あなたとの対話(Q&A)

仏教の中の女性差別③

先月、現代のテーラワーダ仏教に女性の出家者がいないことについて、いろいろお聞きし、ある面、よく理解できました。しかし当時の社会情勢を考慮した女性に関する戒律が、ただ何となく残っている慣習というのでもなく、テーラワーダの決まりによって積極的に残っている、そしてそれが現代女性の出家を不可能にしているというのですから、ある意味で釈迦尊の時代の男女差別より深刻ではないでしょうか。少なくともゴータミー妃は、比丘尼が一人もいない中で出家できたのですから、今不可能であるということは納得できません。

お釈迦様が悟ったときは、比丘尼どころか比丘もいなかったのです。最初は、お釈迦様の教えをいただいて、実践して、お釈迦様と同様に悟りを開いた方々は、在家生活をやめて仏陀と一緒に生活することになりました。それをお釈迦様が認めたことが仏教における出家伝統の始まりです。それから、真剣に修行したいと思った人々が「出家」を決断したところ、お釈迦様がそれを認められました。それがサンガの始まりです。それから、出家希望する人たちに必要な資格、条件、守るべき戒律、出家のしきたりなどを、お釈迦様が決めました。

ゴータミー妃の場合も、比丘尼の出家を認めてくださいとお釈迦様に頼むことになりました。比丘や比丘尼かいないとき、出家を認める権利があるのはお釈迦様だけです。その後、お釈迦様が定めた法によって、比丘が男性の出家を認める、比丘尼が女性の出家を認める権利はあります。

それはわかるのですが、女性の出家もできるように、今、戒律を変えてもよいのではないのでしょうか。

「人間は平等」という立場で真理を教えた仏陀の弟子たちの中に、比丘尼がいないことは寂しいものです。比丘尼さえいれば、堂々と胸を張って、テーラワーダ仏教において、皆のために真理を語れるはずです。比丘尼もいればありがたいなあと思わない比丘は、テーラワーダの世界には一人もいません。女性の法に対する理解も、修行にかける熱意も、仏教を守るために献身的に貢献しているその姿勢も、男性よりはるかに優れているのではないかと、比丘たちは感動を持って受け止めています。すぐれた女性の信者さんたちが比丘たちに法を教える場合も瞑想指導する場合もあります。状況はそうなのですが、比丘たちに戒律を変える権利があるのでしょうか。戒律を変えはじめると、どこまでも変えられるので、危険です。戒律を変えたのは、大乗仏教です。大乗仏教で、戒律を変え続けた結果がどうなったかは、よくご存知でしょう。テーラワーダと名乗る初期仏教は、戒律も仏陀の教えも、純粋に頑固として守ることを重んじ続けてきました。

女性を比丘尼だと認める権利は、仏陀と比丘尼たちにのみあります。弟子たる比丘たちに師匠の教えを無視することはできないのです。仏教をよく理解している女性たちも真剣に修行しますが、仏陀に逆らって教法に逆らって出家を認めなさいと、比丘を困らせることはほとんどありません。比丘尼にはなれませんが、在家の生活をやめたいと思う女性たちがいます。彼女たちはお釈迦様を侮辱することなく「出家生活」をしながら修行をしています。正式には「在家」ですが、俗世間から離れて生活しているのです。このような人達をbrahmacāri(修行者)と呼びます。出家brahmacāriと在家brahmacāriの2種類があります。テーラワーダの国々の在家brahmacāriの女性たちは髪の毛を剃って、黄色、白、ピンク、茶色などの服を着ています。そして家を出て、別の場所、道場などで生活をします。在家信者が、彼女たちにもお布施をして、生活を支えています。女性の方々は真理に従って、できる範囲の中で brahmacārini として「出家」修行しているのです。それも、女性たちの優れた智慧に基づいた行動だと、感謝を込めて見ています。

比丘たちの惰性とも感じられますが。

テーラワーダの比丘たちは、女性の問題だけではなく、他の問題についても教法を変えないのです。現代社会では、比丘たちもいろいろ決まりを変えた方が楽な生活ができると思いますが、激しい競争社会の中でも、苦労しながら仏教を守っているのです。さまざまな仏教国以外の国々での布教活動もしていますが、その国の人々に言われるからといって法を変えることはしません。これはテーラワーダの特色です。

そうであるならば、女性に比丘尼になる可能性は皆無ですね。

これは私の個人的な意見です。皆無というわけではありません。もし女性の方々5人ほどが修行して最終解脱である阿羅漢という状態に達したとします。そのとき、その方々は、生命としての目的、仏道に入った目的に達しています。資格として、仏陀と当時の阿羅漢たちの仲間に入っています。我々は悟りを得るために導いてくださいと仏法僧に帰依しますね。阿羅漢となった女性たちはその「僧」の仲間に入っているのです。仏陀が完全に認める人格に達しています。ということは、彼女たちが着ている服はどうであれ、本来の意味どおりの「出家」ということです。彼女たちだけは法を犯すことなく、後から修行したいと思う女性たちに出家を認めることができると私は思います。女性の方々は、男の仲間に入れてくれと文句を言わずに、頑張ってはいかがでしょうか。

差別がないと言われますが、ミャンマーでも瞑想道場では女性差別があると思います。実際に私はそのような経験をしました。それはどのように考えればよいのですか。

道場は修行に行くところです。心を煩悩から離し、清らかにするために励むところです。道場にまで行って、男女が仲良く交わって瞑想したいのでしょうか。すべてを捨て訓練するところで、社会的な地位や男女差などを考えるところではないのです。ここでは男女はまったく離れて、できれば顔も合わさないで修行した方がよいのです。

異性と会えば心が乱れるのですから、修行中は、男は女が邪魔だ、女は男が邪魔だ、災いのもとだと思うべきです。そうでも思わなければ、欲が消えないのです。

また、文化が違うと、気に入らないこと、合わないことも結構あると思います。ミャンマーのことはあまりわかりませんが、歴史・文化の古い国ですので、いろいろとしきたりや習慣があると思います。あなたのような外来人は、外来の文化を持っていくのですから、異文化であることを理解し、「ゴウニシタガエ」法則を守るのが筋ではないでしょうか。

現代日本で生まれた女性にとって、東南アジアのテーラワーダ世界には、女性差別が多いと感じられるのですが。

テーラワーダ世界は、西洋人もうらやましがるほど男女平等に暮らしてきました。西洋文化が偉いと勘違いしている人々は認めていないのですが。

たとえば、約50年前、スリランカに選挙制度が導入されたときも最初から男女平等に権利を与えました。またどのような仕事でも女性にできますし、結婚をするときもやめる必要はありません。子供ができれば1年間の有給休暇をもらいます。子供の学校が休みの時は子供を連れて職場に行っても、誰も何とも思わないのです。公務員の仕事でも銀行の仕事でも同じです。先日銀行に行ったとき、職員の子供が走り回っていました。みんなが暇を見つけて遊んであげる。私も私の用が終わるまでその子供と遊んでいました。スリランカではこのようなことがごく普通で、自然であり、当たり前なのです。正直に言うとときどき、『仕事を早くやれ、待たせるんじゃない』という気持ちも生まれますが、逆襲されますから怖くて言えないのです。

世界で初めての女性総理大臣もスリランカで生まれました。今は大統領制度ですが、現在の大統領も女性であり、総理大臣も年輩の女性です。

タイでも、国の経済活動のほとんどを女性が行っています。ミャンマーでも、独裁的な軍事政権に反対しているのはスーチー女史。我々の世界では、相手に能力があるかないかを聞くのであって男か女かは気にしないのです。テーラワーダ仏教国では、女性が男性を守り、男性が女性を守って生活しています。

スリランカの修行道場では「女人禁制」がないのですが、女性の修行するところは「男子禁制」です。スリランカの一般仏教信者にとってとても聖なるものである「菩提樹」と「お釈迦様の歯」を、インドからスリランカへ持った来たのは女性です。この二つは国の仏教文化の象徴でもあります。紀元前3世紀頃に比丘の伝統と仏教をスリランカに伝えたマヒンダ長老の祭りは6月にありますが、比丘尼の出家制度を伝えたサンガミッター尼の祭りは12月にあります。どちらも大変盛大に祝います。いつの時代も「男か女か」という区別をあえて考えたことはないのです。

現代日本に生まれた女性にとって、という言葉をもう一度考えていただきたいのです。結婚したら仕事を辞めなくてはならない。子供ができたら社会活動を何一つできない。それでストレスがたまって幼児虐待をする女性も、近年少なくありません。女性は総理になるどころか、政治活動においてほとんど力がない。政治の場では、男たちに対して怒りをぶつけ、ヒステリックに批判や悪口を言うばかりで、実行力のある行動を起こした女性はほとんどいない。悪く言えば日本では、淫らな行為をすること、欲におぼれた生活をすること、贅沢をすることだけに女性の自由があります。平等に活動をすることは不可能に近いのではないでしょうか。贅沢ボケで、自分の権利を獲得する方法もわからないように見えます。

失礼なことを言って申し訳ありませんが、これもまたひとつの見解であって、必ずそうですということではありません。世界的にも有名な、すばらしい活躍をされている日本女性もおられますので、その方々にはここで礼を致します。

私の今の仕事は、悟りの方法を紹介することです。概念にとらわれることは、悟りの邪魔になります。ですから、たとえ人の意見が立派そうに見えても、それが「とらわれ」であるなら、残酷だと思ってもそれを破壊します。

妄想概念にとらわれることは「苦」です。質問者の執着の苦しみに、私もつきあって苦労することになりましたが、この努力が人々の心の安らぎにとって、わずかでも支えになるならば、質問した側もされた側も、良いことをしたことになります。この文章は、質問者の修行がうまく進みますようにと思って作りましたので、お読みになってください。

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