パティパダー巻頭法話

No.333(2022年12月号)

宗教と出家の違い

出家は社会に幸福を与える Religion and renunciation

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

4. Cittavaggo
第四章 花の章

  1. Yathāpi bhamaro pupphaṃ
    Vaṇṇagandhamaheṭhayaṃ
    Paleti rasamādāya
    Evaṃ gāme munī care
  • 蜜蜂は(花の)色香を害[そこな]わずに、
    をとって、花から飛び去る。
    このように、牟尼は村に行くものである。
  • 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より
    下線部の訳:スマナサーラ長老

二種類の宗教

宗教とは、人々がつくる信仰システムの総称です。さまざまな仕事をして収入を得て、家族を養ったり、社会活動をしたりするのが一般人の生き方です。そんな市井の人々にとって、トラブルに遭遇するのは日常的なことです。自分や仲間が、病気に罹ったり、死んだりする事態に直面して、恐怖感に駆られることもしばしばです。そこで彼らは、日常生活のかたわらで何かを信仰することも始めるのです。このようなケースでは、聖職者という仕事は存在しません。現代社会の宗教の中でも、イスラム教では「自分たちの宗教には聖職者がいない」と言っています。

世の中には、精神的な世界に興味を持って、俗世間の仕事をせずに修行などの儀式をおこなって、複雑な信仰システムを考え出す人々もいます。この場合は、信仰のことを体系的に詳しく知っている専門家がいるので、一般人は日常のトラブルを無くしてもらうために、自分が信じる信仰システムの専門家(聖職者)に頼むことになります。かくして、俗世間の日常的な生き方と違った生き方をいとなむ、宗教家を必要とする信仰システムが現れました。

このようにして、①聖職者がいらない宗教、②聖職者が必要な宗教、という二種類の宗教ができたのです。

聖職者の生活

宗教家・聖職者と呼ばれる人々は、おのおの修行をしたり、儀式を行なったり、祈りを捧げたりして生きています。そうすると、日常生活を支える仕事をする暇がないので、生きるために何か工夫をしなくてはいけなくなります。社会に顔を出すことを避けて、山や森に隠れて果物や木の実を食べて生活することも可能です。しかし、宗教世界に興味を抱く人々が増えると、聖職者が隠遁生活することもかなわなくなります。生活を維持管理するために、必要なものを社会から頂く必要が出てきます。そこで、俗世間と宗教世界が互いに協力しあうことになります。世俗の社会に支えられて、信仰システムが存続することになるのです。

宗教が統治権を握る

原始時代にあったシンプルな信仰システムは、いまは存在しません。しかし、精神的な悩み、生きることの不安は相変わらず皆にあります。結局のところ、どんな人間でもなんらかの信仰対象に頼っています。そうすると、宗教家・聖職者たちが一般人を管理したり、支配したりするはめになります。宗教活動に加えて、人々を支配・管理する仕事もはじまったので、聖職者たちは政治家を兼ねるようになりました。「国王は神が選ぶ」という考え(王権神授説)が長く維持されてきた一方で、社会の統治権をめぐる王権と宗教(神権)のあいだの戦いも絶えませんでした。結局のところ、宗教というシステムは俗世間の人々に支えられなくてはならないものになっています。政府または王に税金を収めて生きている一般人に対して、宗教がさらに寄付を強いるのです。政府を支えないと、平和に生きることが危うくなる。宗教を支えないと、死後のことが怖くなる。人々に悩み苦しみ不満がある限り、将来に対する心配がある限り、宗教の罠からは抜けられなくなっているのです。

出家世界

古代インドに現れたジャイナ教・仏教などの宗教は、「出家」という文化をつくりました。出家とは、妻帯することも社会の政治経済活動に参加することもしないで、こころの安穏を目指してひたすら修行に専念する人々です。この出家というシステムを選んだ修行者たちは、一般人の迷惑にならないことを重視しました。それだけでなく、俗世間の人々の不安や悩みに対して、親切にアドバイスをしたのです。俗世間の人々は、出家世界の人々と自由につきあうことができました。社会にある支配者と被支配者の区別、カースト差別、貧富の差別などなどは、出家システムには存在しません。在家の人々は、義務感にとらわれることなく、自由な意志で出家システムを支えました。自分の自由な意志で、出家システムに衣食住薬を差し上げることを布施(dāna)と言います。文字通り家を出た(社会システムから離れた)出家修行者には、俗世間の人々に「あれをください、これをください」と頼む権利はありませんでした。在家に何かを要求することは、出家システムでは道徳に反する行為になります。しかし在家の人々は、真面目に修行に励む修行者に喜んで施すことで、こころに充実感を得られたのです。それが日常的な悩み苦しみに対応できる、精神的な力にもなりました。「功徳」という専門用語は、出家への布施によって得られるこの精神的な力を指しているのです。

ブッダの世界

お釈迦さまも出家者です。釈尊の教えは、一般人を支配・管理するためのものではありませんでした。ブッダは、何にも頼らず、超越した存在に依存することもなく、自らの力で悩み苦しみを乗り越えて、こころの安穏に達する方法を皆に教えたのです。在家の人々は、お釈迦さまとその出家弟子たちの命を支えるために必要な衣食住薬を施しました。しかし、お布施の習慣は暴走すると社会に迷惑をかける危険性があったので、釈尊は出家弟子たちを厳しく戒めたのです。托鉢では一食分しか頂かない。衣は人々が捨てた布切れを拾って縫い合わせればよい。住むところは空き家か樹の下でも十分。病に罹ったら薬として牛の尿を飲めばよい。この戒めによって、出家比丘に必要な最低限の基準を定めたのです。とはいえ、在家の人々はブッダと比丘弟子たちの説法と指導によってこころの安らぎを得られたので、出家者を喜んで支えてきました。仏教の歴史を見ても、出家がお釈迦さまの定めた最低限のリミットで苦労したことはなかったのです。それでも、いまも出家比丘たちは、衣食住薬の最低限を定めたブッダの言葉を唱え続けることで、その戒めを思い出しているのです。

出家が組織に変わる

出家システムでは、個人が個人の希望で出家します。理論上では、出家とは孤独行者なのです。しかし、何人かの仲間が出家すると、そこでグループが成り立ちます。ブッダのような偉大なる師匠のもとで出家行者になる場合も、グループが現れるのです。このような出家グループは、当然、宗教組織に変わっていきます。組織には良いところも悪いところもあります。在家が出家の集まりに施しを行うことになったら、経済的な負担もかかる可能性があります。宗教組織が在家にせまって、お布施を要求するおそれもあります。そうなると、人類に迷惑をかける新たなグループが現れたことになってしまいます。

正等覚者であるお釈迦さまは、この問題をご存じでした。そこで釈尊は、出家仏弟子たちをサンガという組織にしたのです。サンガとは、皆に平等に権利のある、支配者・管理者がいない組織のことです。管理者がなければ、組織は壊れます。管理者を設けるのではなく、お釈迦さまはサンガが守らなくてはいけないルールを定めました。支配者もいない、管理者もいない、リーダーもいない、皆に平等に権利がある組織は、俗世間なら一週間も続けられないでしょう。しかし、サンガ組織はなんの問題もなく、二千五百年以上も続いてきました。サンガ組織の一人ひとりの出家修行者たちが、ブッダの戒めを自己責任で守っているので、組織に変わってしまった仏弟子たちの出家システムは、いまだに社会の迷惑になったことがないのです。

サンガの衰退

とはいえ、世のすべては無常です。サンガになんの変化も起きない、ということはあり得ない話です。歴史的には、社会の状況によってサンガが活発に活動した時代もあれば、社会が混乱に陥った時代にサンガが衰退してしまった時代もありました。しかし、衰退したサンガを復活させるときにも、ブッダの時代と異なる新たな組織にすることはなかったのです。衰退したサンガの問題点を解決して復活させる場合は、ブッダの説かれた教えに再び戻ることにするのです。ブッダの教えは、時間の制限を超えて社会に適応できる「真理のことば」なのですから。

宗教システムのあるべき姿

ここまで、宗教と社会の関係についておおまかに語ってきました。宗教は簡単に社会の迷惑になりさがる存在です。ほとんどの宗教は、迷信・信仰・超越した存在・形而上学的な概念などをベースにしているので、人の理解能力と理性が発展すると生存できなくなります。ブッダの出家修行システムは、宗教につきまとうすべての問題を発見したうえで構築されたものです。しかし、間違いを起こす人間が運用しているのだから、そのシステムも時によってトラブルが起こします。そこで皆が、ブッダのおおもとの教えに戻るならば問題は解決します。サンガ組織のあるべき姿をわかりやすい偈でお釈迦さまが語っています。

花は美しい形で咲き、花は良い香りを放つ。
蜜蜂はその花の蜜を吸って帰るが、
花の形を損なったり、花が放つ香りを消したりはしない。

この偈には隠れたポイントがあります。花は蜜をつくるけれど、それは花のためではない、ということです。花を訪れる蜜蜂や蝶々が、その蜜を自分の栄養にすればよい。要するに、花は蜜を施しているのです。ここで花というのは、俗世間・社会のことです。蜜蜂は出家修行者なのです。出家修行者は托鉢に出て村人たちの施しを頂くが、それによって村人たちにはなんの負担も生じない。出家修行者が施しを頂くことは、かえって村人たちの幸福になるのです。蜜蜂たちに好まれる花は、必ず実を結びます。この偈では、仏道の比丘たちと俗世間の社会の関係はどのようにあるべきかが語られているのです。

今回のポイント

  • 人間は不安を抱えた存在です
  • 生きる苦しみに答えを見出だせない
  • 苦しみがあるから信仰と宗教が成り立ちます
  • 宗教は社会の迷惑になる存在です
  • こころの安らぎを目指す人は宗教ではなく出家を選びます
  • 出家は社会の迷惑にならない