでいるとき、怒りに混乱しているとき、無知で迷っているとき、その意見に合わせ、自分もまちがう必要はありません。『相手もやっているのだから、自分が相手に合わせただけです』と言い訳をつけて悪いことをしても、悪いことは悪いのです。『尊師の命令でしたから』『他の選択肢がなかったから』と言い張っても、オームで犯罪を犯した信者たちは、法廷で裁かれていますね。仏教における『業』の説明によると、病気で頭が狂ってしまって判断能力がなくなった場合以外は、行為に善悪判断ができるはずです。相手に合わせることは大変立派な行為ですが、無知でなさってはいけません。明確に悪いと思うものをきっぱりと断ることができるだけの自信が必要です。この『自信』とは、真理、論理に従うためであって、決して自我の主張のためではありません。両方によい結果がでるようにと、慈悲と智慧をもって相手に合わせるべきです。
相手に合わせようと自分なりに智慧を働かせて考えるのですが、世間の大多数が認めている基準でもどうしても理不尽と思えるものがあります。
世間で当然とされている常識や基準も、悪い場合は悪いのです。何千年もの長い歴史の中で定められている普遍的道徳観以外のあらゆる基準というものは、ケースバイケースで考えるべきです。たとえ日本が、西洋に合わせてNATOがユーゴを空爆することを容認しても、私からすれば、ミロシュビッチ大統領も悪人で、NATOがやっていることも悪行為です。もうひとつ例をあげると、女性に対する社会の見解は、200年さかのぼっただけでも大きく変っているのではないでしょうか。世間は、今良いと思うことを、平気で後には悪いと決める。ぐるぐる変っていきますから、一方的に世間の意見に従う必要はありません。ケースバイケースで考えるべきです。