あなたとの対話(Q&A)

完全な見方は簡単じゃない

日本の仏教学に、倶舎論、アビダルマ・コーシャといわれる説一切有部の教理があります。「三世に存在は実有している」と説いて、後の仏教諸派から攻撃されていますが、テーラワーダのアビダルマも同様の考えなのでしょうか。それともアビダルマという名前は同じでも違う派なのでしょうか。

「三世に存在は実有している」と言われても、その意味がお分かりでしょうか。もし理解しているならこの問題は成り立たないと思いますが。
仏教の諸宗派は、我々が経験している世界がそのまま存在するとは思っていないのです。いわゆる現象の世界です。それでは、実際の存在は何ですかという疑問に「ダルマ論」がでたのです。ダルマ論は元素論のような思考です。物質的なダルマ(元素)と心的なダルマがあります。心的なダルマの数は物質的なダルマよりはるかに多いのです。PāliやSanskrit語では「本当にあるもの」という意味でダルマ(dharma)という言葉を使うのです。専門知識用語ではないのです。たとえば、本、新聞、雑誌、ノートなどがありますが、本当に何があるかと言うと「紙」ですね。仏教の世界で、現象的な存在の中の〈本当にあるもの〉〈元素〉を調べたところで出たデータをダルマと名付けたのです。

「すべては無常だ」とわかれば悟るのに、「世は無常だ」と皆知っているのになぜ悟らないか、と疑問が現れる。そこで、現象は無常だと思ってもダメだ、ダルマが無常だとわからなくてはならないのだ、と言われるようになったのです。

時代を経ると仏教は幾つかの宗派に分派し、それと同時に自分たちの宗派の中で独自にダルマ論が発展していきました。これも仏教が分派した理由のひとつです。初期仏教では大胆な「ダルマ論」と言う程の思想体系はなかったのです。

そのうちに、ある一部の仏教思想家達の中に「ダルマが三世(過去、現在、未来)にわたって存在する」という考え方が生まれたのです。もちろん、仏教の基本思想である「無常」に逆らう気持ちはなかったのです。ですから、無常でありながら過去もある、未来もある、と言うためにたいへん苦労したのです。その思想家達が「説一切有部・Sarvāsti vāda」となったのです。

説一切有部を批判するためにテーラワーダ仏教がアビダルマを発展させたと言っても過言ではないほどです。テーラワーダ仏教は「三世実有」に真っ向から反対するのです。テーラワーダにおいては、存在するのは、今の瞬間のダルマだけです。

ダルマの数と分け方について諸宗派の間で少々違う点があります。解釈と説明はもちろん違います。しかし「ダルマ論」というテーマは同じなので、どの宗派も自分たちのダルマ論テキストに「アビダルマ」と名付けたのです。

アビダルマというものは、「仏教をとにかく論理で、知識で理解してやる」「他宗教(特に不滅の実体の存在を信じている)の批判や疑問に論理的に答えてやる」と思った学僧たちの間で現れた様々な研究成果のようなものですね。

「仏教は、心を清らかにするため、苦しみをなくすための、実践論だ」と思う方々には関係のない話でしょう。釈迦牟尼仏陀の教えは後者です。

四念処経の「内の身において身を観つづけて住み、外の身において身を観つづけて住み」というのはどういう意味でしょうか。

Vipassanā瞑想の場合は、物質の働き、こころの働きを観察することになります。すべての人間に、物質の観察はやりやすいのです。
瞑想でなくても私たちの学問知識などは、物質の観察の結果なのです。「この世は発展している、進んでいる」など、自慢げに言うこともできます。それも観察の結果なのです。物質のみを観察しても、悟りへ、解脱へは至りません。何かものを作って終るか、壊して終るかです。

そこで、仏教はありのままの観察を奨めるのです。ありのまま(yathābhūta)とは何ですか。私たちは「あって欲しい、変わって欲しい、なって欲しい」という角度で観察するのです。実際の状態を知ることにはそれほど興味がないのです。

食いたいという目的で、魚の研究をしてもジャガイモの研究をしても、当然知識は得られます。しかし、徹底的にバイアスがかかっています。アメリカがイラクの研究をしても、そのレポートのデータは間違ってはいないかもしれませんが、「敵」というバイアスがかかっています。いかなるバイアスも、たとえ「私は観察している」というぐらいのバイアスでも、入らないように観察することが、「ありのままの観察」です。

そこで、物質の観察は四念処経で、カーヤ(身)アヌパッサナー(随観)になっています。Kāyaは「身」と訳されていますが、必ずしも「からだ、肉体」という意味でもないのです。物質的なシステムはなんでも「カーヤ」なのです。瞑想実践する時に、空の星を観察しないのも、M27惑星状星雲の観察もしないのは当たり前のことで、自分の身体のことと身体に関するもののことをありのままに観察するのです。

これから内(ajjhatta)と 外(bahiddha)の観察について説明しましょう。

  1. 観察する身(kāya-物質的なシステム)によって内か外か決まります。呼吸の観察は「内の身」、死体を観察すると「外の身」です。
  2. 内にも外にも関係がある「身」もあります。地、水、火、風の観察の場合は内にもあるし、外にもあります。
  3. 自分の身体の現象の観察が済んでから、同じ現象が外にもある場合、それもありのままに観察してみる。
  4. 外の現象(例えば地水火風)を観察できたなら、自分の身体にもある同じ現象を同じレベルで観察する。
    外のみにあって内にない、また、内のみにあって外にはない、と言える物質システムはないのです。これでファーストステージが終わります。
    観察のアプローチも、内と外と二つあります。例えば、地球にいて地球を観察する、地球から離れて地球を観察する。これを仮に「内からのアプローチ」と「外からのアプローチ」と言っておきましょう。
  5. Vipassanāの場合もこの二つの方法でチャレンジをしてみるのです。例えば、呼吸の動きも、先ず内から徹底的に観て、それから外から観るようにします。遺体の観察の場合は外から始まるものですが、死の実感、腐敗の実感が湧いてきたら内・自分の身体にも当てはめてみるのです。これが、セカンドステージです。

次に「物事を完全に知る、正しく知る」(sammā)ということにチャレンジです。
俗的な言い方で言えば、「自分の痛みを知れ、他人の痛みも知れ、それから皆の痛みを知れ、そうしないと君は痛みを正しく知っているとは言えない」のです。このたとえから「智る(しる)」ということに三段階あることがわかると思います。

ありのままに物事を観察しながら、その観察対象を通してこの三段階の知ることを得るのです。これはサードステージです。この三つのステージで内の観察、外の観察、内・外の観察のやり方が終了するのです。

しかし、まだ理解できないところが沢山あると思います。実践で観察するべき対象は四つのカテゴリーに分けていますね。

  1.   身   : 物質的組織、システム(自分に関するものだけですよ)
  2.   感 覚 : 苦、楽、不苦不楽
  3.  こころ  : 明るいこころ、怠けのこころ、欲のこころ云々
  4.   法   : 苦、無常、因縁など

修行する人はその時その時自分が観察するものについて、内から観察するべきか、外から観察するべきか、簡単にわかるのです。どのように始めてもこの三つのステージを経ることになります。このやりかたで「私」「他人」というバイアスは全くない、ものごとについてありのまま観られるという智慧が得られるのです。しかしこれで悟り、解脱ということにはなりません。お釈迦さまはこの三段階で得られる智慧に対してñāṇamatta, patissatimatta という言葉を使われています。マッタ(matta/mātra)は最小の単位、僅か、微少という意味です。Ñāṇa は「智慧」で、paṭissati は「気づきが生じた」という意味になると思います。

徹底した、また鋭い観察能力で瞬間瞬間生滅変化している現象を観察しているうちに、執着するべきものなどは何もないことに何回も何回もぶつかるのです。こころが、自分も頼りにならない、頼れるものもないことに「ショック」(みたいなもの)を受けるのです。こころにいくつかの変化が起きるのです。

こころという働きは、何かの対象を取って認識作用を起こすことです。「頼る」「頼られる」の両方ともなくなったとわかる瞬間で、何にも頼らない瞬間が現れるのです。この大革命が悟りなのです。

Vipassanāでその条件を作るのです。

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