あなたとの対話(Q&A)

【特別編】仏教的な経済理念とは?~物質的豊かさと精神的豊かさ~

パティパダー2015年9月号(215)

物質的に豊かになっていくことで、反比例しているのかわかりませんが、精神的な豊かさが無くなっていると言われます。この問題は、きちんと仏教を学び・実践すれば解決されるものなのでしょうか?

自然界のバランス

 仏教の立場から言えば、すべては調和を保って、バランスを整えておかないと危険です。物質の世界は、いつでもバランスを整えています。しかし、すべては無常の世界ですから、一回バランスを取って終わりではありません。バランスを取る作業は、無限に続くことになります。
 
 例えば、地球は自転をしています。これは不安定をなくしてバランスを取ろうとして起こる現象です。安定しようとしているのです。それには終わりがありません。ですから、ずっと自転しているのです。ちょうど太陽からの引力や、地球の重力など様々なバランスを見事に整えたところで、答えが自転するということになっているのです。地球は自転しながら、また太陽にも引っ張られているのでその周りを回る(公転)ということにもなっています。そういうことで、自転・公転という現象が起きているのです。

 ですから、自然の物質世界では、見事にバランスを取っているのです。地震が起こることも物質がバランスを取っているということなのです。決して変なことが起きているわけではありません。火山が爆発することも、バランスを整えることで起きている現象なのです。ただあるべきことが起きているに過ぎません。雷が落ちることも同じですね。自然界は、そのようにバランスを取って調和しているのです。それが物質の世界です。

こころがバランスを壊す

 しかし、このバランスを壊すのは、こころなのです。こころがバランスを壊し、危険な世界を作るのです。例えば、人間は生まれたときから自然を破壊してきたのです。自然があったから、地球上に命が現れたのです。しかし、生きていくために、その自然を壊さなくてはいけなくなるのです。それでせっかく整えられた地球のバランスが、崩れていくことになります。それでも、物質の世界はバランスを整え続けるのです。ということで、生命には終わらない戦いがあるのです。生命が自然を壊す。自然はバランスを整えようとする。それが命に対する攻撃のような現象になる。生きるということは、そのような終わりのない戦いになっているのです。

終わりなき戦い

 では、この終わりのない戦いを誰がやっているのかということ、こころがやっているのです。夜は暗い。暗いということは何も見えない。それが自然です。でも、私たちのこころは? 暗いのは怖いということで、明るい世界を作っているでしょう。ということで、いかに自然破壊しているのか。太陽が見えなくなった時点で、あらゆる方法でわれわれは灯りを作ります。それは自然界ではないことです。
 
 それで、どれぐらいの問題が起きていますかね? エネルギーに対して人間の欲望というのは限りありません。人間の欲望に叶うエネルギーを作ることは地球にはできません。この地球にもできないほどのエネルギーを要求しているのです。ですから、すべてを破壊します。それで、その破壊者は誰でしょうか? こころです。ほかの自然界では、破壊者はいません。ただバランスを取っているだけです。
 
 われわれは、自然がバランスを整えるための現象に困ったと思い、自然のバランスを壊すことに良かったと思っているのです。変でしょう。バランスが崩れたら危険でしょう。ですから、人間には限りのない戦いがある。限りのない悩み苦しみがあるのです。これはいくら戦ってもやりきれないことです。どこまで自然に逆らうのか。なぜ、ありのままに物事を放っておかないのか、ということです。

自然との調和は仏道の一項目

 ありのままにすべての物事を放っておく精神に、仏教では「解脱の境地」と言います。地震が起きても、火山が爆発しても、別に気にしません。自分が年を取っても、病気になっても、あまり気にしない。穏やかに、安穏なこころでいる。
 
 それで、誰が幸せで長生きするのかというと、自然と調和する人なのです。自然を壊す人ではありません。体に適量のご飯を食べる人が健康でいられます。美味しいものを食べたい、珍しいものを食べたい、好きなものを食べたいという人はみな体を壊すでしょう。それは自然破壊をしているからなのです。この体という物体には、ある程度で材料が必要です。必要な材料だけあげればいいのです。
 
 ですから、仏道というのは自然と調和する方法を教えているのです。それは仏道の中の一つの項目です。仏道のすべてではありません。

「物質的豊かさ」という錯覚

 はい、その前置きをした上で、出された質問に答えます。質問には「物質的な豊かさ」ということがありましたが、それは何を意味するのでしょうか? それは、自然をいかに壊したのかということでしょう。世界は「物質的な豊かさ」という言葉をよく使います。その目的を目指すことが、人生の成功だとも思っているのです。世界は智慧を開発してないのです。ただ、自分の主観・感情を知識として語っているだけです。客観的に観察するならば、人間に物質的に豊かになることはできません。それは勘違いなのです。なぜならば、地球上のさまざまな品物に執着を抱いて、「私は大富豪だ。私は豊かだ。私は億万長者だ」などなどと言っているのですが、それらの何ひとつも、自分のものにはならないのです。死ぬ時は、すべて置いて行かなければいけないのです。
 
 例えば、たくさん金があるとしましょう。その金は、あちこちにあったものを無理やり一ヶ所に留めているだけの話です。昔、金は物質的なものでしたが、今はただの数字で妄想概念でしかありません。数字だけで、存在していないのです。
 
 物質的に豊かになるということは、「自分にないものが自分にある」という錯覚を作ることです。本人が「あの土地、この建物、この車、この家、この預金は私のものだ」と思っているだけで、すべて地球のものなのです。一時的に使えるからといって、自分のものにはなりません。それなら、車をレンタルしたらその車は「自分の車」になるはずです。地球のものを自分に使えるように変えて、自分の財産だと思うのです。

 しかし、人間は自然を壊すのです。壊さなければ使えないのです。籾は食べられません。それを壊して米にして、さらに炊いてご飯にしなくてはいけないのです。ですから、「私は富豪、大金持ちだ」と言っている人は、どれくらい自然を破壊しているのかと自慢しているのです。個人資産とは、その個人がどの程度まで自然を破壊したのか、という数値なのです。ですから、物質的に豊かになるとは、自分にものにならないものを「自分のものである」と思って自慢することになるので、当然、精神面では衰えるのです。

財産はレンタルである

 そういうことですから、人々が物質的に豊かさを目指していくならば、精神的な衰えも期待するべきです。ひとは貧困になるべき、という意味ではありません。私たちは地球上のものを借りて使って生きているのです。借りるならば、命をつなげる程度のものを借りれば十分です。借りる量がそれ以下であるならば、生きることは苦しくなります。しかし一般的に、人々は命をつなぐために必要な量よりもたくさん借りるのです。借りるという言葉より、レンタルという言葉がよいと思います。レンタル業者からレンタルできるものは、たくさんあります。乗り物で言えば、自転車から最高級車のリムジンまで借りられます。ジャンボジェット機だけではなく、新幹線の全車両を貸切にすることさえも可能です。しかし、条件が一つあります。お金を払わなければいけないのです。人間は。豊かになるために必死で頑張るのです。自分の知識、能力、体力、時間を使うのです。うまく行けば豊かになります。ということは、地球の物質を自分で使用するために必要なレンタル料金を払っているということです。豊かさとはレンタルであると理解している人は、精神的に衰えません。頭がおかしくなっていないのです。現実を知っているのです。しかし、「資産は自分のものだ、所有物だ」と思った時点で、精神的に衰えが始まるのです。能力があれば、金持ちになるのは構いません。基準は、自分または家族の命をつなぐために必要な量です。ひとは誰でも、この基準を満たさなくてはいけないのです。能力があれば、基準以上に豊かになっても構わないのです。しかし、無理をする必要はないのです。家族の幸福を犠牲にして、金儲けに努力するのは愚かなことです。「財産はレンタルである」と理解しているならば、精神的に衰えない人間になれます。

リミットが成り立たない戦い

 豊かになれるかなれないか、ということは問題にしてはいけません。数字の比較になりますから、リミットが成り立たない戦いになるのです。俗世間の立場でいえば、「人はどれくらい財産があれば豊かでしょうか?」という基準はないのです。あてにならない基準はいくらでもあります。例えば、アメリカが豊かさに達している国だと妄想する。アメリカのGNIは一人あたり何ドルになるのかと、数字を出す。それから、自分の国の一人当たりの総収入はどれくらいかと調べて、豊かさを比較するのです。アメリカの数字に比べて自分の数字があまりにも低い場合は、貧乏だと思うことでしょう。国民一人あたりの総収入の世界ランクもあるのです。このような比較は、あてにならないのです。豊かになるために必要な収入は、決まってないのです。ただ、あの国よりは自分の国が貧しいか豊かかと、気分的に決めるだけです。あてにならない数字を追うことになると、精神的に衰えるのです。地球を破壊しまくるはめになるのです。一つの国がアメリカの基準に近寄ってみても、アメリカ人もさらに頑張るから、そちらの数値が上がっているのです。世界経済は、ただ終わりなき、目的なき戦いのみです。結果は自然破壊なのです。

「生かして生きる」ということ

 仏教的に言うならば、バランスを整えることが最優先です。財産を得ることで地球は破壊されますが、それを最小限にするか、破壊したものを元に戻せるように配慮するかが必要です。個人でいくら儲けてもよいわけではなく、個人で管理できる範囲で収入を得なくてはいけないのです。収入を得ようとして、自分の精神を壊すならば、生きる意味もなくなってしまうのです。商売で忙しくて、食べる暇も寝る暇も、家族の様子をうかがう暇もないと言うならば、その人は愚か者です。ただ、世界も自分も壊しまくっているだけです。「生かして生きる」という言葉があります。これは命と自然のバランスを重視する生きかたを表しています。これが正しい生きかたです。しかし、実行されてないのです。世間は「殺してでも生きる」という態度なのです。

仏教的な経済理念①「少欲」

 これから、仏教的な経済理念について考えてみましょう。「何がなんでも生きてみる」という気持ちを抑えるべきです。なぜならば、その気持ちがある場合は、他を殺してでも生きることにするからです。生きるためには財産が必要です。俗世間では、一人あたりどれくらい財産があれば十分、という数値は出てこないのです。それで終わりなき戦いになります。まず、「少欲」を実行します。「欲が少ない」という字を使っていますが、意味はもっと深いのです。

 ここで言う「欲」とは、必要、欠かせない、という基準から導き出された言葉です。ひとりの人間が生きるために欠かせない量があるのです。たとえば毎日おにぎり一個だけ食べても生きられるかも知れませんが、その量は足りないのです。ですから、身体が壊れていくのです。必要なものは衣食住薬という四種類です。それらには、欠かせない最低限があります。その量を得ることは、いとも簡単なのです。その量を得ている人も、もう少々おいしいものを食べたい、もう少々美しい服を着たい、などなどと要求が増えるのです。これはリミットが成り立たない希望になります。千円の服でも身を守れますが、もう少々いいものを期待する場合は、一着が二百万円程度の服もあるのです。そういうものを欲しがると、個人に耐えられるリミットが壊れているのです。ボールペンでも字を書けますが、一千万円の値札がついた万年筆を注文することもできます。仏教は暴走する人間の欲望に安全装置をつけるのです。それに「少欲」と言います。欠かせない量を得たところで、能力があればプラスアルファして、さらに豊かになることができるのです。そこで、「贅沢はしたいが、そこまではやりたくない」という気持ちになるのです。それで、終わりなき闘い・自然破壊である経済活動に、目標が現れるのです。目標に達したならば、経済的闘いをやめて落ち着けばよいのです。

仏教的な経済理念②「知足」

 次の単語は、「知足」です。じゅうぶん足りていると実感することです。それで初めて精神的に「豊かだ」と感じるのです。もし人が命に欠かせない財産の量を知っているとしましょう。その人が、自分の資産はどれくらいかと調べる。そうなると、必要な量以上に、たくさんの財産に恵まれていることを発見します。こころが豊かさにあふれるのです。この豊かさは、バイトしている学生さんにも、サラリーマンにも、簡単に感じられます。誰だって、必要以上なものをいっぱい持っているのではないでしょうか?「わたしは豊かである」ということを感じることができれば、精神状態は衰えないのです。

「金を儲けるために生きなさい」というのが、世界の経済的な思考です。日本では「会社のために尽くす」という言葉で、この気持ちを表しているのです。おかしな考えだと分かっていても、なかなかやめられないでしょう。仏教の経済理念では「生きるために必要な量を儲けなさい」ということになります。この基準を使えば、自分は必要以上に恵まれていることに気づくのです。

これが真理の教えです

「恵まれている」という現実に気づいたら、精神状態はさらに健康的になります。恵まれ過ぎの自分が、余分なものの一部でも返さなくてはいけないと思うのです。たとえば、お金がなくてご飯を食べられない人を見つける。「これはおかしい。わたしは恵まれ過ぎです。この人にご飯を差し上げましょう」という気持ちになるのです。要するに、世界で不幸になっている人びとを助けてあげたい気持ちになっているのです。人間が互いに協力しあうべきであると分かるならば、この世から貧困が消えるはずです。戦争も闘いも消えるはずです。みな豊かに平和に生きられますが、自然破壊も最小限になるのです。
 
 仏教の経済理念は、とてもシンプルですけど、これが真理の教えです。正しい生きかたなのです。みな豊かになる道です。世界が平和になる道です。
 
 経済的に豊かになると同時に、精神的にも豊かになる道を説かれていますが、世界の人々はこの方法を実行しようとはしないのです。人間のこころが汚れているので、ブッダの説かれる道は間違っていると勘違いするのです。お釈迦さまもそれは分かっていましたが、あえて「人の生きるべき道」を教えたのです。

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