あなたとの対話(Q&A)

管理職の心得/部下の育て方/真理の発見は面白い

パティパダー2015年10月号(216)

管理職の心得

私は仕事で管理職をしているのですが、組織としてあれをやりなさい、これをやりなさいという話が出ます。そのような時に、明らかに仏教から見ればおかしいということでも、立場的に部下にも結構無理を言うときがあります。その時に必ず「組織の一員」という言葉が出てきます。無理な仕事量であったり、営業の目標数値であったり、いろいろあります。給料をもらっているので、どうしてもやっていかなければいけないという状況です。正しくやっていても結局は組織の力や権力、そのようなものの前に、いくら正しいと思うものを言ってみたところで無力な結果になってしまうと思うのですが、どのように考えて、生きていけばいいのか教えてください。

管理できることと管理できないことを知る

 ご自分の宿題として憶えてほしいポイントがあります。管理職ということですから、よく憶えておいてください。管理できること、管理不可能なこと、という二つがあるのです。これはハッキリと分けてください。会社であるなら儲けたいというのは当然ですが、かと言って、この管理できる・できないという二つによって成り立っていることは変わらないのです。
 
 ですから、まず私たちは管理不可能なことは措いておく。それは怖い要因です。それはよくよく気をつけなくてはいけません。しかし、どうすることもできません。

 また管理できるところもあります。「どのように管理するのか?」ということです。管理できるからと言ってデータだけ取って、このようにやりなさいと言う。それは強引なやり方です。管理可能ですが、どのように管理するのか、という段取りを管理職の方は考えなくてはいけないのです。そうなってくると、人に無理は頼めないのです。

 たとえば、これぐらい利益をあげなくてはいけないと数字を決めたとする。数字を決めるのは勝手でいいのですが、その数字も管理不可能な要因によって成り立つのです。商品を売る場合は、コマーシャルなどで人を騙すこともできますが、客が買うか買わないかは管理できないでしょう。

 また世界の経済情勢によっても変わってしまうでしょう。それは管理不可能な要因です。ですから、これぐらい利益をあげたいと思ったとしても、それには管理不可能な要因がある。その影響が割り込んできた場合、どんな結果になるのかわからないのです。

管理できる要因のなかで段取りする

 ということで、管理できる要因については自分で調べて、一応それは揃えておく。結果として数字に現れるかどうかは気にする必要はありません。

 それから一人のひとに無理な量の仕事を与えると、その人にできる仕事量もできなくなってしまうのです。一日に百個できるひとに、二百個やりなさいと責めると、百個もできなくなってしまいます。なぜなら、焦ってしまうからです。たとえ百五十個やったとしても、いっぱい欠陥が出てきます。実際に商品になるかどうか調べてみると、だいたい九十個ぐらいになります。管理者たちは、そこを考えていないようです。よって最後の数字データだけを見て、興奮しストレスがかかって、はちゃめちゃになるのです。
 
 ですから、管理できるものの中で、いかに段取りをするのかということだけなのです。たとえば仕事を真面目にしている人がいるのですが、その人が良い気持ちになったら、もっと仕事をするでしょう。ですから、精神的に気持ち良くすることも大事な要因なのです。特に頑張っている人には、「あなた良く頑張ってるね。全然、心配ないや」とか、そのように褒めてあげることです。これは機械に油を差すことと同じです。機械は動くのですが、油を差した方がガタガタという音が消えるのです。

社員が「幸福になる」ための管理

 それから「幸福になる」ということも入れた管理の方が正しいと思います。なぜ仕事をするのですか? 幸福になるためでしょう。人生は数字にやられてしまっていいのですか? 幸福はどうでもいい、労働者が過労で死んでしまっても目標だけ達成すればいいとか、それは何のためで、誰のためですか?

 社員がみんな気持ち良く楽しく仕事をしているなら、素晴らしいでしょう。それはサボっているという意味ではないのです。サボっている人はクビになりますから、それは大げさな問題ではありません。仕事を意図的にやらなかったとか、意図的に誤魔化したりした人は、法律もありますからそれなりの罰を受けます。ですが、楽しくなければダメだということにしてください。そうすると上手くいくと思います。

「結果がすべて」ではなく、過程を重視する

「結果がすべて」というのは間違いです。結果は行為によって自然と現れるもので、結果がすべてではないでしょう。それぞれみんなに「良く頑張りました」という充実感があるということ、後ろめたさが何もないということ、そこが大事なポイントなのです。仏教的に言うならば、結果を重視するより家庭を重視したほうがよいのです。すべては過程の流れなのです。ある結果を出したとしても、その結果がまた別の結果につながるのです。結果を出して終わった、という現象は起こらないのです。であるならば、「すべては過程のみである」と理解したほうが楽でしょう。過程を重視することにしましょう。結果は勝手に現れるでしょう。過程を重視する場合、現れる結果は期待した結果より優れているのです。

 ですから、過程がスムーズに流れるようにすることです。我々が結果と言っているのは、実は過程のひとつに過ぎません。会社が結果をひとつ出したら、その会社はそれで解散しますか? 結果を出しました。じゃあ明日から会社はありません。人生でそういうことはありますか? 死ぬまで生きていかなくてはいけないでしょう。ですから、死ぬまで過程を大事にするのです。結果というのは、過程のひとつです。結果でありながら過程でもあるのです。そのポイントを勘違いしているから、いろんな会社や組織は、管理について結構苦しんでいるのです。


部下の育て方

職場で新しく所長という役職に就いたのですが、新入社員を自分の今のポジションまで育ててほしいという指示を受けました。どのように後継者を育てればいいのでしょうか?

部下は褒めて育てる

 褒めてあげればいいのです。「君たちは将来があるんだから、早く私を超える能力を育てなさい。君なら大丈夫だと思いますよ」と。褒めてもらうのは誰だって好きです、無明だからね。赤ちゃんであろうが、犬猫であろうが、人権侵害だけはしないように、ものすごく気を付けてください。育てる・教える過程で、叱ったりすることはあります。怒鳴らなくちゃいけないときもあります。しかし、いつでも人権侵害はしてはいけません。それだけは気を付けるのです。

 誰であろうが、脳は褒めてもらうと頑張ろうと思ってしまうのです。能力はどこまで成長するかわからないのですから、「私と同じくらいになるか、私を乗り越えるぐらい頑張ってみてください」「できると思えばできます。私にもできたんだから」と、そういうふうに慈しみを基本にして頑張ってみてください。

 誰だって人間でしょう。誰だって仕事をよくやってほしいでしょう。誰だって自分の家族を幸せにしたい。誰だって叱られたくはない。バカと言われたくはない。ですから、私も部下もみんなも平等で、生命であるという慈しみに基づけばできると思います。


真理の発見は面白い

お釈迦様は「生きることが苦である」と教えられていますが、そうであるならば、人間の存在意義とは何なのかと、解脱以外にないのかと思ってしまいます。それだけが存在意義になってしまうのかと。生きているならば、喜びや楽しみがあるはずで、解脱しか存在意義がないという考え方は、すごく不健康でネガティブな感じになってしまうのではないでしょうか?

「わかっているつもり」という失敗

 お釈迦様は生きることが苦であるとおっしゃいました。それは、お釈迦様が発見した覚りの智慧なんです。ということは、生きることが苦であると人間は気づかない。わからない。わかっているならば生きることに執着がなくなって、解脱に達しているはずなんです。われわれが解脱してないということは、生きることは苦であるとわかっていないという証拠なんです。

 あなたの失敗は、わかっているつもり、というところなんです。わかっているつもり、と言うのは誰だってあります。あなただけ間違っているわけじゃなくてね。「そんなのはわかっているんだよ、仏教は」と言う人々は結構迷信へ行きますからね。わかっているのに。

 生きることは苦であるということは、智慧で発見しなくてはいけない真理です。だから我々は、「ほんとかい、これは」というふうに挑戦するんです。生きることは苦であると言っているのは本当なのかと。

「生きることは苦」を実験する

 昨日、山口から帰ってきたんです。それで空港で、わたしはお土産を買おうかなと思っていたんです。そこへ、ある会社の人がわたしを見つけて話しかけてきて、「ちょっと話をしてもいいですか?」と言うので、あと三十分あったから、「いいですよ」と言いました。

 その人はわたしが書いた本に「生きることは苦である」と書いてあったことにびっくりして、「あ、なるほど、そういうことか」とわかったんだと。納得いきましたと。わたしはその本にこう書きました。「いったん呼吸してみてください。吐いて止めてみてください。一分、二分、止めてみたらどんな気持ちですか? それから吸って、三分ぐらい息を止めてみてください。どんな気持ちですか?」

 そうすると、耐えられない苦しみが生まれる。これは肉体的な苦しみなんです。耐えられない。耐えたら死にます。だから、われわれは呼吸するたびに「生きよう、生きよう」とする。そのとき何を期待しているんですかね。耐えられない、死ぬ羽目になる苦しみを避けているだけでしょう、生まれた瞬間から。それってわからないでしょう、呼吸することが苦しみであると。あの実験をしなきゃ、どんなものも実験してみるとわかります。

 たとえばご飯を食べる。おなかがすいているのにご飯を食べないでいてみてください。なんでご飯を食べる気になったのか? あの空腹感が耐え難いんですよ。あの苦しみがなかったら食べないんです。では、食べることをやめてみたらどうでしょうか? 一週間くらい。死にますね。

 食べることにもわれわれはすごい苦しみがあって、それをわれわれはなんとか、ごまかそうとしている。問題は、それって終わりがあるのかと? 終わりがないでしょう。

 それで逆も実験するといいんです。おなかがすいて食べる。食べて、食べて、食べて……、ものすごくたくさん食べたらどうなる? 食べるのをやめなかったら死にますね。筋肉はもしかすると、あまりにも耐えられなくて、反撃として吐いちゃう。もし筋肉が弱くて、吐くという反撃をしなかったら死にます。その人は、食べることがいかに苦しみを作るのかと経験するんです。

 呼吸は楽だと思っているでしょう? では、やってみてください。十五分間深呼吸をしてみてください。どうなるのか? 倒れます。ときどき、われわれは手を上げたり、どこかを掻いたりするでしょう。なんで? 苦しみがあるからなんです。

 面白いことは、それがないと命がないんです。だから生かしているパワーは「苦」なんです。神ではないんです。よくよく見ると、高いレベルから見ると、存在するのは「苦」だけなんです。だから「わたし、わたし」と言うのは、苦しみで「わたし」と言っているんです。それを発見した人は、「まあ、いいや、こんなのは」と執着を捨てるんです。

執着という勘違い

 勘違いは、苦しみに執着することです。「生きていきたい」と思うことです。生きていて、あんた何を期待しているのか? というと、「食いたい、寝たい」そんな程度でしょう。どこかに旅行へ行きたいとか、散歩に行きたいというそんな程度のことしか何もやっていないでしょう。そちらも調べていない。「生きていきたい。死にたくはない」は何なのかと。死って何なのかも調べていないし。

 「生きていきたいというけれど、あんた、何をするのか?」というと、毎日ワンパターンで生きているだけでしょう。それは苦しみをごまかすだけ。

 今、説明したのは肉体の苦しみだけです。それより恐ろしい苦しみは、精神にあるんです。悩み、落ち込み、プライドが傷ついたときの気持ち、どうですかね? 人に派手に侮辱されたら、その苦しみは何年もちますかね? 人に殴られてケガしても、一週間、二週間程度でしょう。だから精神の苦しみはものすごく大きいんです。

 そこで人間にとっては、俗世間的にみると、苦もあって楽もあります。仏教的なレベルでは「苦」です。だから一般的にみると、テレビを見るのも楽しい、おいしいご飯を食べるのも楽しい、幸せ。それは否定していないんです。それはそんなもんですね、と。それはどういうことかというと、肉体と精神の苦しみが、今味わっている苦しみが、早くサッと消えちゃう。消えても新しい苦しみが生まれるだけ。だから、苦しみが消えたことを、われわれは楽しみと思っているだけ。

 空腹感がありまして、その苦しみを消さなくちゃいけない。そこで、口に入れたものは、おいしく感じるんです。「ああ、おいしいものを食べられてわたしは幸せだ」と思うのは妄想です。では食べ続けてください。おなかがいっぱいになってからは、同じ食べ物でもおいしくないんですよ。まずいんです。気持ち悪いんです。だから、なんでおいしく感じたのかと言うと、おいしく感じる間は、空腹感が減っていくんです。苦が減る間は、楽しいと、人間が思うんです。それがみんな言っている「楽しみ」なんです。

 音楽を聴いて楽しいと思うならば、じーっと聴いてみてください。自分のものすごく好きな曲を一つ、繰り返し繰り返し。みなさまの携帯ででも、リピート機能にしてじーっと聴いてみる。ものすごくうるさくて気持ち悪くなってくるんですよ。ちょっと疲れたりイライラしているとき、好きな曲をちょびっと聞くと、苦しみが減る間は楽しく感じますね。

 座っているときも足を崩して「あ、楽だ」と。では崩したままでいてください。また苦しくなる。

 そういう実験をしない人にとっては、あんまり生きることは苦であるとわからないんですね。生きることが苦であるならば、生きることに意味もないんです。そんなにはしゃいで、そんな真剣に、死に物狂いで、生きよう、生きようとしているのは何なのか。それで、プラスアルファでさらに苦しみが生まれるだけ。生きようとして苦しみが増えるだけだから。で、答えは、「執着を捨てなさい。かかわるなよ。放っておきなさい」

放っておけない=煩悩

 放っておけないところは、煩悩というんです。放っておいた人には煩悩がないんです。

 俗世間の次元には、当然、喜怒哀楽はあります。一人ぼっちで、「ああ、寂しい」と孤独感があるところに友達ができたら、「ああ、幸せ」とそんな程度の、その孤独感の程度に合わせるだけ。わたしは孤独感はないんだからね。だれかと話して仲良くなったというのは、楽しくもなんともない。孤独感がある人にとっては、すごく面白いでしょう。電話かけるわ、メールするわ、あれやこれやと。みんな、ツイッターやフェイスブックに依存しているでしょう。わたしはチラチラと見たっても、人間の苦しみしか見えないんです。だからそういうものには依存しません。

 だから、生きることは苦であるというのは、否定的とかネガティブとかじゃないんです。生きることに価値があると思いたい、その前提で考えるとすごく否定的に見えるんです。客観的に科学者が観察するみたいに見ると、価値が入れられません。区別の世界でも、「これがいい、これが悪い」というのは成り立たないでしょう。ただ、これとこれが違うとみるだけ。

「発見」の面白さはポジティブ・ネガティブを超える

質問者「長老は、生きることに価値を置くことはよくないという見解をお持ちで……」

 よい・よくない、というレベルではなくて、「価値があるのか?」と調べてみるんです。わたしが「生きることは苦だ」と言ったら、「ホントなのかい?」なんですね。そこが必要なんです。わたしの話に乗せられちゃうと、ただ操られただけで意味がないんです。わかったことにならないんです。

 わたしたちが強烈にしゃべるのは、修行を始めると、みんな「やりたくない」という怠けが割り込んでくるんです。そこでわれわれは強烈に言って、やる気を引き起こす。ときどきわたしの言葉が強すぎちゃって、もともとあったやる気もなくなっちゃうことがありますけど(笑)

 それ以外は、わたしの言葉をそのまま鵜呑みにしなくてもいいんです。「ほんとかい?」というところがないと、自分で発見しないでしょう。わたしは「生きることに何の価値もない」と、区別世界で語っているんです。あなたも、その区別能力をつけなくちゃいけないんだからね。それでご自分が「ほんとかい、これは?」と自分で調べていくと、ネガティブになるとかポジティブになるとか、そんなのないでしょうと、そういう発見が面白くなっていくんです。幸せでも不幸でも、どちらでもなく、発見自体が面白いんです。感動するんです。

 最終的には、これも比較して言いますが、無知が暗いんです。苦しいんです。だから発見すると楽しみが生まれてくるんです。世界でいつでもあることでしょう。何か発見して楽しくなっちゃう。子供が算数をやってみて、答えがわかったところで楽しいでしょう。

 だからできないこと、知らないことが人間にとって苦しみなんです。だから仏教で言うでしょう。無明だと。すべての問題の原因は。無明とは知らないことです。「ほんとかい?」という言葉を使って調べていくと、無明がどんどん減っていく。その分楽しみが生まれてくる。これはネガティブ・ポジティブとかいう世界じゃないんです。

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