【特別編】仏教の「戒律」をどう理解すればいいのか?
パティパダー2015年8月号(214)
長老のご著書に、ヴィパッサナー冥想を始めるに当たっては、五戒を守ることが前提だとありました。しかし、五戒を守るのは非常に厳しい状況です。不殺生戒にしても、不飲酒戒にしても、なかなか自分にはできないなと、仏道の入り口のところで逡巡しています。どうしたらいいでしょうか?
五戒のメッセージ
五戒を守ることは「道徳的な人間になりなさい」というメッセージです。「まともな、立派な、理性的で、間違ったことはしない人間になりなさい」というメッセージなんです。性格がだらしなくて、そのうえ、覚ろうってどういうことでしょうか? 覚るっていうことは、人格が完成することなんです。
そのために、われわれは自分のこころをステップ・バイ・ステップで治して行かなくちゃならないんです。人間には、なんでも一発でできることはあり得ない。なにをやっても、計画を立てて、段取りして、順番に、着々と進めるものです。世の中すべて、そうなっています。
一発でできるように見えるのは、破壊することだけですよ。自己破壊、他人破壊、世界の破壊。でもそういうことでも、なにか企画を立てる必要があります。なにか段取りがあるんです。たとえば、テロリストがどこかに爆弾を仕掛けようとするでしょう。その場合も精密に段取りしてやらなくちゃいけないんです。
物を壊すとしましょう。簡単です。たとえば瀬戸物を壊そうと思ったら、落とすだけです。しかし作るほうはどうでしょう? 瀬戸物を作ろうと思ったら、結構時間がかかる、根気のいる仕事なんです。
世にある仕事のなかでも、われわれは一番難しいことをやろうとしているんです。人格を向上させて完成させるという、オリンピックで金メダルを取るよりも難しいことに。だからちょっと、根気強く、粘り強くがんばらなくちゃいけないんです。
そこで、はじめは「道徳的に立派な人間になりなさい」という戒律からスタートするんです。仏道は、人間を乗り越える超人の道だと言われています。乗り越える前には、立派な人間でいなくてはダメです。人間として失格だったら、話にならないんです。ただ感情のままに、遺伝子の指令のままに生きることは誰だってできるんです。犬猫だってやっています。
わたしは、お釈迦さまが使っていないすごく乱暴な単語を一つ使っています。「人間と言って威張っても、われわれは他の生き物と変わりありません。まずは《ケモノ》の状態から脱出しましょう」と。お釈迦さまはそういう単語を使ってないんです。すごく乱暴な言葉ですから。
社会の普通の人間としては、自分の良心が自分を訴えない状態をまず作らなくちゃいけないんです。質問者の方は、戒律というのは一つの、儀式のように感じている可能性があります。「仏教という宗教にあるさまざまな儀式・しきたり・習慣、それができないと先に進めないんではないか?」と。しかし五戒は、決して儀式ではないんです。五戒は、自分の弱みと戦うことです。自分の《ケモノ》の精神と戦うことなんです。
人間に生まれるのは、まれにもまれ
たとえば、動物なんかは嘘つかないんです。言葉をしゃべりませんから。でも自分が飼っている犬猫はけっこう飼い主をだまそうとします。それは自分の都合でやっていることです。でも、動物はどうしても殺生を犯してしまいます。肉食動物たちに殺生はやめなさいと言っても意味がないんです。
そこで問題は、「われわれはなぜ人間になったのか?」ということです。膨大な生命の中で、人間の数は極めて少ないんです。生命の認識は、九つの次元に定着するんです。一番目の次元は、体を持って五根に頼って生きる次元です。そのなかに、地獄の生命、餓鬼道の生命、畜生、人間界、六つの天界が入ります。そのなかで、畜生界のことは、われわれにも分かります。人間と同じ次元にいるんです。微生物からクジラまで、畜生次元です。では、どれぐらいの数と種類があることでしょうか? それと人間の数を比較してみてください。比較にならないです。人間の数はあまりにも少ないんです。
生命の環境は多様多彩です。なかでも、地獄は一〇八あると言っているんですよ。それは、大地獄四つに、それぞれ一〇八の小地獄があるんだそうです。いったん地獄に堕ちたらすべて通過しなくちゃいけない。仏典にそういう話が一応あります。天界にしても同じです。ものすごく幅広くて、途方もない数の生命がいるんです。
現代的に考えても、宇宙って無限的でしょう。その宇宙に、人間と同じ生命がどれほどいると思いますか? 仏典には、お釈迦さまがごく普通に、八万四千の宇宙に話をするというエピソードがあるんですよ。事実かどうかわたしはわかりませんけど、昔から仏教の人びとは、人間の世界はここだけじゃなくて、八万四千――これはすごくたくさんという意味です――あると考えていたんです。
だからいまだに科学者は、地球と同じ条件の星を見つけてないでしょう。見つからないんです。なぜなら、惑星は光を放っていないんだから。恒星はなんとかわかるから、遠く遠く、一粒の光としてしか見えない恒星の間に、チラッと何か黒い点が横切ることを待ち構えているんですよ。よくそんなことをやると思いますよ、何年もかけて。
で、この地球を見ても、太陽の前を惑星が横切るようなチャンスはかなり少ないんです。わたしたちによく経験があるのは、月食と日食でしょう。一年に一回も起こらないでしょう。しかし推測すれば、地球と同じく生命のいる惑星はいくらでもあり得ます。
ですから、生命っていうのは、ものすごく幅広い。生命の数も宇宙のことも、人間は考えるのをやめなさいとお釈迦さまは仰っています。そんなことは考えても頭がいかれるだけだと。
それでわたしの言いたいポイントはこういうことです。この無数の生命のなかで、まれにもまれなチャンスで、われわれは人間になったんです。因果法則によって、そうなったんです。「なんで、わたしはこんな体の形になったのか?」というのは、それぞれの因果法則です。数学ができる人もいて、数学が嫌いな人もいて、音楽が得意な人もいて、音楽が全く下手な人もいたりと、あらゆる条件がそろって、肉体が成り立っているんです。
こころにしても、自分が好きなように管理できないでしょう? なんだか、こころはこころの勝手で、肉体は肉体の勝手で、それぞれの法則を持って生きているんです。
それで、すべての生命に因果法則によっていろんな制限が成り立つんです。自分の命でこれはできる、これはできない、というものがあるんです。わたしたちには神々や餓鬼道のことは分かりませんから、自分にある手あたり次第のデータで考えるしかないんです。海のなかに、イワシという魚がいるでしょう。イワシはいくら踏ん張っても、サメがやることはできないんです。タコがやることでも、イワシには無理でしょう。じゃあ猫に、水の中で生活してと言っても、無理です。食べるものも明らかに違います。ヤギ、ヒツジに人間と同じご飯を食べさせられません。そういうふうに制限があるんです。それを乗り越えられません。
動物にもこころがあります。あるんだけど、思考能力は肉体を維持する程度にストップさせています。魚にもこころはあるけど、肉体を維持する程度でストップさせています。ミミズにもこころがあるけど、ミミズとしてあの肉体を維持する、子孫を作る程度でストップさせています。その制限は全く破れないんです。
人間も肉体を持っているから、肉体の場合はいろいろ制限があります。目はあるけれど、すべて見えるわけじゃない。耳はあるけれど、すべての音が聴こえるわけじゃない。われわれに聴こえない波長の音は、存在すらしないと感じてしまう。光も、人間にはほんのわずかな帯域しか見えません。幅広い光があるのに、ほとんどは見えない。レントゲンの光も、われわれには見えない。X線という光があることを知識として知っていても、見ることはできない。だから犬が世間のすべてを知らないのと同じく、人間も存在のすべてを知っているわけではないんです。
人間にはこころの制限を外せます
そこでポイントに戻ります。人間には、こころにある制限を外せるんです。これは神に生まれてもできません。死後、神になっても、こころを自由自在に使うことはできないんです。
今、自由に使えませんよ。しかし人間にだけ、こころに制限というカギがかかってないんです。今われわれは、肉体に対してこころをギューッと「絞って」いるんです。われわれのこころが持っているすべての能力を、肉体のために使っているんです。しかしそれ以上もできるっていうことを、もう分かってほしいんです。
宇宙の研究をする人々は、人間には要らんことをやっているでしょう。普段わかるはずもないことを発見しているんです。小さなもの、ミクロ世界を調べる人々は人間に分かるはずもない、要らんことをいっぱい発見しています。分子の構造はどうなっているのか? 原子の形はどうなっているのか? 素粒子の法則は? と、そんなもの知らなくても生けていけるでしょう。
そういうふうに人間にだけ、いろんなことができる。われわれにはこころを成長させることが可能です。人間だけが、生まれるとき与えられた制限範囲を超えて、いろいろなことをやっているんです。数学って、なんでしょうか? 数学そのものは世に存在しないものでしょう? 2+2=4は、どこにある存在ですか? 数学を犬に教えてあげてください。犬にとっては数学という概念自体が存在しないんだから、理解できません。
現にわれわれは、肉体を維持するためにいろいろ調べて、数学、科学、いろんな愚かなことをやっています。しかし、それはすべて肉体を維持するために、使っているんです。数学も生きるために使っているんです。素粒子のことを勉強しても、宇宙のことを勉強しても、肉体のためにやっているんです。肉体の制限を乗り越えようという目的でやっていないんです。
お釈迦さまは、そういう人間の生き方に対して反対のことを仰います。「命は、生きることは苦しいんだから、あんまり意味がないんだから、これを乗り越えるために人間の能力を使いましょう」と提案するんです。肉体に制限されているこころを、肉体から離れて使えるようにしましょう、ということです。これは、科学者はやらないことです。いくら素粒子が、量子力学が、と言っても、肉体の次元から離れていないんです。
言葉を変えると、人間で生まれたならば、なにか宿題があるんじゃないかなぁと。理由もなくこのカギが外れたわけじゃないはずです。理由もなくカラスに翼があるわけじゃないでしょう。なんの理由もないんだけど、魚には足がないとはいえないでしょう? ちゃんと理由があるんです。
人間の義務は人間を乗り越えること
われわれには、肉体のためにではなくて、肉体を措いておいて、こころを活動させる能力があるんです。そういう理由があるんです。それこそ、われわれが人間に生まれたことの意義であって、義務なんです。人間に生まれたけれど、ただの人間のまま死ぬなよと。このチャンスは人間にしかないんだよと。
人間でいるのもほんのわずかな時間ですよ。他の生命はものすごく寿命が長いんです。われわれが知っているのは畜生ですけど、動物は地球の土で体を作っているから寿命が短い。地球の土ではないエネルギーで体を作っちゃうと、寿命はすごく長くなります。この短い時間でわれわれが「人間を乗り越える」ということは、本当に義務なんです。
これをみんな分からない。無知ですから、肉体のことしか考えていない。普通の知識範囲には入らないものなんです。われわれは目をどうするのか、耳をどうするのか、肉体をどうするのかということで精いっぱいです。
で、そこを乗り越えて、他の生命にも他の人間にもできないことをやってみてはいかがでしょうか。『慈悲の冥想』もその一つです。それは本来、誰もやらない仕事です。しかし、「わたしの嫌いな人も幸せでありますように」と思う。そこで一つ発見する。なんでそこで、ちょっと引っかかるんでしょうかと。物事を「わたし」という主語で考えているからです。その時点で思考がおかしいでしょう。「わたし」という中心・観念で物事を見ても、すべてが見えるわけじゃないでしょう。
誰の世界観が正しいんでしょうか? カラスに見える世界? ネズミに見える世界? 魚に見える世界? どれにしたって、すごく小さな世界であると分かります。猫が住んでいる世界はどうなっていると思いますか? 猫は猫で、自分・猫という見方で見ている。わたしたちも、人間・私という主語で、物事を見ている。これ自体がおかしいんです。それに気づいてもらうんです、この『慈悲の冥想』という実践方法で。
わたしという主語がなくして、「ただの生命」になってみたらどうでしょうか。ただの生命、それぞれにそれぞれの生き方がある。放っておきましょうと。あえて、蛇に足を付ける必要はないでしょう? そんなものは大きなお世話です。自分という気持ちがなければ、すべて生命として観える。生命として観えたら、嫌いな人・嫌いな生命なんていなくなるんです。いえ、いるはずがないんです。
蚊に刺されないようにする。しかし蚊を憎む必要はない
たとえば、人間だけに限って冥想せずに、すべての生命に対して冥想する。『慈悲の冥想』の言葉をつくるときに、「人々」っていう言葉を入れましたけど、ほんとは言葉を変えなくちゃいけないんです。「わたしの親しい人は……」ではなくて、「わたしの親しい生命は……」と入れ替えなくちゃいけない。「わたしの嫌いな人々が……」ではなく、「わたしの嫌いな生命が……」です。そうすると、人々より対象の幅が広くなるんです。
そういうスタンスで考えてみましょう。わたしたちは決して蚊が好きではないでしょう? 蚊は嫌いです。なぜかというと、刺すんだから。では、生命の立場で考えてください。蚊はなにか悪いことをやっているんでしょうか? 蚊にとって仕方がないでしょう。人間の血を吸わないと生きられない体に生まれちゃったんだから。かわいそうでしょう。生命が餌を求めることは間違いですか?
そこで、生命に対する慈しみが現れてくるんです。決して、蚊には刺されないようにしてください。それはいいんです。しかし、刺されたくないからといって、蚊を憎む必要はないんです。家にゴキブリが繁殖しないようにしてください。しかし、ゴキブリを憎むなよと。
人間の中でも、みんなそれぞれの自分の生き方があるんです。ある人がわたしに悪口を言う、侮辱する。わたしが怒る必要はないんです。その人は仕方がなくやっていることですから。その人になにか問題があって、わたしを侮辱したりする。そこで仏教徒は慈悲の気持を、その場合は憐れみ(カルナー)の気持ちを抱くんです。
人間の社会にもいろんな人がいる。一人一人に違う人格があって、仕方がありません。そこでわれわれは人を直そうとする。それは蛇に足を付けたそうとするような余計なことで、とんでもない侮辱・罪なんです。放っておくんです。
そういうことで、『慈しみの冥想』すら、生命は根本的にやりたがらない実践方法です。人間はジコチューで、「自分に見える世界がすべてであんたに見える世界が間違っている」とエライことを言っているところに、われわれは『慈悲の冥想』をしてみるんです。それでわれわれは宿題をやっているんです。因果法則によって与えられた宿題を『慈悲の冥想』としてやっているんです。ようするに、生命としてしっかり自分の義務を果たす、まともな人間なんです。
だから誰にも文句を言ったり、ケチを付けたりすることができなくなるんです。『慈悲の冥想』をすると、自分の周囲が不思議とスムーズに運んでいくことに気づくと思います。
肉体至上主義をやめてみる
それで、戒律の問題に戻らなければいけないんですけど、戒律は『慈悲の冥想』よりもっと根本的です。人間で生まれたっていうことは、理由があって生まれたんです。理由というのは神ではなく、因果法則です。なんの神秘も絡んでない、ただ因果法則です。因果法則によって輪廻し続けて、でも人間に生まれると、こころだけカギが外れて開錠されているんです。肉体は施錠状態です。人間は空を飛べませんし、水の中でも生活できません。食べるものもこれしか食べられない、とリミットされています。葉っぱも食べられるものは数少ない。いろんなキノコがあるけどすべて食べられるわけじゃない。でも、こころの鍵だけは外れています。
そういうことでわれわれは、宿題をやるべきなんですが、その時間もない。八〇歳まで生きるかもしれませんけど、宿題には、ほとんど時間を使ってないでしょう。皆さんはたまたま、お釈迦さまの話が耳に入ったから、たまたまここに来ただけです。そういう一部を除けば、生命は宿題をやっていないんです。皆様方は、それも人間としてブッダのメッセージを聞くチャンスをいただいたんです。宿題を実践するチャンスも手の中にあるんです。
第一の宿題は「肉体至上主義で生きるなよ」です。こころ中心に生きてみましょう。と言っても難しいでしょう。肉体を忘れて生きることもできないでしょう。超難しいことです。そこで丁寧に、「あなた、嘘つくことをやめたらどうですか?」「殺生することをやめたらどうですか?」と、五戒という形で具体的な宿題を与えているんです。ほんとうは殺生したいんです。でも、それは犬猫でもやっていますから。わたしは人間だから殺生をストップできるんだ、と。
最初は、ちょっと不自由を感じますよ。でも、やってみたら、その世界が自由であると分かるんです。嘘をつかないでいると、他の人間よりもずっと強く、自由に、不安なく悩みなく過ごせる、という自信が付いてくるんです。戒を守って生きることに、確信が湧いてきます。あいまいさも、脅えも、不安もなくなるんです。宿題をやったことで、こころの成長を感じられるんです。
戒律を守ると健康でいられる
五戒というと、酒がやめられない、という問題があります。酒はどう言いつくろっても体に毒ですよ。しかし肉体はあの刺激に依存しちゃって、やってしまいます。やめられません、ということになる。ということは肉体至上主義です。やめたら最初は、人間関係もあるし、文句とかいろんなことを言われるかもしれません。それでも決めたことをやってみると、精神の強い、優柔不断ではない人間になって、他の人々にも文句が言えなくなっちゃうんです。それだけじゃなく、肉体に関して不安を感じる必要がなくなるんです。結局、肉体を守りたいでしょう? 守りたければ、五戒も守ることです。それでこころだけじゃなくて、肉体まで守ってくれるんです。一石二鳥です。
戒律というのは、しきたり・儀式・宗教的にやらなくちゃいけないことじゃないんです。こころを管理することです。《ケモノ》のままに働いているこころを調教することです。
仏教の戒律は、五戒だけに限りません。仏教を学ぶ人は、食事も気をつけなくちゃいけない。食事の場合、気をつけるべきなのは量です。仏教は菜食主義とか言っていないんです。肉体を維持できる材料は決まっています。そこで量を考えてください。なぜならば食べるとき、美味しいんだから食っちゃうという煩悩が働いてきます。そこで仏教徒は、「美味しいから食う」ではなくて、肉体が壊れるから修復する材料を入れなくちゃいけない、燃料を入れなくちゃいけない、と考えて、どの程度肉体が壊れるかチェックして、その分だけ入れる。余分に入れたらそれは脂肪になったりコレステロールになったりして、結局、毒になるんです。
だから戒律を守ることは、肉体に対しても優しい態度なんです。われわれの体はただの肉体じゃなくて、食べ物を保管するトランクルームになっているんですよ。食べるものに限って無常が激しいんです。いつでも使用期限、賞味期限があります。すぐ壊れるから食べ物になるんです。無常でなければ食べ物になりません。石は、そう簡単には壊れません。食べ物になりません。なんでわれわれには草とか食べられないかというと、壊れるためにすごく時間がかかっちゃうんです。牛には食べられます。食べることに時間がたっぷり使えますから。われわれはジャガイモ・キャベツなどを食べます。いとも簡単に潰れて壊れるものだからです。
体をトランクルームにしちゃうと、栄養っていうのは保管できないものでしょう。すべて体の中で腐ってしまいます。細胞はなにかあったら使う目的で、せっせと保管するかもしれませんが、結局使いません。使用期限が切れてしまうんです。皆様が食べ物を買うときは、店で商品の使用期限・賞味期限をよく見て買って、それから食べているのに、結局、食べ物を体に貯めているんです。ですから、戒律を守らないことは、自分の肉体に対しても敵として行動することなんです。
やってみると、そのポイントが分かってきますよ。戒律を破るよりは守る方が楽だと。その方が幸せに生きていられるんだ、健康でいられるんだと。
八戒について
戒律を守れないという場合、そこにあるのは精神の弱みです。成長したくない、山を登りたくないという、自分の弱みです。弱音を吐くなよ、と言いたいんです。弱音を吐いたら、成長はなし。山は険しいから登るんです。楽々だったら登っても達成感がないでしょう。だれも登りたくないような、険しくて危険な頂上を制覇したら、ニュースになります。車で頂上に行ってもニュースにはなりません。人生もそうですから、道徳を守ろうとすると同じ気持ちになります。でも、最初だけです。時間がたつと、守ったほうがすごく楽になるんです。
酒を飲む場合でも、酒を飲まないほうが楽ですよ。ずっと飲んできた習慣があったんだから、最初は寂しく、きつく感じるだけ。だいたい一か月間以内で体が健康状態に戻ります。そうなったら、酒そのものが毒に感じられるようになります。「よくもこんな毒を飲んでいたな」と思うはずです。
この五戒の項目は、わたしに変える権利がないんです。他のお坊さんたちの説法を聞くと、五戒でなくて八戒を教えたりしています。八戒を守るのも難しいと思いますよ。八戒は二種類ありますが、ここでは一つのバージョンを紹介します。「不殺生、不偸盗、邪な行為をしない、嘘を言わない、乱暴な言葉を使わない、無駄話しない、悪口を言わない、正しい生活をする」という八項目の戒(Ājīvaṭṭhamaka sīla, 活命第八戒……正命を八番目とする戒)です。
こうなってくると厳しいです。仕事の上でなんの罪も犯してはいけないことになります。仏教では「正しい生活(正命)」のなかで、肉魚や動物を売ることもやめなさいと言っています。だからペットショップはできなくなります。医学はできます。しかし、医学部の学生はできなくなっちゃうんです。だって解剖などで動物を殺すでしょう。医者になった時点からは、実践できます。弁護士の仕事は……すごく曖昧です。法廷では、依頼人を勝たせるためにあらゆるカラクリを駆使しなくちゃいけませんから。正しい生活になる場合も、ならない場合もあります。農業は当然できる仕事で、商売もできる。しかし、そうやって生活するうえでも、間違ったことは一つもやってはいけません。これはすごく難しいんです。
ですから一般的なお坊さんたちの考えは、「道場に何日かいる場合はこの八戒を守れますが、在家世界では五戒にした方がいいんじゃないか。お釈迦さまがそう説かれているんだから」というものです。五戒を守りながら、ということであれば、ペットショップもできます。
わたしにはお釈迦さまが説かれた戒律について、「あなたはこの問題があるから守らなくていい」と言うことはできないんです。その権利、資格はないんです。難しくなっているということはよくわかります。それは人間の弱みですから。でも、弱みっていうのは、やはりなくさなくちゃいけないものでしょう。
自由になることが「戒(Sīla(シーラ))」の意義
ポイントはこういうことです。こころを清らかにする。汚さないようにする。その生きかたを戒律というんです。ですから五戒だけじゃないんです。なにか他のことをやっているときにこころが汚れていくならば、そこで戒を守ってないんです。ということは、ご飯を食べるときでも、体に必要なもの以上を食べちゃうとこころが汚れてしまいます。執着が働いているんです。そこで、こころが欲や執着で汚れないような生き方をすると決めたら、それも戒律です。「わたしはもう、五戒とかそういう項目では縛られていないんだ。こころが汚れないように生きてみます」と言ったら戒律を守っていることになります。縛られることが戒律ではないんです。自由になることが戒律なんです。
だから戒律という訳語はあんまり正しくない。仏教ではお釈迦さまが使っていることばで、sīla(シーラ、戒)といいます。Sīlaというのは、すごく落ち着いて穏やかに生きるという意味です。Vinaya(ヴィナヤ、律)というと細かい項目になります。Sīlaという場合は、あまり項目にならないんです。「電車に乗ったら走るなかれ」「あまりでかい声でしゃべるなかれ」などなど、項目ならいくらでも作れますよ。でも、そんなことをやったら、こころ穏やかにならないでしょう。どこまで作ればいいのかと、キリがないんです。
五戒は、さまざまある戒律項目の中でどうしても残る項目、いわば最低限の「生き方」です。間違いのない生き方なんです。それでもちょっとなぁ、と負担を感じることもあると思います。負担を感じないやり方は、「こころを汚さないように」と、それだけ気をつけること。こころを汚さないと言ったら、毎日が修行の世界になります。服を着ることも戒律に入ってくるんです、その場合。ちゃんと節度を知って服を着る。からだの面倒を見るときでも、節度を知って面倒を見る。こころが汚れないようにする。
そういうふうにいろいろ、やることが出てきます。
「五戒を守らないと冥想する資格もない」というのはちょっと余計な考えで、怒りの反応です。冥想する資格がないわけじゃなくて、「こころが汚れたままで、弱いまんまでそのままにしておきましょう」というのは成り立たない話だ、ということです。そういうことだから、冥想する前に五戒を唱えて、その間は戒を守ってみる。人間はどうしたって戒律を破るものだと仏教は知っています。知っているんだから冥想する前に五戒を授けてあげる。冥想中は破れませんから。それで戒律を守った状態で冥想ができるようになっています。
しかし、「冥想が終わり次第、戒律を破ってしまうぞ」と思っちゃうと冥想が成長しないんです。終わったら破るかどうかは措いておいて、「今、戒律を守ってください」ということです。そうすることで、こころが徐々に成長していきます。
戒律そのものはあまり問題にしなくても、すごく真剣に、素直に、正直に冥想する人々は、自動的に戒律違反を、だらしない生き方をやめているんです。わたしのまわりにも、「酒をやめるつもりはまったくない」と言っていた方々は結構いますが、結果的にやめているんです。「私は酒をやめるつもりはないんですよ」と言うものだから、わたしは「いいですよ。だったら冥想は真面目に、素直な気持ちでやってみてください」というと、その通りにするんです。やってみたら本人が酒をやめているんです。あんなのは嫌だと。
頑張るときには無理をするんじゃなくて、理性をもって、できることから着々とすればいいんです。人間に生まれるのはまれなチャンスです。理由があって人間になったんです。人間に生まれた義務があるんです。お釈迦さまがそれを言わない限り、人間には分からないんです。皆さんはもうお釈迦さまの話を聞いたんだから、人間としての義務を果たすのが義務です。われわれは人間の認識次元を破って、真理をありのままに知られる次元まで成長しなければいけないんです。
追記:失敗に悩まない
五戒を守れないと弱音を吐く方々に、ちょっとした問題があります。彼らは元々、真面目な方々なんです。五戒の話を聴いたから、真面目に守ろうとしたんです。素直であること、やるべきことを真面目に行なうのは、解脱に達する資格があるということです。ですから、弱音を吐く方々は、元々、冥想実践を成功できる資格を持っているんです。
問題は別にあります。人間は不完全です。なにをやろうとも、失敗するんです。成功ばかりの人生はありえないんです。五戒を守ろうと決めても、当然、失敗するんです。戒が破れてしまうんです。これは大きな問題ではありません。そもそも人間なので、失敗は当り前なんです。しかし、「失敗したんだ」と落ち込むことは危険です。それは、自分に対する怒りになるんです。戒律の場合は、戒律を守りなさいという仏教に対しても、お釈迦さまに対しても、怒ってしまうんです。
戒律の一項目、二項目を破っても、それはただ人間の弱みであって、重い罪を犯した、ということになりません。しかし、失敗に落ち込んだら、自分に対して、他人に対して、怒りを抱くので、罪になります。ブッダと、ブッダが説かれた真理の教えに対して、怒りを抱くことは重い罪になります。戒律を破ってしまうことは問題ではありません。それに対して落ち込むこと、自己嫌悪に陥ることが、大きな問題なんです。
「巧みであることは善である」と、お釈迦さまが説かれています。ものごとに対して、巧みなアプローチをし ましょう。あなたは五戒を守ろうと挑戦します。巧みな決まりです。しかし、人間は弱いので、一項目が破れ てしまった。それに引っかかって暗くなると、もう巧みではありません。「四つも守っているではないか」と、 ポジティブに自分の努力を評価するべきです。では、四つも項目が破れてしまったとしたら?それでも、あ なたは一つの項目を守っているでしょう。
これは、戒律が破れてもいい、守らなくてもいい、という話ではありません。守れていないものを見て自己 嫌悪におちいるのではなく、守れているものに対して、喜びを感じるべきなんです。戒律が破れてしまった時 には、自分の性格の弱いところが明確に見えます。それから、その弱みもなくそうと努力してみましょう。 人格向上する道を決してあきらめないことです。