瞑想の方法
慈悲の瞑想は、一人一人を思い浮かべ集中する方がよいのか、それとも親しい人全員を記念写真のように念じてもよいのでしょうか?
二番目がベターです。気分次第で一番目もやってみても構いません。一つの方法だけに縛られない方がいいのです。要は「見返りを期待しない、欲に汚れてない」純粋な慈しみの気持ちが、自分のこころの中に現れてくればよいのです。
嫌いな人が特にいない場合は、とばしてもよろしいでしょうか?
嫌いな人がいないというのは本当ですか?
まだ会ったことがないだけかもしれません。万が一、嫌な人にあった場合に備えて実践されてはいかがでしょうか。
ポイントは、いかなる不都合な条件のなかでも、穏やかでニコニコとしていられるぐらい自分のこころが成長しているかどうかということです。
今は「嫌いな人」といわれてもあまり実感が湧いてこないようなら、その部分を止めても構いません。
子供の泣き声や雨の音等がずっとうるさく感じる中瞑想する場合、音、音とサティを入れるときりがありません。環境が悪い中瞑想をするコツがあればご指導ください。
あなたはかなり怒っています。
「音」、「うるさく感じる」、「音」、「うるさく感じる」とサティを入れてみて下さい。冷房の音、雨の音などは何回かサティを入れる。(同じ音が続くので法則的に気にならなくなります。)それから普通に「膨らみ、縮み」などを実況します。
瞑想中、イライラしてくることがあるのですが、集中することがへたなのでしょうか?
その気持ちも、怒りから生まれます。
くだらないことにイライラしないようにして下さい。イライラは怒りです。
甘えるのではなくて難しいことにチャレンジして下さい。「瞑想して気持ちよくなりますからイライラを止めます」と思って下さい。間もなく治ると思います。
非常に疲れた日が続く場合も、瞑想は頑張ってしたほうがよいのですか?
これも怒りの感情から発する質問です。
怒り族は簡単に疲れます。瞑想を頑張るのは「愚か」なことです。「頑張ってご馳走を食べる、頑張って遊ぶ」などの言葉が成り立ちますか。
瞑想でストレスも解消する。心身の疲れも取れる。穏やかになる。智慧も生じる。これを知っている人は「止めろ」言ってもやるものです。
でも怒っている人に「一万円札」をあげても、「人を馬鹿にするんんじゃないよ」とあげた人の顔にストライク一つ、飛んで来る可能性もあります。
疲れたときは「瞑想や・め・た・」と寝ても一向に構いません。お尻を叩いて屠殺所へ追い込まれる豚のような気持ちで瞑想はしないものです。
「やらなくては」という強迫観念も怒りから現れるものです。瞑想に対して明るいイメージを作ってください。やる気にならない時は止めてください。
愚か者とつき合うなと聞いたことがありますが性格的に悪い人もどこかいいところがあるように思いますし、自分が苦手なだけという場合もありますが、本当に離れた方がいい人とはどんな人でしょう?
愚か者というのは;
◎罪を犯す人
◎他人にも悪いことを勧める人
◎付合ってみても自分が堕落するのが確実で、成長する見込みはゼロの人
◎自分には他人を指導する自信もある、他人のために何かをしてあげたいという慈しみの気持ちもある、が相手が石頭で全く変わらない、このような人
◎無駄な思考をする、無駄話をする人
◎努力する気配は全くない徹した怠け者などです。
誰にでもいいところがあります。
虎にもライオンにもいいところがあります。でもペットにする場合は話は別です。自分が危険な目に会います。 愚か者が悪いでのはなくて。ペットにしたら(付合うと)自分が堕落することは折り紙つきですので止めなさいという話です。虎も、ライオンも、愚か者も、かわいいことはかわいいのです。皆に慈しみを実践すべきです。でもペットとして飼わないで下さい。
親と死に別れた淋しさを励ますには、どう考え、どんな励まし方をすればよいのでしょう?
おそらくお聞きになりたいのは「親と死に別れて淋しい友人がいます。どうすれば良いでしょうか」ということだろうと思います。その内消えますから、少々「がまん」すればいいと思います。
また、「お父さん(お母さん)、感謝します。恩恵は生涯忘れません。両親が真に自慢できるような人間になります」という生き方をすることです。清らかなこころを作って、徳を積み、両親に供養することです。
南伝大蔵教中部経典4には結跏趺坐するように書いてあります。どうしてテーラーワーダでは座り方について言わないのでしょうか。
もし「悟りを開いたすべての人々がある特定の座り方で座っていたからこそ悟りを開くことが出来ました」と経典に記されているならば、座り方は大変大事なことになります。
座って修行することは、仏教に限らずインドの諸宗教の習慣でした。呼吸瞑想などの実践方法を説くとき、お釈迦様は先ず結跏趺坐をして…と仰るのです。
しかし経典によると、「諸法が無常である」という真理を悟るために必要な条件は、『集中力』と『智慧』であって『座り方』ではないと、考える方が妥当なのではないでしょうか。
また、テーラワーダで、一般的に座り方に拘らない理由が他にもあります。
ほとんどの人々が結跏趺坐を嫌がるのです。単に足を組みたくない、組めない、強引に組んでも痛くて集中出来ないと言う現代の方々に「足を組めない=無知」と有罪判決を出すのも難しいものです。足を組めない人も悟りにチャレンジしてみても悪くないと思います。
だからと言って、原始経典を直接お読みになって理解する方々が、結跏趺坐をして修行する権利については、テーラワーダ仏教は何も言えないと思います。
結跏趺坐をして修行なさっている方々は、テーラワーダの方法について気にする必要はありません。結跏趺坐と智慧の密接な関係についてなにかご存知であるならば皆の勉強のために教えてください。
三帰依に関していくつかの疑問が有ります。
ひとつは「帰依」ということです。帰依という用語は仏陀の教えと整合しない様に思われます。帰依という言葉には信仰や信じるという意味が入るので、仏陀の教えは信仰ではないにも関わらず「仏陀を『信仰』します」「法を『信仰』します」と唱えるのは違和感が有ります。解脱していないものにとっては、必然的に三宝に対し理解不能の部分が残るので、結局は理解したつもりである(=信じている)だけであることを前提に「帰依」という用語が選ばれたのでしょうか。
帰依という単語自体に仏陀の教えが正確に伝達されなかった古代中国人僧侶達によってつくられたのでしょうから、曲解が有るかもしれません。原文と仏陀の教えに基づきsaraṇaṃ gacchāmiの意を説いて頂ければ幸いであります。
Saraṇaという概念は仏教では重大な意味を持っています。
- 仏教は先ず人々の理解能力をベースにして語られています。常識的に、具体的に、合理的にものごとを考えてほしいのです。もし法を聞いて納得を得たとします。するとその人はまた真理を知りたくてあちらへこちらへ走り回らければならないことになります。さらに詳しく知りたいのですから仏法僧に帰依をするのです。病人が医者を信じて尋ねることに似ていると思います。
- 次に、理解を深めたところで他に(神や他宗教などに)依存すること全くやめて、真理の教えに出会ったことに喜びを感じながら三帰依をするのです。「三帰依」の文はこのレベルで行うものです。
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次に、戒を守り、修行をして、自分自身で真理に目覚めるのです。(悟りの一番目の段階です。Sotāpatti)
そのとき当たり前のこととして「仏陀こそ真理を発見した者だ、教えは真理だ、悟った弟子たちも本物だ」とわかるのです。この場合、saraṇaは「確信」という意味になるのです。自分で確かめたものだから決して仏法僧に対する信頼は揺るがないのです。
この三段階です。
証拠がないにも関わらず信じることは「信仰」でしょう。
ひたすら信じることで救われると思って信じることも信仰になるでしょう。
恐怖感に襲われて、脅迫されて信じるとき、「伝統だから」「我々の文化だから」などの理由で信じることも信仰だと思います。
仏教の「信」には「理解する、納得する」ということが必要です。
「信仰します」という言葉を我々は使わず、「帰依」という言葉を使っています。「帰依します」と言うと「違和感を感じる」のはもしかすると「仏教を理解してない」からかもしれません。このような方が「三帰依を唱える」ことは意味のない行為です。矛盾だと思います。仏教についての人の気持ち、理解は、三帰依することができるようになるまで曖昧です。疑いが多いのです。故に、修行も、悟りもなりたたないのです。理解して納得を得ることが必要です。
Saraṇaの意味は「帰依」です。正しく言えば「避難」(refuge)です。「苦」に襲われている人が「仏法僧」に避難するのです。「避難します」よりは「帰依します」の方がベターであり、仏教的だと思いませんか。避難することが出来た人には安心感があるのです。喜ぶことも出来るのです。この状態を「信」というのです。信は修行が進むことによって「確信」になるのです。「悟る」という作業をするとき、安心感と作業に対する喜びが成功するための必須条件です。
仏陀、法(真理)、僧(聖者の僧団)の語も、私には日本文化に便乗し、無意識のうちに摂取される大乗教や如来蔵思想の影響で曖昧になっているので、三帰依文の指すブッダ、ダンマ、サンガの正式な定義を明示願えれば幸いです。
仏陀は釈迦牟尼仏陀、
法は仏陀の教えのことです。また修行によって得られる涅槃も法です。
僧は実践を成功した方々(聖者)です。
仏陀に帰依するのはGotama Siddharthaという人物が「悟り」を体験したからです。
法=悟りです。法=教えの場合は悟りへ導くものになるのです。ですから法に帰依するのです。
僧の場合も「悟り」を得たという基準が帰依の理由になるのです。
故に三帰依は、悟りを中心として不可分です。日本語の三帰依文が伝統的仏教用語によって表現されているので、歴史的に染みついた意味から容易に離れられないのは判りますが、各宗派が自分の定義を持っていると思います。
歴史のある言葉だから『帰依』を変える必要はないと思います。テーラワーダを勉強する方々は、三帰依のテーラワーダの定義を理解すればよいと思います。