慈悲の瞑想①
「私が幸せでありますように」と念じるのはエゴでしょうか。また、これを「私に真の平安が訪れますように」という気持ちで念じてもよいのでしょうか。
「幸せでありますように」と念じることは、一応、エゴにはならないと思います。エゴをなくすための実践だと思います。エゴというのは、自己中心的なことを自分の幸せだと考えるときだと思います。「苦しんで悩んで生きていきたくない。気楽に楽しく生きていきたい」というのはどんな生命でも持つ普通の気持ちですから、幸せになりたいと思うこと自体がエゴだとは言い切れません。単純に「幸せでありますように」と念じればいいと思います。それはエゴではありません。
その替わりに「真の平安が訪れますように」と思っても、それはそれでよろしいと思いますが、とにかく、色々とゴチャゴチャ考えず、単純な気持ちで瞑想した方がいいと思います。
「私の親しい人々が幸せでありますように」「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じる際、そこに「私の幸せのため」という思いが混じってしまったら、それはエゴになってしまうのでしょうか。
それもちょっと考えすぎだと思いますね。「私のためにみんな生きてくれ」ということになると、それ自体がすごいエゴです。私の幸せは親しい人々の幸せといっしょに成り立つもので、さらに、生きとし生けるものの幸せといっしょに成り立つものです。それは「私」と「他人」という区別がない世界なのです。「みんな幸せであってほしい」という広大な、無制限な気持ちの中に私も入っているということだけなのです。
逆に考えれば簡単に理解できます。自分が幸せであっても、私の周りの人々、私の親しい人々が不幸だとすると、自分の幸せが揺れてしまいます。親しい人々が不幸になると、自分も不幸を感じることになります。次に、世界の皆が不幸のドン底に陥っているとして、自分と親しい人々だけが幸福だとすると、安心して幸福でいられますか。たとえば、ひどい食料不足で飢餓状態で、死にかけている第三世界の国の状況をテレビで見ながら、家族が美味しいご飯を食べている姿を想像してみて下さい。エゴイストでない限りご飯を美味しく感じられないと思います。このように逆に考えるとポイントが分かり易くなります。ゴチャゴチャ考えるのではなく、単純に考えて下さい。「私も幸せでいたいし、親しい人々にも幸せでいてほしい」「すべての生命にも幸せでいてほしい」と。このように考えて実践した方がいいと思います。
「私のために」と思ってしまうと、それは醜いエゴの思考で悪意です。全く瞑想にならない。私のために皆が幸せになりますようにと思うことは、成り立たない悪思考です。屁理屈ですよ。このように思って行動する人々もこの世の中にいるのです。それが人間の大きな問題です。「みんなを自分のために操ろう」と思ったら、たいへん危険なことです。独裁主義です。それをやめるために、この瞑想を紹介しているのです。(この質問 続く)