『喜ぶ』と、徳を消費するか
9~10月号のQ&Aで、功徳について取り上げられていましたが、それについて私自身もいろいろ考えました。
いくつか質問させてください。世間一般に言われている喜びというのは、自分に本来備わっていた、あるいは善行や布施などで積んだ徳やエネルギーを消耗する行為であり、一時的には楽しいが、その一時的な楽しみがなくなってしまえば苦しみに変わるものではないかと実感しています。
業について、あまりに厳密に考える必要はないと思います。あまりにも気にすると、生きること自体がつらくなって、性格的にも柔軟性を失うおそれがあります。しかし、業について正しく理解すれば、自分を苦から守ることができます。
おっしゃるとおり、世間一般に言われている『喜び』は、過去に積んだ徳のエネルギーを消耗することになります。問題は、「喜んではいけないのか」ということです。たとえをいえば、がんばって仕事をして儲けても、その金を使わないで置いておくべきかどうか、ということです。お金を儲ける場合は、何かに使うために儲けるのであって、使う気持ちがまったくないのに、金を儲けることに励むことは『知』的な生き方とは言えません。
お金を蓄えた場合は、計画を立てて、自分で楽しみを探し求める努力をしなくてはならないのですが、業の場合(善行為の善果、悪行為の悪果の両方を意味しています)、結果は否応なしに、個人の人生につきまとうものなのです。お金と違うのはそういう点です。お金のたとえで考えると、蓄えたものを無分別に浪費するだけなら、一文無しになるでしょう。まったく使わないことにした場合も、結局は一文無しと同じでしょう。正しい選択は、計画を立てて使いつつ、蓄えることも続けることでしょう。業についても、『知』に基づいて、人生を楽しみながら、さらに徳を積むことではないかと思います。
最近私は、五感を刺激して楽しませるテレビや音楽、情報などをなるべく遮断しており、その結果、非常にこころが安定し、特に何か良いことがあったわけでもないのにニコニコと笑って楽しい気分でいられます。このような生き方はどのように思われますか。
これは先に説明しました業の使い方に似た素晴らしい生き方だと思います。ここで、業について、もうひとつのポイントを説明したいと思います。
業の場合は、善果か悪果が否応なしに人生につきまとうと説明しました。その点だけ考えると、「人生を楽しんで、何が悪いのか」という意見も、「苦しむのは過去の業のせいだから、仕方がない」という意見も成り立ってしまうのです。しかし業の問題は、それだけの単純な思考で理解すると、不幸の落とし穴に落ちてしまいます。
人生を楽しむだけでいると、どんどん欲が増えていくのです。不満も怒りも出てくるし、自分に対して「私には何の問題もないのだ」という傲慢にも陥るのです。それらが強い悪行為になります。ということは、悪行為に汚染されないで人生を楽しむことは、それほど簡単ではないということです。生きる上で不幸を感じる人も、自分に対して落ち込んだり、無気力になったり、社会に対して、また自分に対して強い怒りを抱いたりするのです。これらの感情も、悪行為になります。ですから、不幸に出会う人さえも、それで過去の悪果を使い尽くすのではなく、強力な悪行為の連続を新たに作って蓄積する羽目になるのです。強いて言えば、幸福な人にも不幸な人にも、危険な落とし穴があるということです。このようなわけで、輪廻そのものに、ありがたいことは何もない、輪廻は脱出するべきものだと、お釈迦さまはおっしゃっているのです。
この質問のようなケースの場合は、新しい悪行為を起こさないようにする努力が見られます。生きる上で、新しい悪行為を行わないとき、こころはとても楽になります。ストレスも溜まらないようになります。これが、派手に遊ばないで、気をつけて生活しているときの利点です。
一般的な生活をしている人から見れば、自由な時間を楽しまないで、損をしていると言われそうですね。
人の話に乗せられて生活すること、物事を考えることは、知的な生き方ではありません。その人がすべてをわかっているならば、あるいは他人のことを真剣に心配しているなら別ですが、普通は無責任にとやかく言っているだけです。従うべきなのは、悟った人の話、慈しみ深い人の話です。たとえ完全な納得に至っていなくても、人生を強引にでも悟った人の話に合わせることは、知的な、また仏教的な生き方です。わかりやすく言えば、悟った人の話に乗せられるのはいいのですが、それ以外の人の話は、注意して考えるべきということです。
私自身は、徳によるエネルギーを欲望の楽しみに使わないで、貯金しているんだという感じです。身体の内面が充実しています。
徳を使い尽くすということは、よくないと私も個人的に思っているところです。
しかし、業については、理解するべきポイントがもう一つあります。一人一人の生命は、計り知れないほど業を蓄積しています。私たちは過去でどれほど悪いことをしたか、どれほど善いことをしたかということを知り得ないのです。お釈迦さまがある日、ご自分の親指の爪の上に土のひとつまみを乗せて、比丘達に問いました。「比丘達よ。私の爪の上にある土と大地の土ではどちらが多いですか」。比丘達は答えました。「お釈迦さまの爪に乗せられた土は大地の土とは比べられないほどわずかなものです。大地の土の量は計り知れないほど多いものです」。それに対して、お釈迦さまはおっしゃいました。「比丘達よ。修行して、預流果のレベルに悟った人が捨てた業の量は、大地の土の量に等しい。まだ残っている業は、私の爪の上にある土の量のようにわずかです」。
この経典に基づいて考えると、『業を使い尽くす』という考え方が揺らぎます。ひとつの人生で、すべての業が襲いかかってくるということはまったくないのです。どこかに生まれたとき、その生を作り出したこころのキャパシティに応じて決められるものです。ですから、一生のうちどれくらい喜べるか、どれくらい不幸に逢うかということは、おおまかにセットされているのです。しかしこれも、その人の生き方やさまざまな条件によって変化するので、『運命は厳密に定められている』ということにはなりません。
自分の名前の書かれた他人に譲渡できない有効期限付きのホテル宿泊券か商品券をもらったとしましょう。たとえその人が面倒くさいからといって、その券を使わなかったとしても、有効期限が過ぎたら何の意味も持たなくなります。譲渡できないのですから、欲しい人にあげるわけにもいかないのです。一生につく業も、この特別商品券と似たようなものです。使わなかったら無効になります。悪行為の場合は、この法則は明るい話です。不幸になる生まれであろうとも、智慧を絞ることによって、また善行為を行うこと、こころ清らかにすることによって、その悪果を据え置きにさせることができるのです。結果を出す期限が切れたら、悪行為も無効になるのです。
善行為の場合も法則は同じです。喜ぶことを後回しにしても、有効期限(一生)が過ぎたら無効になるのです。ですが、智慧のある人々は、無分別に喜ぶことは人格の成長のさまたげになると思って、気をつけます。楽しみにふけると、こころが欲におぼれて罪を犯す羽目になるからくりを理解して、中道的な生き方を保つのです。
仏教では、「人生を楽しむなかれ」とか「思う存分楽しめ」といった極論は言っていません。「いつでも智慧を使って判断しなさい」と言えば、仏教的だと思います。ただ「喜ばない」だけで、徳を積むことにはならないのです。こころを貪瞋痴に汚染されないように生きることで、限りなく徳を積むことになります。
喜びには、外側で得られる『消費する喜び』と内側の『蓄える喜び』があるのではないかと思います。
貪瞋痴にまつわる喜びは、内側であれ外側であれ、徳を消費し、ストレスの溜まる喜びです。不貪不瞋不痴の行為は逆に、それ自体も楽しみであるし、さらに徳を蓄えるのです。