体の病気・こころの病気/意欲について
体の病気・こころの病気
私は、ヴィパッサナー瞑想を3ヶ月前位から実践しております。普段は大分落ち着き、感情もコントロールしやすくなってきたのですが、 朝が病的に弱く通勤途中に電車の中で倒れるようになり、今では倒れるまでの心臓の苦しさが恐くて電車に乗れなくなっています。心臓が人より小さい事と低血圧程度なのですが、今の症状は気持ちの不安から倍増しているようです。そのようなとき、ギリギリまでサティを入れるようにしているのですが、否定的なラベリングが続いています。それでもサティを続けた方が良いのでしょうか?
続けた方が良いと思います。ただし、ラべリングは否定的でも肯定的でもなく客観的でなければいけません。否定的になると怒りの潜在煩悩が起動して実践者の現在状況がよりひどくなってしまいます。また逆に、肯定的になってしまうと潜在的な欲の煩悩が起動します。傲慢、自信過剰、希望,期待などが生まれてきて、精神的な成長と智慧の現われを妨げます。他人のことのようにラベリングして下さい。「この物体、身体にドキドキがある、厭な気持ちがある」のような気持ちで、態度で、ラベリングをしてみてください。質問者の方は、自分の体にこだわり過ぎだと思います。そうなると、こころが何時でも体に負けています。どうせ、苦しみしか作り出せない体なのに、その体を維持し守ろうとし、こころを奴隷にしています。体よりこころの方を大事にして下さい。「例え体が病弱で不自由であってもこころだけは病弱で不自由にならないように。たとえ体が苦しんでもこころだけは苦しまないように」励むべきだと言うのはお釈迦様のことばです。体は常に壊れていくでしょう。体は物体だからどうしようもないのです。また、死ぬ時には捨てるでしょう。変化しつつも、自分という現象を繋げていくのはこころです。体には歳があるけど、こころでは歳なんかは感じないのではないでしょうか? 体より、こころの健康を目指して下さい。「こころの安らぎ、落ち着き、平安、安定」を目指して下さい。それは客観的にものごとを観られる能力から生まれます。
「ドキドキ、ハラハラ、苦しい、不安に思っている…等」忘れたい事、厭な事、恐いものを見た時、ラベリングすると余計に印象づいてしまわないでしょうか?
主観的で、希望がある状態で、何かの現象がなくなって、代わりに他の現象が現れて欲しいと思ってラベリングするとこのようになる可能性もありますが、「失敗はつきものだ」と考えてポジティブにがんばって下さい。
以前、長老の法話の中に“何かから逃げる為に病気を作っている”というお話を聞いたことがありますが、その辺もお聞かせいただければ有難く思います。
この「何か」が大変な問題です。簡単に理解しにくいと思います.人によって、逃げたがる現象が違います。一般的には、人が実感している不安、自信がないこと、失敗しても自分は恥をかきたくないと思う高慢、自分より他の大きさを感じるコンプレックス(complex)(慢)、無知などが上げられますが、このようなものは悟らないかぎりだれにでもあります。ひとによって現れ方が変わりますがもとは同じです。実践を続けると徐々に理解できるようになりますので心配しないで下さい。又、過去生において、こころのコンプレックス(complex)がすごかったならば今生で、体が弱く出来あがることもあります。弱みに負けないでこころを強くする実践をなされば万事解決するだろうと思います。
意欲について
人が何か行動をおこす時って言うのは必ず何らかの動機・欲求があっての事だと思うのですがその〇〇したい・やりたいという感情は好ましくないものなんでしょうか?
何か行動を起こしたいと思っただけで、好ましいか好ましくないかは決められません。何か行動を起こしたいと言う意欲については、それに伴う他の感情によって良いか悪いかの倫理判定が成り立つのです。
例えば、怒り,嫉妬、憎しみ、恨み、欲望、傲慢、自我などの感情のいずれかと伴う意欲もまたその行動も不善です。慈しみ、不貪、不瞋、不痴などの感情と伴う意欲は善です。不善行為は好ましくないものですが善行為は自ら進んで行うべきものです。
そのような様々な感情を押さえるのではなく、 ”今、自分はこう感じているのだな”と観ていればいいのでしょうか?
不善的な意欲をこころの中で繁殖させるのは良いことではありません。「押さえる」のではなく「危険だ」、「不幸になる道だ」、「自己破壊だ」ともとらえて、消えてもらう方が理想的です。意欲自体については、善であれ、不善であれ、”今、自分はこう感じているのだな”と観ることは大切です。それは智慧の発達のために欠かせないものです。
”今自分はこうしたいと思っている”と観たあと、それを行動に移すなら、その都度気づいていけばそれで良いのでしょうか?
「観た」からといって「悪いこともジャンジャンやれ」という意味ではありません。「気づく」生活をする人に智慧が生まれてきますので悪行為自体が自然になくなって行きます。行動に移すべきなのは善行為のみです。そのときも気づく実践をすると、こころがより清らかになります。気づきの実践をしない時間というのは、智慧を押さえられて無知が天下を司る時間です。(自分のだらしのない生き方、感情に陥った生活を改善したくない人々もよく似たような質問をします。へえ?! 「気づく」と、「観る」とこころがきれいになるんですか? それなら、ラベリングしながら今までの生き方を続ければ一石二鳥ですね! …そのとき私の頭に浮かぶのは「そんなに甘くない」という一言です。気づく実践は智慧の現れのためです。悪は無知から生まれます。気づく瞬間には僅かでも智慧が働き出します。すると、その瞬間に悪がなくなります。「観ること」をしながら悪いことが出来ないと言うのはこころの法則です。かつて「私はお酒がだいすきですが気づきながら、ラベリングしながらならばお酒を楽しんでも構わないでしょう?」と質問されたことがありました。治るにも時間がかかりますから「ご自分で判断してなさってみてください」と答えました。でも、それは論理的に正しい答えではないのです。もし「観る」なら良いのではないかと思うならば、ラベリングしながら、確認しながら、気づきながら、観ているならば人を殺しても良い、原子爆弾を落としても良いことになります。法則は「観るならば」悪いことは起こらないと言うことです。もし人が「気づきの実践」をしながら、だらしのない生き方を続けているなら、その人の実践はインチキ、偽善行為にすぎないのです。今のご質問に直接関係がございませんが、このポイントも考えておいて下さい)
また、私は本を読んだり、映画を見に行ったりるのが好きなのですがそういうことは一時的な苦しみから逃れているだけで、そんな事をする時間があるのだったらもっと別の~例えば慈悲の瞑想~をしている方がホントは良いのかなぁとも思うのですが・・
私もその通りだと思います。でも「慈悲の瞑想」などの良いことも面白くなければやる気がでないものです。面白さ、充実感を発見しながら、またそれらが生まれてくるように工夫しながらなさるのがコツです。
本を読んだり映画を観たりといった趣味的なことは、それにとらわれなければかまわないのでしょうか? それともこれは単なる”甘え”ですか?
とらわれなければかまわないのですが、もうとっくにとらわれているのではないでしょうか。そう、単なる”甘え”です。お釈迦様の教えは「ガリガリ、ピリピリ」の修行ではありません。それは、「ワクワクの智慧の発見の道」なのです。本も読みたいし、たまに映画もみたいのです。でもそれは一時的な苦しみからの逃れだとも知っている。では何で馬鹿なことをやっているのかと自己嫌悪にもなってしまう…。つまり頭が根拠もなく勝手に作る理想に、現実は合わないということです。とりあえず、そのインチキな理想を捨ててはいかがでしょう? 蛇足ですが、「時間の無駄だなぁ、アホらしいなぁ」と思いつつも私もよくコンピュターで遊んでいます。反省もしますが、どうも三日坊主で。