口は機関銃です
私は思ったことがさっと口に出てしまいます。それで時々相手を傷つけてしまうのですが、どうすればいいでしょうか。
五戒に対して少々でも尊重する気持ちがあるならば、決して起こらない問題です。
五戒の四番目は「偽りを語らない」ということです。でも、嘘にならない限り何をしゃべってもいい、ということにはならないのです。「言ってもいいこと」と「言ってはならないこと」を分別せず、不注意に、洪水が流れるようにしゃべってしまう人には「こころの管理」というものがないのです。
たとえ嘘をつかなくても、自分が発した言葉によって他を傷つけたり害を与えたりすれば、その分罪を犯したことになります。そういう言葉を意図的に話したならば、かなり重い罪になります。単なる癖で全く悪気はなく気楽にしゃべる場合でも、重罪にはならないが、罪にはなります。気楽にしゃべる能力があっても、恵みか災難かは、単純には言えません。気づくこと (sati) さえあれば、どんな能力も、限りのない恵みに変わるのです。
気楽に話せることはとても良いことです。友人達もたくさん作ることができます。しかし、災難の悲劇の大本にならないように、常に言葉に気をつけることが、絶対的に必要な条件です。
言葉に気をつける方法を教えて下さい。
何かしゃべり出す前に、以下の条件に照らし合わせてみてください。
- この言葉をしゃべると自分が幸福になりますか。後悔する、反省する、悩む気持ちになりませんか。
答えが「はい」であるならば、一つ目の条件は満たしています。聞く相手が幸福になりますか。機嫌が悪くなったり悩み苦しむことになりませんか。
答えが「はい」であるならば、二つ目の条件も満たしています。これから話そうとしている言葉によって、一般的に誰かが不幸になりませんか。社会に、またはその言葉に関係ある特定のグループに、損を与えたり害を与えたりしないのですか。第三者が聞いても、一般的に、悪い言葉だと思われないですか。
答えが「はい」であるならば、三つ目の条件も満たしています。
その三つの条件が揃っているならば、話しても良いことになります。それでも、いい気になってしゃべってはいけません。話している途中でも、条件から脱線しないように、気づきながら話すのです。話し終わってからも、いい気にならないで、話したことが良かったかどうか省みるのです。失敗を見つけたら、すぐ謝ることです。そしてその失敗を、それからの生き方の教訓にするのです。
そうなると、ひと言もしゃべれなくなるのではないですか。
やってみなきゃわからないでしょう。
やってみたところで、しゃべれなくなったならば、その人にしゃべる権利はないのです。しゃべったら、必ず罪を犯して自己破壊にもなるし、他人にも損害を与えて、社会にも迷惑をかけるのです。このような人は、生活に必要な日常会話(ご飯ができましたよ、今日は何時に帰りますか、等)以外、話してはいけないのです。ほとんど何もしゃべらないでいることは、その人にとっては、すばらしい徳になります。
その代わりに人の話をよく聞いてあげればいいのです。
他人の話を理解すると、話の善し悪しが分かるようになるのです。やがて頭が鋭くなったならば、話すことにしても良いのです。
なぜそんなに厳しいのですか。
お釈迦さまが、「無知の人の口の中に鉞(まさかり)があります。それを振って自分のすべての善を壊して自己破壊をします」と説かれたのです。
この鉞まさかりとは、口にある舌のことです。これはいい加減に気楽に振ってはならない、 とても危険な武器です。厳しいのではなく、とても優しいのです。心配して言っているのです。気楽にしゃべって地獄に落ちるよりは、沈黙を守って天国に行った方がよいのではないでしょうか。
Purisassa hi jātassa kuṭhāri jāyate mukhe,
Yāya chindati attānaṃ bālo dubbhāsitaṃ bhaṇaṃ.
生誕すると同時に人の口に鉞が生まれる。悪語を語る愚か者が、その鉞で自己破壊をする。
(Suttanipāta, 657)
仏教はこの世の中のほとんどの人々を黙らせておこうとしているのではないでしょうか。お釈迦さまの言う言葉の条件に合う人々がいるかどうか、私には疑問です。
完全なものはこの世の中にないのです。人間も不完全です。不完全だからこそ輪廻転生しているのです。
生まれてきたということ自体、その人は不完全であるということになります。
人格完成は、悟ることなのです。
「このままでいい」と傲慢な態度で思う人は、ブッダの条件を聞くと、「世界を黙らせる」と感じてしまうのです。
人は、そのままでいいわけではありません。無知のせいで生まれて、無知に導かれて生きているのです。
その無知を破ることが、人間にとっての唯一の仕事なのです。無知を破るのと同時に悟りを開き、すべての苦しみから脱出するのです。
お釈迦さまの条件は、無責任で考えたものではありません。
ブッダの説かれた、自分をコントロールする修行は、いかなる形のものであっても、智慧の開発・無知の破壊に、導くようになっているのです。ですから「正しい言葉を話そう、善なる言葉を話そう」と努力すると、必ず無知が壊れていくのです。
感覚が鈍い、気づきが遅い、思考がのろい、判断能力に乏しい、感情に操られている、ものごとに無関心…、そういう人々が「実践できるわけがない」と思ってしまうのも無理のない話です。
「難しいからやらない」というならば、何の成長も期待できない。
難しいけれどもチャレンジしてみる人が、人格を育てるのです。言葉に気づく方法を実践してみると、たちまち、鋭い、判断の速い人間になるのです。
お釈迦さまは、世間を黙らせる気持ちで言ったのではなく、人類に智慧を開発する手段を教えたのです。
(とやかく言わずに仏陀の話を聞いて世間が黙っていれば、簡単に平和な幸福な世界が出現すると思いますが…。しゃべるのならば智慧の人がしゃべればいいのですが、世の中では、智慧の人は黙っていて、無知の人ばかりが大声でしゃべっているのです。それで世の中は一向に幸福にはならなくなっているのです。)
言葉に気をつけるために他の手段もありますか。
口は機関銃だと思ったらいかがですか。
口という機関銃に〈人を傷つける〉という核弾丸を籠めて、無分別に撃ちまくっているのです。この核弾丸をはずして、その代わりに〈香りの良い、美しい花でできた〉弾丸を籠めて、的を絞って撃てば、いかがでしょうか。
では、人の言葉に自分が傷ついた場合は、仏教ではどういう態度をとるのでしょうか。いやな言葉が頭から離れず、悩まされます。
世の中にあるすべての音を、耳から脳細胞に入れておく必要はないのです。
無分別に何でも聞いて、何でも覚えておくことは、無知な行為です。読書がいいからと何でもかんでも読んでも、頭が良くなるわけではないでしょう。
美味しいからといってやみくもに食べても、健康にはなりません。
自分の平安を守るため、害を妨げるために、〈善悪を判断してくれるフィルター〉が必要です。
言葉を聞くときも〈善悪判断のフィルター〉を通さなければいけません。皆、決して使ってはいけない、間違ったフィルターを使っているようです。〈気持ちのいい都合のいい話だけ聞くフィルター〉がほとんどです。
少数派の人々は〈自分にとって悪いことだけ聞くフィルター〉を持っています。その人々は、激しい精神的な悩みに犯されています。人が良いことを言っても、それを逆さまにとって、「私の悪口を言った」と思って悩むのです。
正しいフィルターというのは、どういうものでしょうか。
自分のこころを汚す言葉、悩み苦しみを作る言葉を、聞き流せるようなフィルターです。
そして、自分の成長に値する智慧の開発を支える言葉をこころに入れるフィルターです。
ですから人の話を聞くときも、自分のため、他人のためになる言葉かどうか、その場その場で判断すればいいのです。
ためにならない言葉であるならば、おもしろそうに聞いているふりをして、聞き流せばいいのです。人の言葉によって傷ついてしまったら、聞いた人のフィルターがとても悪かったということです。入れてはいけないことを入れてくれるフィルターだったのです。その言葉をすぐに忘れてしまえば、延々とグダグダ悩ませられることはないのです。
良いことなら簡単に忘れられるでしょう? 悪いことを簡単に忘れられるようにしましょう。